トップへ

【荒木田裕子さん悼む】アラフィフ記者の“アタック”を何度も笑ってくれた“トス”に感謝 

2024年09月19日 17:44  日刊スポーツ

日刊スポーツ

荒木田裕子さん(2021年7月15日撮影)

バレーボール女子で1976年モントリオール五輪金メダリストの荒木田裕子さんが16日に亡くなった。70歳だった。


荒木田さんは秋田・角館南高(現角館高)卒業後、1972年(昭47)に日立に入社。翌73年には日本代表に選出され、74年世界選手権、76年モントリオール五輪、77年ワールドカップ(W杯)で代表メンバーとして優勝に貢献、日本女子バレーの黄金期を支えた。


記者が荒木田さんにお世話になったのは、2010年(平22)から11年にかけての1年間。50歳を目前に、芸能担当からスポーツ担当に異動になった時だった。“ボール系担当”と言ってサッカー以外の球技、ラグビー、ハンドボール、そしてバレーボールを担当した。


荒木田さんは女子の強化委員長を務めていた。日本女子バレーが世界選手権で78年の準優勝以来、32年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得した時だ。当時の女子日本代表のエースは木村沙織。若手アタッカーの迫田さおり、江畑幸子らが台頭して、地元開催もあってメダルの期待も大きかった。


初めてあいさつしたときに名刺を渡しながら、芸能担当から異動してきたことを告げると、荒木田さんは「私のことなんか知らないでしょう」と言った。慌てて「何をおっしゃる、若づくりはしていてもアラフィフです。『サインはV』『アタックNo.1』を見て育ちましたから、今の選手よりモントリオール金メダリストの荒木田さんのことの方が詳しいですよ」と言うと、笑ってくれた。


バレーボールの原稿というのは、大量得点を挙げて殊勲選手になりやすいアタッカーのネタを仕入れるのが原則なのだが、なにせアラフィフの手習い。目立たぬ司令塔のセッターに話を聞いてばかりいて、ネタに苦しんでいるとあれこれ助けてくれたのが荒木田さんだった。


他紙の原稿との違いを出すために「人妻アタッカー」「旦那の愛のメッセージ」などの表現を使って原稿を書いた。お堅いバレーボール関係者にはひんしゅくを買ったかも知れないが、荒木田さんは笑ってくれた。


今回、10年の世界選手権の原稿を読み返してみて、どれも最後に「荒木田裕子強化委員長」のコメントが書かれていて、本当にお世話になったと実感した。


記者は、その後はプロレス・格闘技担当、ゴルフ担当をへて、13年に芸能担当に復帰。荒木田さんがJOC理事として東京五輪・パラリンピックの招致活動しているのを伝える記事を、一ファンとして頼もしく思いながら読んでいた。本番の大会では組織委員会の副会長の重責も務めた。


通りがかりのようなバレーボール担当でしたが、荒木田さんの“トス”のおかげで、なんとか原稿を無事に打ち込むことができました。本当にありがとうございました。ご冥福を祈っております。【10~11年バレーボール担当=小谷野俊哉】