Text by CINRA編集部
Text by 生駒奨
Text by 稲垣貴俊
「みんなが不安な気持ちになるといいな」――柔和な表情とダークなユーモアに満ちた発言、凶暴な作風のバランスで愛される映画監督、アリ・アスター。大ヒット作『ミッドサマー』で知られる稀代の映画監督は、おそらく世間で思われているよりもずっとしたたかで、自らのパフォーマンスにも意識的だ。アスターの言葉はニュースやSNSなどで面白おかしく取り上げられてきたが、それらはあくまでも彼なりのサービス精神だと見るべきだろう。
「映画について語った言葉には後悔しかありません。『この言葉を使って良かったな』と思えたことは一度もないのです」
海外のインタビューで、アスターは自作のプロモーションについてこう語った。観客の映画体験に自分の言葉が影響を与えるようなことはしたくない、なるべく多くを語らないようにしたいと。その意志に従い、アスターは作品の核心や解釈に関するコメントをつねに回避し、自分の意図を曖昧なままにしてきた。
映画『ボーはおそれている』は、『ヘレディタリー/継承』(2018年)や『ミッドサマー』の映画会社・A24とふたたび手を組み、名優ホアキン・フェニックスを主演に迎えた監督第3作。ダークコメディであり、ホラーでもあり、サスペンスであり、ラブストーリーともいえる3時間の大長編は、アスターが「本当に長いあいだつくりたいと思っていた」物語だ。
「自分のやりたいことを自由に詰め込ませてもらった」というだけあって、作品としてのクセの強さ、そして難解さは史上屈指。その深奥に分け入って、鬼才アリ・アスターの頭のなかを覗いてみよう。
※本記事には映画『ボーはおそれている』本編の内容に関する記述が含まれます。
心配性で、いつも不安に怯えている中年男性・ボー(ホアキン・フェニックス)が、大企業を経営する母親が突如死んだと聞かされ、実家を目指して旅をする……。『ボーはおそれている』は、一見シンプルな筋立てながら、内実は複雑怪奇な全5部構成の物語。ストーリーが新たな方向に転がるたび、映画としてのトーンも変化する仕掛けだ。
『ヘレディタリー/継承』と『ミッドサマー』は「ホラー」といえる映画だったが、本作はジャンル不詳。「不条理劇」と形容するのが正しく思えるほど、アスターは典型的なストーリーテリングのセオリーをことごとく踏み外していく。観客が思ったとおりの筋書きには決してならず、予想の斜めうえをゆく展開が続き、そのうえひたすら悪いことが起こり続ける。現在と過去、事実と妄想、現実と虚構が入り乱れ、やがて映画としての「語り」自体がぐらつくにつれて、ボーだけでなく観客さえも何を信用してよいのかわからなくなるのだ。
『ボーはおそれている』より ©︎2023 Mommy Knows Best LLC, UAAP LLC and IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.
アスター自身が「ダークコメディ」だと言うように、本作はやたらと狂躁的だ。『ミッドサマー』ではクライマックスが近づくにつれて映画そのものが異様なテンションになっていったが、『ボーはおそれている』は序盤から不可思議である。全裸で人を刺す殺人鬼、路上で人に馬乗りになる暴行犯、アパートに押し入ろうとしてくるタトゥーの男。毒グモ、繰り返される「音量を下げてくれ」のメモ、なぜか水が出ない水道。その先に待つのが、母親の死という悲しい知らせだ。
治安の荒廃したエリアに暮らすボーがアパートを飛び出すまでを描いた第一部から、ボーの抱える不安を戯画化したような悲喜劇は幕を開ける。第二部は、裕福な夫婦のグレイス&ロジャーに命を助けられたボーが郊外の邸宅で過ごす時間。第三部は旅劇団「森の孤児たち」による演劇のパート。第四部は実家での出来事、そして第五部はラストの審判だ。時折、ボーの少年時代を描く回想シーンが挿入されて、彼と母親・モナの異様な関係が浮かび上がってくる。
「狂躁的」とは作品のテンションだけでなく、全編のすさまじい情報量にも言えること。ただ実家を目指すだけの物語に、アスターは、美術や小道具などの細部をつくり込むことであらゆるイメージを埋め込んだのである。
たとえば映画の序盤、ボーがセラピーを終えて家に帰る道中では、母親に「言うことを聞きなさい!」と怒られた少年がボートのオモチャをひっくり返す。これは後述するラストシーンの伏線だ。映画冒頭に映し出されるA24などのロゴには、モナが経営する架空の企業・MW社のものも含まれているが、これは初見の鑑賞では絶対に気づけないもの。随所に用意された、さまざまなイメージの「意味」が重なり合ってゆくことで、表面的なレベルでは見えてこないレイヤーがあらわになる構造だ。
こうした過剰なまでのハイテンションと情報量は、観客の目から何を隠そうとしているのか――。その根底に横たわっているのは、ストーリーと同じくシンプルな、ボーが人知れず抱える「心配」と「空虚」、そのナイーブさである。タイトルの通り、「ボーはおそれている」のだ。しかし、いったい何を?
本作の基になったのは、アスターが2011年に発表した約6分の短編映画『Beau(原題)』だ。あわててアパートの部屋を出ようとしたボーがデンタルフロスを取りに戻っているあいだに、玄関の鍵穴に挿しておいたキーが抜き取られ、住民には「お前は終わりだ!」と罵られ、事態を打開すべく電話をかけるもまともに取り合ってもらえない――。『ボーはおそれている』の冒頭部は、ほとんどそのまま短編時代の再現である。
ここからアイデアを膨らませ、アスターが長編映画である本作の脚本を書いたのは『ヘレディタリー/継承』よりも数年前のこと。当初は監督デビュー作にするつもりだったというから、この映画にアリ・アスターという作家の「最も濃い部分」が詰まっているのは必然だろう。
最大のテーマは「家族」で、彼は短編時代から家族という共同体の暗い一面を描き続けてきた。代々受け継がれる負の遺産、親子ならではの息苦しい関係、許しがたい部分を許さねばならない理不尽。『ボーはおそれている』の母親・モナは、息子を目一杯愛しながら育てたが、その愛情が見返りを求めるものであったため、ボーは人生を通じて母に縛りつけられてきた。劇中ではモナとその母親(ボーの祖母)の関係がこじれていたことも語られるが、母親を中心として3世代にわたる歪みが発生しているのは『ヘレディタリー/継承』も同じだ。
アスターが描く家族には複数の共通点がある。親が子どもを(子どもが親を)肉体的・精神的に支配していること、家族間で殺人が起こること、なぜか妹がいつも命を落とすこと(『ヘレディタリー/継承』では妹が事故死し、『ミッドサマー』では妹が両親を道連れにして無理心中した。『ボーはおそれている』では、ボーを亡き息子のようにかわいがるロジャー&グレイス夫婦の娘・トニがペンキを飲んで自殺してしまう)。そしてもうひとつ真に恐ろしいものは、いつも家の屋根裏に隠されているということだ。
なぜ妹は死ななければいけないのか、なぜ恐怖の象徴は屋根裏にいなければならないのか? こうした共通点に秘められた真実は明かされておらず、アスターは作品と自身の個人的経験を必要以上に関連づけることを好まないという。しかし2023年12月の来日時、「監督にとって家族とはどういう存在?」と問われた際、彼が「煩わしいもの、終わりのない義務」と答えたことは押さえておきたい。家族や家が恐怖の対象となることには、きっと特別な理由があるはずなのだ。
アスターと「家族」の表現にはいくつもの謎がある。しかしアスターは、『ボーはおそれている』で、ひとつだけ家族に関する新たな表現に取り組んだ。それは、強烈な「父」≒男性の存在が特殊なかたちで現れること。そこに「家族」をめぐる謎のヒントが隠されているのではないか──そのように考えてみたい。
『ヘレディタリー/継承』の父親は心優しいが何もできずに死亡し、『ミッドサマー』で父親が具体的に描写されることはなかった。ところが『ボーはおそれている』では、ボーが生まれる前に死んだという「不在の父」の存在が、母と同じくボーを始終悩ませる。ボーの父親はモナとの性交中、モナがボーを身ごもった瞬間に命を落とした。祖父もまた同じ運命をたどったため、ボーは自分にも同じ性質が宿っているのではないかと「おそれている」のだ。
その恐怖がはっきりと突きつけられるのは、先述した「屋根裏にいる恐ろしいもの」の正体である。自分よりも勇敢な(=男らしい)もう一人のボーとともにいたのは、巨大な男性器のモンスターなのだ。アスターが日本での本作プロモーションイベントで「あれは男根野郎だ」と冗談めかしながら話したように、これは不在の(見えない存在としての)父親や、あるいは母によって抑圧された男性性のメタファーとして解釈できる。
同じく日本でのイベントで、アスターは父性≒男性性の重要なイメージをもうひとつ示唆した。「少年時代のボーが船に乗っているシーンでは、威圧的で恐ろしいバスローブの男がずっと後ろにいる。なぜ彼はこちらを見ているのか、なぜボーの記憶のなかにいるのかを考えてほしい」と。彼は海外メディアのインタビューでも、船のシーンに「まったく別の物語を伝えるもの」が映っていると述べていた。
少年時代のボーは、母と乗り込んだ船のなかで、最愛の女性・エレインと出会い、初めてのキスをする。自らの恋と性愛がまさに目覚めようとするとき、その後ろではバスローブ姿の男がじっとボーを見ているのだ。それは不在の父のイメージかもしれないし、その後の彼が「おそれ」つづける性的欲求が人間の姿を借りて現れたものかもしれない。あるいはバスローブの男性そのものが恐怖の対象だとしたら、もしかするとボーには別のトラウマが、まったく別の物語があるのかもしれない(そこまで想像を広げれば、たしかに「まったく別の物語」が見えてくるだろう)。
『ボーはおそれている』より、少年時代のボー ©︎2023 Mommy Knows Best LLC, UAAP LLC and IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.
アスターは過去作から一貫して、父性と男性性、そして男の性的欲求が直線で結ばれ、その結果として取り返しのつかない悲劇が起こる物語を描いてきた。『ボーはおそれている』では、エレインと再会したボーが念願のセックスに臨むが、男性性と同じく抑圧されてきた性欲がいよいよ成就したとたん、エレインは自分のうえで息絶えてしまう。
そもそも『ヘレディタリー/継承』でも、妹が事故死した原因は、兄がパーティーに妹を連れていったにもかかわらず、気になる女の子と話すために妹を遠ざけておいたことだった。短編映画『The Strange Thing About the Johnsons(原題)』(2011年)では、息子が父親を性的に虐待したことで家族がメチャクチャになり、『The Turtle's Head(原題)』(2014年)では女好きな探偵の性器がどんどん縮んでいく。
『ミッドサマー』の大学院生は最初から下心たっぷりで、主人公の恋人・クリスチャンは村の女性とセックス(という儀式)に及んだゆえに断罪される。本作のボーも同じように、母のベッドでエレインとセックスしたことが決め手となって決定的な裁きを受けるのだ。アリ・アスターの映画では、男の性欲は必ず罰される。ボーは最後にすべてを諦めた表情を浮かべ、人生の旅はあっけなく終わるのである。
アスターの長編映画3本は、広くとらえればすべて「旅」を描いた作品であり、主人公が新しい世界を発見していく物語だ。『ヘレディタリー/継承』では家族に隠されていた信仰の世界が開かれ、母と息子は精神的苦難の旅路をゆく。『ミッドサマー』では旅行で北欧のホルガ村を尋ねた女性が、未知の文化と救済を発見する。『ボーはおそれている』も、ボーが自分の人生や、自らを取り巻く世界を発見していく物語だ。
しかし過去2作とは異なり、ボーは自分の発見した世界に対して完全なる敗北を喫する。『ヘレディタリー/継承』と『ミッドサマー』は、どちらも最後には主人公が新しい王になる物語だったが、ボーは世界の王たる母親をとうとう倒すことができず、王によって処刑を言い渡されるのだ。
すなわち、どれだけ狂躁的で過剰だとしても、この映画は一種の「地獄めぐり」なのである。現代社会の暴力と狂気を誇張したような都市の地獄、一見理想的な家族関係に充満しているトラウマと不和の地獄、自分には別の人生もありえたのではないかという夢(演劇)の地獄、実家という正真正銘の地獄、そして最後に待つ審判。どこかにある未知の世界を夢みて、ボートに乗り込み夜空の下を漕ぎ出していくことは許されない。家族にも疑似家族にも、不在の父親にも、自らの男性性にも、女性や性欲にも希望は残されていないのだ。
『ボーはおそれている』より ©︎2023 Mommy Knows Best LLC, UAAP LLC and IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.
もしかすると、アリ・アスターは「この世界は最低だ」と思い、とっくに絶望しているのかもしれない。もっとも現実世界に近い、第一部でボーが暮らしている都市の喧騒も、そうして見直せば単なる空騒ぎのように見えはしないだろうか。
ラストシーンでは、水上の法廷に集まった満員の観衆のまえで、船に乗せられたボーがモナから断罪される。ボーの乗るボートが転覆すると、観客たちは少しずつ立ち上がって会場をあとにする。画面が切り替わらないままエンドクレジットが流れはじめたとき、映画館に足を運んだ観客たちも、一人またひとりと劇場を去っていっただろう(ソフトや配信でこの映画を観たならば、その途中で再生を止めたり、手元のスマートフォンを手に取ったりしたかもしれない)。
私たちもまた、ボーの人生と審判を見守る観客の一人だ。旅劇団「森の孤児たち」の一員が「観客と演者の境を曖昧にしたい」と口にするのは、映画の最後でスクリーン上の観客と劇場の観客を同じ存在として扱うことの予告だったのである。
ボーの人生と同じく、観客にとっても映画はあっさりと終わりを迎える。そのことを観客は受け入れ、ひとまずの答えを出して家に(現実に)帰ってしまうだろう。しかし、それで本当によいのだろうか。その後、観客はこの映画のことをどれくらい思い返すのだろう?
アスターは『ボーをおそれている』について、「あらゆる意味で実験的」な作品であり、「この手の映画は今後二度とつくらない」と言い切った。そして同時に、この映画についてもっと考えてほしいと要求するのだ。そこに感じ取れるのは、深い絶望と、それでも諦めきれない意志――それらはやはり、劇中のボーに通じているものである。
[参考資料]
・Ari Aster doesn’t want to explain Beau Is Afraid(Vox)
・Ari Aster Answers All Your Questions About ‘Beau Is Afraid’(The Daily Beast)
・Ari Aster Still Wants You to Consider Beau Is Afraid(Vanity Fair)