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ヒクソン・グレイシー危機一髪!『400戦無敗』の男がもっとも苦しんだ闘いとは?

2024年08月23日 18:11  マイナビニュース

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画像提供:マイナビニュース
「400戦無敗」「最強の男」と称された伝説の格闘家ヒクソン・グレイシーの生き様、実像に迫るドキュメントを3話構成でお届けする。第2話は、総合格闘技界で最強を誇ったヒクソンがもっとも苦しんだ闘いー。



1990年代半ばから2000年にかけて総合格闘技界で最強を誇ったヒクソン・グレイシー。3度の東京ドーム大会を含む5つのビッグイベントに参戦し9戦全勝、闘いぶりも鮮やかで観る者を魅了した。


だが、すべての試合が余裕を持っての勝利だったかといえば実はそうではない。リングに上がる前に絶体絶命の状況に追い込まれたこともあった。最強の男がもっとも苦しんだ闘いとは?〈『ヒクソン・グレイシーが決戦直前に山に籠った本当の理由とは? いま明かされる真実─。』から続く〉

○■「もう話してもいいだろう」



志高きファイターは、自らの弱みを絶対に見せない。

負傷箇所があっても、そこはできる限り隠そうとする。試合後でもそうだ、次なる闘いを見据えて─。ヒクソンも同じだった。見た目には完勝でも、その裏側でとてつもない事態に見舞われていたことがあったのだ。



「400戦無敗」の男が、もっとも苦しんだ闘い。

それは意外にも髙田延彦との再戦。

1998年10月11日、東京ドーム『PRIDE.4』で行われた試合は、1ラウンド9分30秒、腕ひしぎ十字固めを決めヒクソンが完勝している。試合内容的には危なげなかったが、その直前までヒクソンの体調は最悪だったのである。

この話を本人から聞いたのは、引退から7年後、彼の息子クロンが主宰する『クロン・グレイシー柔術アカデミー』で会った時だった。



私は以前から気になっていたことをヒクソンに尋ねた。

「過去の試合を振り返る中で髙田延彦との再戦は、あなたにとって納得のいく内容だったとは思えない。目指すシンプルな闘い方ではなかったように感じる。あの時、調子が悪かったのだろうか?」

すると一瞬だけ遠い目をし、彼は言った。

「もう闘うこともない、話してもいいだろう」

そして続けた。

「プロフェッショナルのファイターは、リングに上がる時にはベストコンディションでなければならない。これは当然のことで、それができないのは恥ずべきこと。だから、あの時のことはこれまで話してこなかった。

正直に言えば、あの試合の時は完璧な調整ができていなかった」


○■突如襲った腰の痛み

──何があったのか?

「試合の4カ月前に椎間板ヘルニアになり動けなくなった。腰に激痛が走り練習ができず『困ったことになった』と焦ったよ。一時は、試合をキャンセルせざるを得ないかとも考えた。でもすでに(契約書に)サインをしていたから守らぬわけにはいかない。そこで急遽スケジュールを変更、練習をやめ腰の治療に専念した」



──そんなことがあったのですね。

「何とかしなければと思ったよ。でも腰の状態が良くならないまま2カ月が過ぎた。試合まで、もうあと2カ月しかない。私はリオ・デ・ジャネイロに戻り、さまざまな治療法を試すことにしたんだ。

その甲斐あって腰の痛みは徐々に治まった。さまざまな方法を試したから実際のところ何が良かったのかは私にもわからない。スケジュール通りの練習、コンディション調整はできなかったが『これで何とかなる』と思ったよ」



──追い込んだ練習をしないまま来日した?

「そうだ。でも試合まで、まだ1カ月あった。日本に着いて記者会見、(大会告知のための)テレビ出演を終え山に向かい、そこで最後の追い込みをするつもりでいた。

だが、そう上手くはいかなかった。

山に籠っての初日、組み合いの練習中に腰に激痛が走った。最終調整のトレーニングメニューは弟のホイラーが作ってくれていたのだが、それをこなせるコンディションではなくなってしまったんだ」


──そのことは大会主催者にも伝えなかった?

「言えるわけがないだろう。ここまで来てキャンセルなんてできない。練習はやめて回復に努めたよ、痛みが消えることを信じて。安静にしたことで幸い痛みは感じなくなった。これなら闘えるだろうという状態までは戻せた。だから『やれる』との自信を持ってリングには上がったよ。



──そんな状態にあることは相手陣営に知られたくない。隠すことにも神経を使ったのでは?

「それは考えていなかった。自分のコンディションを少しでも良くすることに必死だっただけだ。相手は関係ない、自分自身との闘いだから。

あの試合で私の動きがパーフェクトでなかったのは、そういうことだ」



あの時、ヒクソンは40歳目前。長年闘い続けてきたことによる肉体のダメージには抗えない。それでも強靭なメンタルで修羅場を潜り抜け「最強伝説」を死守したのだ。

それから1年半後の船木誠勝戦(2000年5月26日・東京ドーム『コロシアム2000』)がヒクソンのラストファイトとなるが、ここでもまた試練が待ち受けていた─。

〈次回、『ヒクソン・グレイシー『最後の闘い』。視力を失った危機を如何に乗り越えたのか?』に続く〉



文/近藤隆夫



近藤隆夫 こんどうたかお 1967年1月26日、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から専門誌の記者となる。タイ・インド他アジア諸国を1年余り放浪した後に格闘技専門誌をはじめスポーツ誌の編集長を歴任。91年から2年間、米国で生活。帰国後にスポーツジャーナリストとして独立。格闘技をはじめ野球、バスケットボール、自転車競技等々、幅広いフィールドで精力的に取材・執筆活動を展開する。テレビ、ラジオ等でコメンテイターとしても活躍中。『プロレスが死んだ日。~ヒクソン・グレイシーvs.高田延彦20年目の真実~』(集英社インターナショナル)『グレイシー一族の真実 ~すべては敬愛するエリオのために~』(文藝春秋)『情熱のサイドスロー ~小林繁物語~』(竹書房)『ジャッキー・ロビンソン ~人種差別をのりこえたメジャーリーガー~』『柔道の父、体育の父 嘉納治五郎』(ともに汐文社)ほか著書多数。
『伝説のオリンピックランナー〝いだてん〟金栗四三』(汐文社)
『プロレスが死んだ日 ヒクソン・グレイシーVS髙田延彦 20年目の真実』(集英社インターナショナル) この著者の記事一覧はこちら(近藤隆夫)