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『光る君へ』一条天皇崩御後、道長が敦康親王へ与えた“まぶしき闇”なる“おもてなし”

2024年10月13日 15:01  日刊サイゾー

日刊サイゾー

藤原道長を演じる柄本佑

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 前回の『光る君へ』第38回・「まぶしき闇」では、道長(柄本佑さん)や中宮・彰子(見上愛さん)が産んだ一条天皇第二皇子・敦成親王に対する呪詛の形跡が発見され、騒動が起きる様子が描かれていました。呪詛を行った円能という法師が逮捕され、尋問された結果、藤原伊周(三浦翔平さん)の関与も明らかとなっていましたね。呪詛用の木片を噛み割ってしまう三浦さんの熱演が筆者の周囲でも話題となりました。

 あれだけ歯が丈夫な平安時代の貴族は実在したのでしょうか?

 平安貴族は歯を大事にしており、伊周(そして道長)の祖先にあたる藤原師輔(もろすけ)は、子孫たちに守るべきモーニングルーティンの一貫として「楊枝を使え」と命じています。朝起きたら必ず「口をゆすいで、歯磨きをしろ」といっているんですね。

 歯磨きに使われる楊枝は、先端が房のように加工された特別な楊枝でした。成人した証しとして、貴族の男女が歯を黒く染める「お歯黒」をするのも、実は虫歯や歯周病予防の一貫です。お酢、酒などの溶液に鉄くずや古い釘などを入れて数カ月放置し、溶けたものを歯に塗っていたのですが、見た目とは裏腹に虫歯予防の効果が期待できたそうで、公家だけでなく武家や庶民の間にも広がっていきました。

 平安時代では、虫歯を「むしかめば」と呼びました。当時の代表的な医書『医心方』によると「朝晩、歯を磨けば虫歯にはならない。食事をしたら必ずうがいはしなさい」などの予防法が書かれています。それでも歯を悪くすると、当時の医療技術では無麻酔で抜歯するしかなく、なかなか大変なことになったものです。

――さて、ドラマの中で逮捕された円能法師なる男が縛られ、拷問にかけられている様子が描かれていましたが、平安時代の「取り調べ」とはどのようなものだったのでしょうか。いうまでもなくカメラ映像もなければ、DNA鑑定のような便利なツールは存在しない時代ですから、すべては容疑者の自白次第でした。しかし、奈良時代の大宝元年(701年)に成立した「大宝律令」には、犯罪者の自供を得るための拷問に関する規定が厳密に定められており、これが興味深いのです。

 同書によると、拷問のことは「拷訊(ごうじん)」または「拷掠(ごうりゃく)」と呼び、罪を犯した可能性が濃厚なのに、なかなか自白しない容疑者の拷問に使われる道具は「杖」でした。しかし長さ「三尺五寸(約106センチ)」、太さ「四部(約1,2センチ)」の杖ですから、木製のムチといってもよいでしょう。これで背中やお尻を叩くのですが、叩いてよい回数は1人につき200回まで、取り調べ回数は合計3回までというように意外なまでに細かい規定があるのです(『日本大百科全書』、「拷問」の項目)。

 ただ、天平宝字元年(757年)、ときの「女帝」である孝謙天皇に対する反逆罪で逮捕された橘奈良麻呂などの貴族たちには、鼻を削ぎ落とされたりする凄惨な拷問が加えられたとも伝わり(橘奈良麻呂の乱)、現在の刑法に相当する当時の「律」が必ずしも厳密に守られたとは限らないことはお察しのとおりです。天皇の皇子や中宮を呪詛した円能法師も相当に痛めつけられたのではないでしょうか。

 また、ドラマの中では伊周の完全失脚に伴い、道長が長男・頼通(渡邊圭祐さん)を呼び出し、彰子が産んだ第二皇子・敦成(あつひら)親王を東宮(=皇太子)にして、できるだけ早く天皇に即位いただくための計画を語ってきかせていました。伊周が後見していた、彼の甥の敦康親王(渡邉櫂さん→片岡千之助さん)は、一条天皇第一皇子なのですが、道長によると後ろ盾が弱い親王が天皇になると、臣下の間で権力争いがはじまって、逆に世の中が乱れるのでダメという理屈だったと思います。

 ネタバレになりそうですが、一条天皇(塩野瑛久さん)は寛弘8年(1011年)6月に崩御しておられます。数え年32歳の若さでした。ドラマの一条天皇はまだまだお元気そうですが、史実の一条天皇は体調がすぐれないことを理由に、何度も譲位を切り出していたにもかかわらず、道長がそれを認めなかったので、天皇の体調はさらに悪化したという経緯があります。道長にとっては自分の娘・彰子が産んだ敦成親王(第二皇子)を推したい気持ちはあっても、さすがにもう少し親王が成長してからでないと東宮にはできないという思惑があったのかもしれません。

 結局、次の天皇は年少すぎる敦康親王でも、もちろん敦成親王でもなく、一条天皇のいとこにあたる居貞(おきさだ)親王(花山天皇の異母弟)が三条天皇(木村達成さん)として即位するということになりました。三条天皇は、道長の次女・妍子(倉沢杏菜さん)と結婚しているのですが、史実の道長は、三条天皇になるべく早く退位してもらいたい一心で、かなりキツい対応をしており、実の娘である妍子の心も傷つけています。ドラマの道長が、今後、どのように描かれていくのか注目ですね。

 ドラマの中ではあくまで正義漢として描かれ続けている道長ですが、史実の道長は自分の意に沿わぬ存在には徹底的に問題がある対応を繰り返したことで有名です。ドラマでも亡き皇后・定子(高畑充希さん)が産んだ一条天皇の第一皇子・敦康親王が、義母である彰子に対し、独特の執着を見せている様子を見た道長は(『源氏物語』の光源氏と藤壺の宮の関係のように)何か危険なものを感じたのでしょうか、一刻も早く親王を彰子から遠ざけようと元服の日取りを画策するという描かれ方をしていました。

 また、そんな道長のことを、火事で伊周の屋敷に避難した敦康親王は「私を邪魔にしている(帝や中宮さまから遠ざけようとしている)」と不満に感じている様子でした。三条天皇と道長のように、敦康親王と道長も不仲だったのでしょうか?

 個人的には「なかなかに恐ろしい」と思われる所業を、道長は敦康親王にしています。

 一条天皇の崩御から3年後の長和3年(1014年)、道長は数え年16歳の敦康親王を自分の宇治の別荘でもてなしているんですね。このとき、40人もの遊女たちを招いたことが知られています(道長によると遊女たちが自発的に押しかけてきただけ、といいたいようですが)。当時の遊女には、現在でいう「夜職」の女性的な側面だけでなく、実家が没落したり、夫婦仲が悪かったりして、自分で稼がざるをえなくなった貴族女性がなる「フリーランスの女官」という側面までありました。つまり、宴会に遊女を呼ぶことには、彼女たちに歌や踊りを披露させる目的も(表向きは)あったのです。ところが、このときの道長は遊女たちが見せた芸に対する謝礼として、まずは自分の高価な装束を脱ぎ、それを褒美として渡すという当時の貴族男性特有の行動をして、それを敦康親王にも真似させているのですね。

 しかし遊女たちの前で男性が上衣を脱げば、その後はご想像どおりで、同行していた藤原実資(秋山竜次さん)が憤慨し、当日の様子を伝え聞いた三条天皇が「極めて不善のことなり(原文は和製漢文。藤原実資『小右記』)」と不快感を示すしかない乱痴気パーティーになってしまいました。道長としては、病弱な三条天皇が遠からぬ時期に後継者の皇子をもたぬまま崩御、もしくは退位することが見えているので、故・一条天皇第一皇子の敦康親王――道長の孫である第二皇子・敦成親王のライバル――を若くして性に溺れさせ、浪費の楽しみも覚えさせて潰そうと企んでいたのではないか……と思われる一幕です。

 このとき、40人の遊女たちには絹200匹(疋)、米100石などの高額の礼金も別途支払われましたが、一日の稼働で、一人当たり現在の貨幣価値で数百万円ほどは稼げたのではないでしょうか。それこそ「まぶしき闇」というしかない一面が、当時の貴族社会にはありました。