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ヒクソン・グレイシー『最後の闘い』。視力を失った危機を如何に乗り越えたのか?

2024年08月26日 18:10  マイナビニュース

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画像提供:マイナビニュース
「400戦無敗」「最強の男」と称された伝説の格闘家ヒクソン・グレイシーの生き様、実像に迫るドキュメントを3話構成でお届けする。最終話は、『ヒクソン最後の闘い』─。


2000年5月26日、東京ドーム『コロシアム2000』での船木誠勝戦が、ヒクソンにとってのラストファイトとなった。結果は1ラウンド11分46秒、チョークスリーパーを決めての勝利。だが、この一戦は「最強の男」にとって大苦戦。試合中、「まさか!」の事態に見舞われていたのだ。〈『ヒクソン・グレイシー危機一髪!『400戦無敗』の男がもっとも苦しんだ闘いとは?』から続く〉

○■ヒクソンの告白



東京・文京区にある椿山荘(フォーシーズン・ホテル)。その庭園にある茶室に旧知の5人で集まったことがあった。

“雀鬼“桜井章一氏、後にヒクソンから柔術・黒帯を授与された唯一の日本人である渡辺孝真・アクシス柔術アカデミー代表、ヒクソン、当時の夫人・キム氏、そして私。

船木戦から数カ月後のことだ。



ゆったりとした空間での語らい。話題は自然に「ヒクソン×船木戦」へと流れる。

「今回は思わぬ苦しい闘いになった」

笑みを浮かべながらそう口にし、ヒクソンは続けた。

「試合中に視力を失い何も見えなくなった。こんな経験は初めてだったよ」



そう聞かされて私は驚き、桜井氏と顔を見合わせた。

(視力を失った? 何も見えなくなった?)

試合を振り返ってみよう。

開始直後に両者は組み合う。

テイクダウンを決めグラウンドに持ち込みたいヒクソンと倒されたくない船木。コーナーを背に船木が踏ん張る状態が数分続いた。その後、両者は縺れ合うようにしてグラウンドへ。この時に船木がヒクソンの顔面に何発かのパンチを見舞う。



ヒクソンが振り返る。

「あの時、私はパンチを目にもらってしまった。オープンフィンガー・グローブだったのでフナキの指が目に入った。故意ではなく偶然だったと思う。ただ、その時に私の眼球が圧迫された。大動脈の神経は両目をつないでいる。ダメージを受けたのは左目だったが、それにより両目の視力を一時的に失ったんだ。

まったく見えなくなったことに驚き、不安な気持ちになった。だが、パニックを起こすことはなく私は冷静だった。あの時、すぐに思ったんだ。視界が閉ざされたことを絶対に相手に気づかせてはならないと」


○■「最後の相手がフナキで良かった」



ヒクソンがグラウンドに寝そべり、船木が立っている。いわゆる「猪木―アリ」状態。セコンドのホイラーは、ヒクソンに対して「立て!立て!」と叫んでいた。

ヒクソンの異変には、誰も気づかなかった。間近で見ていたホイラー、対戦相手の船木さえも。急に目が見えなくなったなら、普通はパニックに陥るだろう。だが、ヒクソンは手を目に当てることすらしなかったからだ。



「ホイラーの声は聞こえていたよ。でも、立つわけにはいかなかった。フナキが私の足を蹴ってくる。仕方なく蹴られながら視力が回復するのをジッと待った。

私は常にイメージしていた。闘いの中で自分に起こるかもしれない多くのことを。時に想像を超えたことが生じる場合もある。それがリアルな闘いであることも認識している。

イメージを膨らませて物事を考えてきたこと、極限まで肉体を追い込むトレーニングに身を浸してきたこと、そして積み重ねてきたファイトによって『いかなる状況においてもパニックを起こさない』メンタリティがつくられていたのだと思う」



そして続ける。

「後にビデオで試合を見返したら、私が視力を失っていたのは40秒ほどだった。右目の視力が少しずつ回復し、闘える状態に戻った。それでも視界はぼやけていたからストレスを抱えたままだった。そんな中でも闘い抜き勝ち切ることができたことは、良い経験になった」



視力を取り戻したヒクソンは、攻勢に転じる。縺れ合い寝技に移行しマウントポジションを得ると、そこからは独壇場だった。最後は背後に回り、チョークスリーパーを決める。

タップを拒否した船木は失神し、試合は終わった。


それから13年後、すでに現役を引退していたヒクソンに尋ねた。

「日本で闘った9戦の中で、もっとも印象深い試合は何か」と。

彼は言った。

「フナキとの闘いだ。彼はウォリアー(戦士)だった。死を覚悟して私に向かってきた。チョークは完全な形で決まったが、それでも最後まで諦めずタップもしなかった。強い心の持ち主だったよ。結果的にあの試合が私のラストファイトになった。その相手がフナキで良かったと思っている」



グレイシー一族の存在がなければ、『第1回UFC(ジ・アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)』は開催されなかった。つまりは総合格闘技の発展はなく、『PRIDE』も『RIZIN』も誕生しなかったということだ。そのグレイシー一族の中で最強を誇ったヒクソンの雄姿は、格闘技を愛する我々の脳裏に深く刻まれ、永遠に消えることはない─。



文/近藤隆夫



近藤隆夫 こんどうたかお 1967年1月26日、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から専門誌の記者となる。タイ・インド他アジア諸国を1年余り放浪した後に格闘技専門誌をはじめスポーツ誌の編集長を歴任。91年から2年間、米国で生活。帰国後にスポーツジャーナリストとして独立。格闘技をはじめ野球、バスケットボール、自転車競技等々、幅広いフィールドで精力的に取材・執筆活動を展開する。テレビ、ラジオ等でコメンテイターとしても活躍中。『プロレスが死んだ日。~ヒクソン・グレイシーvs.高田延彦20年目の真実~』(集英社インターナショナル)『グレイシー一族の真実 ~すべては敬愛するエリオのために~』(文藝春秋)『情熱のサイドスロー ~小林繁物語~』(竹書房)『ジャッキー・ロビンソン ~人種差別をのりこえたメジャーリーガー~』『柔道の父、体育の父 嘉納治五郎』(ともに汐文社)ほか著書多数。
『伝説のオリンピックランナー〝いだてん〟金栗四三』(汐文社)
『プロレスが死んだ日 ヒクソン・グレイシーVS髙田延彦 20年目の真実』(集英社インターナショナル) この著者の記事一覧はこちら(近藤隆夫)