Text by 今川彩香
芸術の秋——『ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ』(森美術館)や『フェミニズムと映像表現』(東京国立近代美術館)など、フェミニズムを知ることで、より面白く見えそうな展示が開催されている。
昨年、光文社新書から『アートとフェミニズムは誰のもの?』を出版した写真研究家の村上由鶴。同著は「アートがわからない」「フェミニズムもわからない」という章を含み、その領域に詳しくない読者にも寄り添って展開される。
「フェミニズムは『反差別』の考え方だと思っている」とする村上。アート作品を読み解くための「ツール」であるフェミニズムや、「フェミニズムにゴールはあるのか?」といったことなど、アートとフェミニズムについて、たっぷり語ってもらった。
2023年8月に出版された『アートとフェミニズムは誰のもの?』。終章を含む5章で構成され、第1章「アートがわからない」、第2章「フェミニズムもわからない」から展開されている。2章では、同著が黒人女性のフェミニスト、ベル・フックスが唱えた定義を前提にしていることが示される。フックスは著書『フェミニズムはみんなのもの:情熱の政治学(Feminism is For Everybody)』で以下のように述べているという。
フェミニズムとは「性差別をなくし、性差別的な搾取をなくす運動」のことだ。(中略)私は、これがみんなの共通のフェミニズムの定義になるといいと思った。この定義が気に入っているのは、男性を敵だと言っていないことだ。問題は性差別だと、ズバリ核心をついている。より具体的に言うなら、この定義は、ありとあらゆる性差別的な意識や行動を問題にしている。そういう意識を持ったり行動をしたりするのが、女であろうと男であろうと、あるいはまた子どもであろうと大人であろうと、関係ない。また、この定義は広いものなので、社会制度のなかに構造化された性差別をも問題にできる。さらに、どこまでも開かれた定義である。 - —ベル・フックスーご著書『アートとフェミニズムは誰のもの?』でフェミニズムを説明するとき、ベル・フックスの定義を軸に据えられたのはなぜだったのでしょうか。
村上:アートとフェミニズムについての本を書くうえで、フェミニズムとはどのような考え方かを示す必要があると思いました。その際に、すでにフェミニズム系の本がたくさん出版されているなかでも、私がフェミニズムについて語るんだったら、ベル・フックスの考え方が一番フィットすると思ったんです。
ベル・フックスが言っている通り、フェミニズムが「みんなのもの」になってほしいし、できたらいいなと思っています。だから、フックスの著書が問いの答えになるように『アートとフェミニズムは誰のもの?』と問うタイトルになりました。
村上由鶴(むらかみ ゆづ)
1991年、埼玉県出身。秋田公立美術大学ビジュアルアーツ専攻助教。2023年8月に、『アートとフェミニズムは誰もの?』(光文社)を出版したほか、共著に『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ』(フィルムアート社)など。POPEYE Web「おとといまでのわたしのための写真論」、The Fashion Post「きょうのイメージ文化論」なども連載中。
—「反差別」であると最初に定義付けてくれたので、とても読みやすかったですし、共感しました。
村上:私はフェミニズムは「反差別」の考え方だと思っているのですが、なかにはフェミニストを自称しながら例えば男性や、あるいはトランスジェンダーの人々に対して差別的な発言をしている人もいて、そういう人の言葉によってフェミニズムが誤解されているのが目についたりして、それはすごく悲しいし嫌だなって。
フェミニズムは、怒りっぽい女性が男性を差別する思想だと思われがちですが、まず「反差別」であるという認識、「すべての差別がないほうがいいよね」という考え方を前提にしていることがもっと伝わっていってほしいと思っています。
—著書のなかでも、「男性を敵にするものではない」というようなことを繰り返しおっしゃっていたのが印象的でした。
村上:それでも、男性の読者から「責められているような気がして苦しい」というようなコメントをもらったことがあります。そう思われてしまうのは仕方ないようにも思うけれど、個人の問題ではなくて、社会の構造の話なんですよね。
「苦しい」気持ちになると語った男性の読者だけでなく、フェミニズムの言葉を読んだり聞いたりすることで傷つけられたように感じて、逆に怒り始めてしまう人もいる。本書で紹介したアーティストのように誰かの心に「傷」を付けてまで性差別に気づいてもらう必要もあるとも思う一方で、そうではないコミュニケーションもあっていいはず。だから私の場合は、自分の役割を「誤解を解くほうの担当」かな、と考えています。
ー誤解を解くほうの担当。
村上:フェミニズムという大きな運動を俯瞰して見たときに、いろんな人がいていいと思っているのですが、「敵ではないよ~」とか「よかったら一緒にどうすか」みたいに、私は入口のところで案内する人のようなイメージというか(笑)。
フェミニズムのことを知ったり学んだりしていくうちに、これからどうしていけばいいのかな、と疲れてしまったり、できることはもうないと絶望的に感じてしまう人も多いと思うんですよね。フェミニズムには長い歴史があるから、「もうそろそろ世界が変わってもらわないと困る」というような気持ちにもなるし、性差別が蓄積されている社会に怒りが湧いてくるときももちろんある。だから、強い言葉が出てきちゃうのも当然。でも、「敵ではない」ということを何度でも言っておかないと、誤解を招いてしまうと思っているんです。
『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社)表紙
『アートとフェミニズムは誰のもの?』では、アートを読み解くために「ツールとしてのフェミニズム」を使うことを、度々強調している。さらに、例えばゴリラに扮してジェンダー不平等を問うゲリラ・ガールズや、蜘蛛に母と娘の姿を投影したルイーズ・ブルジョワら15人のアーティストの作品を、「性差別を批判的にとらえたアーティストたちによるフェミニズムの実践」として紹介した。
—フェミニズムを「ツール」であると明示したうえで、アートを読み解かれています。
村上:フェミニズムやジェンダーの視点を使ってアートを読み解くということについては、フェミニズム批評やジェンダー批評と呼ばれる分野でテキストや研究がすでにあるので、参考にしながら書きました。
ただ、そういう文章って美術をよく知らないと難しくて、読み進めるのが苦しい人も多いと思うんです。私も大学生のときには、自分の本を読む技術や体力、知力が足りなくて、手に取っても読み進められなかったりしました。だから、高校生、大学生が読み通せるくらいの読みやすさで、私が尊敬する先人たちの文章のエッセンスのようなものが伝えられる本を書きたかった。
著書では、フェミニズムは「使うものだよ」と、ツール(手段)としてのあり方を強調しています。派閥になって肩を組むものや、同じハチマキを巻いて挑むようなものでもなくて、ペンとかフライパンとか、そういうものと同じものだよ、と。
—「手段である、ツールである」と強調したことには、どんな思いがありましたか。
村上:フェミニズムが、何かを考えるときの気軽なツールになってほしいと思っています。
社会のなかにはジェンダーがあって、「男としての責任」みたいなものを背負っている人とか、結婚して子どもを産んで、それが一番の幸せであるという女性もいるだろうと思います。そうだったとしても「性差別は嫌だ」と思うことはあり得る。
性差別を嫌だと思って、デモのような活動だったり、アーティストとして作品をつくったり、フェミニズムに対していろんな活動をできる人がいるけれど、一方で、同じ志を持ちながらも子育てに多忙である、金銭的に苦しくてもう日々の仕事で手一杯という人もいる。親の支援を受けないと生活が苦しい若い人とか、生活する人間として、いろいろな人がいますよね。
いろんな属性のひとたちがいるなかで、例えば活動的なフェミニストの人を見て、「私はこの人にはなれない」と離れていってしまうのはもったいないと思うんです。
だから、美術館に行ったときや、テレビドラマや映画を見ているときにフェミニズムというツールを試しに使ってみてはどう? と提案するのが本書のねらいでした。そういう場面で誰もがツールとして使えるようになることが第1歩になるのではないか、と考えています。実際にデモ行進や情報発信ができなかったとしても、反差別の考え方、性差別はないほうがいいよねっていう考え方を共有して、それを身近なところで実践してみてほしいです。
—『アートとフェミニズムは誰のもの?』が出版されてから1年以上経ちますが、どんな反応がありましたか。
村上:この本を書いてから、学生や読者から「フェミニズムのゴールをどのように思っているんですか」「どうしたら達成になるんですか」というようなことを聞かれることもあるんですよね。
そのときにいつも答えてるのは、たぶん、ゴールを設定するものじゃないというか——その過程、プロセスについてのことをフェミニズムと呼ぶんだろうな、と。反差別って言っていますが、「完全な平等」を実現させることって、ほぼ不可能に近いと思っていて……。
—別の問題や差別が生まれてしまう?
村上:そうなんです。でも、それを目指すのが無駄だということではなく、いまより平等に近づけていくプロセス自体が重要です。例えばいま、「これが平等です」って言い張った瞬間に、見えてない、見ていない不平等が発生し、忘れられている人たちが出てきてしまう。そんな「平等」は嘘でしかないわけですよね。
だからつねに自己点検をするべきだし、つねに社会に差別的な構造がないか見逃さないようにする。そういう視点がとても大事だと思うんですよね。
—「ゴールってどこですか」って聞いちゃう学生さんの気持ちも、よくわかります。
村上:ね。つねに同じ気持ちや熱量で続けていくのは、しんどいことだと思います。やっぱり、みんな暮らしがあるし感情があるから——もちろん何よりも人権が優先されると思いつつも——いい方向に進めるためには息切れしないこと、諦めてしまわないことが大事だなとも感じます。
—自分の体力を使い果たすんじゃなくて、継続性を担保するということでしょうか。
村上:できることを続けていくことのほうが大事って、思ってますね。
—そもそものお話になりますが、村上さんのフェミニズムに向かう原動力やきっかけって、どんなところにあるのでしょうか。
村上:何か決定的な出来事が一つあったわけではなくて。もともと中高生のときからカルチャー全般が好きでした。服が好きで、私服で通える高校に進学したんですよね。着こなしの参考にするために雑誌などを読みますよね。そうすると、例えばエマ・ワトソンやミランダ・ジェライといった人たちが、フラットな感じでフェミニズムについて語っている。だから、フェミニズムを何か「おしゃれなもの」として感じていました。
あとは……例えば、学生のときの飲み会で、男の子から「その服モテないよ」みたいなことを言われる。そうすると「いやいや、男にモテるために服を着てるわけじゃないから」って。それでも「少なからず女は男にモテるために服を着てるはずだ」とか言ってきて、もう堂々巡りになり、私は半分笑ってるけど半分怒っている、みたいな(笑)。それは、その男の子が悪いというより、社会の雰囲気のなかにそういう発想が根付いているということだと思うんです。男性だったらそうは言われないはずだろうとも感じました。そういう場面は印象深く覚えていて、女性であることを嫌だなと感じることもありました。
だからもともと、潜在的な興味はあったんだと思います。
—大学の学部生時代には写真を学ばれていますね。アート、美術への興味がもともとあったのでしょうか?
村上:全然、そんなことはなくて。さっきも言ったように、高校時代は好きなことがありすぎるので、将来は雑誌編集者になったら、興味のあること全部に触れられると思っていて、雑誌を作る人になる勉強がしたいなとぼんやり考えていた。そういうノリで写真学科に入ったら、どうやら写真を撮る人を育てる学科だったらしいと、入ってから気付きまして(笑)。
入学してからも、私はフォトグラファーとして生きていく人生プランをまったく描けなかったし、持てなかった。じゃあ、どうしようと。そうすると、現代アートの写真作品が面白いと——写真を使った美術作品なら興味が持てると思って。例えばソフィ・カルの『尾行』という、探偵に自分を尾行させて、そこで撮られた写真を作品として発表したもの。アーティスト自身がシャッターを押していないのに、どうしてそのアーティストの作品になり得るのか? というような成り立ち方などが興味深くて、これについて考えてみたいと思ったんです。
—それで、アートのことを知りたいと、大学院では美学を専攻されたんですね。
村上:大学4年生のとき、友達とニューヨークに旅行に行ったんです。そうして、現地の美術館で現代美術を見たんですよね。著書にも書いたとおり、そこでもジャクソン・ポロックの作品を見たのですが、感動ではなく、戸惑い、むしろ落胆やいらだちのような感情を覚えてしまって。わからなかったんです。そこで勉強が必要だと思えたし、「わかりたい」って強く思ったんです。
私は、美術作品を見て、まったく何も感じないというわけではないけど、何を感じているのかよくわからないと感じることが多かったんです。もやっとした何かがあって、一般的には「いいな、なんか感動した」で終わりにできる感覚なのかもしれないけれど、私にとってはそのモヤモヤが気持ち悪くてしょうがなくて、言語化したくなるんですよね。作品を見てすぐに「感動した!いいもの見た!」と納得できる人もいるでしょうが、私は残念ながらそうじゃなかった。自分のなかで言語化できてようやく落ち着くというところがあります。
—著書では、自分や仲間たちだけの世界に閉じこもり、仲間ではない人や他のトピックに目を向けない「たこつぼ化」という表現を用いて、アートとフェミニズムがそう見られがちであることに言及されていましたね。
村上:「たこつぼ化」に関しては、私がいつもそういうのが気になってしまうタイプで。いろんなものがそうなり得ると思う。例えば「映画好き」や「料理好き」にもあるだろうし、アートもそうだし、フェミニズムもそうです。
「たこつぼ化」によってその領域を深めていったり高めていったりすることがうまくいくなど、良い部分もあると思うのですが、一方でよそから入りにくくなっちゃったり、外から見て何をやってるかわかんなくなっちゃう。
それによって生じる問題もあると思っていて、「たこつぼ」のなかではすごく盛り上がってるけど、引いてみたら、その業界や分野そのものがシュリンクして、みんな興味が持てなくて、小さくなっていっちゃうことがありますよね。
—著書では最後に、フックスの「わたしたちは内なる敵を変えなくてはならない」という言葉が引用されています。
村上:アートもフェミニズムもよいかたちで存続していくために「みんなのもの」にしていけるかということを、関わる人たちが考えていく必要があると思っています。少し立ち止まって「いま、これは誰のものになっている?」と省みるのが大事かな、と。
どちらも「みんなのもののほうがいいよね」って進んできていると思うのだけど、一方で、いろんな力が働いている領域なので囲い込む力みたいなものも存在する。アートを自分たちのものにしてしまおうとする力や、「頑張っていない人はフェミニストって呼びません」というような考え方とか。
そういう場所なので、あくまで私は「いま大丈夫そう?」みたいな——偏ってないですか、独り占めしていませんかと——そういうことをつねに考えていく必要があるんだと、伝えられるといいなと思います。