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ハンセン病患者・回復者らが絵に込めた、命懸けの表現とは。強制隔離下での絵画史100年を伝える展覧会をレポート

2024年08月13日 18:10  CINRA.NET

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写真
Text by 島貫泰介
Text by 生田綾

2024年3月から国立ハンセン病資料館で開催されている『絵ごころでつながるー多磨全生園絵画の100年』は、わずか一部屋の展示空間にたくさんの情報が詰め込まれた展覧会だ。

会場である国立ハンセン病資料館は、東京都東村山市にある国立療養所多磨全生園に隣接している。同園は、1909年に開院したハンセン病療養所で、2024年5月時点で94名の元患者(回復者)が入所している。

国立ハンセン病資料館の外観写真

ハンセン病は、らい菌という病原菌による感染症だが、その感染力はきわめて弱く、現在では投薬と短期間の通院で治療可能な病気だ。だが、放浪するハンセン病患者を「文明国」にふさわしくないとし、強制収容の対象とした1907年の「癩予防ニ関スル件」の成立から、じつに1990年代半ばまで、患者・回復者たちを療養所に強制収容して社会から見えないようにする隔離政策が続けられてきた。

日本の近現代史には数えきれない闇の部分があるが、ハンセン病をめぐる差別も積極的に語られることのなかった、しかしだからこそ語るべき歴史の一つだ。

国立ハンセン病資料館では、2022年に患者・回復者らが自身の暮らしのためにつくった道具を紹介する企画展『生活のデザイン ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち』、2023年には、戦後の「らい予防法闘争」のさなかに出版された合同詩集、大江満雄編、日本ライ・ニューエイジ詩集『いのちの芽』(三一書房、1953年)を取りあげた『ハンセン病文学の新生面 『いのちの芽』の詩人たち』などが開催された。それらに続く本展は、「絵画」という切り口で多磨全生園における表現史の100年を通覧している。

「絵の会」会員の氷上恵介のデッサンが並ぶ

油彩画やドローイング、そして写真や書籍などの資料の総数は236点。1923年から2023年までの「絵画100年史」を紹介する試みは画期的で、既存の美術史に一石を投じる批評の鋭さがある。そして、非常に多視点的でもある。取りあげるべき、考えるべきトピックは無数にあるにもかかわらず、取材から数か月を経た現時点においても、どこから手をつけるべきか、どのような記述の方法がありうるのかと、私は戸惑い続けている。

まずは本展担当者である吉國元へのインタビューや、展示内容を訥々と描き出すことから始めてみよう。

「絵画の100年」を謳う本展だが、絵画の実作は多くはない。全236点の出品物のうち、油彩画や木版画などは116点。それ以外は書籍・テキストや画材などの資料、写真を引き伸ばしたパネルなどが並ぶ。

吉國元(以下、吉國):(実作の)点数がなぜ少ないのかは慎重に検討しなければならないところです。ハンセン病療養所では文学、合唱や演劇などのさまざまな文化活動が行なわれてきましたが、今回とくに焦点を当てている「絵の会」(※1)の会員は記録で確認できる限り、最大でも60人程度で、文学などに比べると小規模な活動だったといえると思います。

1955年には東京都美術館での『第9回旺玄会展』(※2)に会員9名が入選し、活動のピークを迎えますが、そこから急激に活動が衰退していきます。1947年頃に治療薬プロミンが導入されてハンセン病が治療可能になっていくなかで、障がいが比較的軽い、若い入所者の社会復帰が1960年代に急増し、あわせて実社会で役に立つ技術の習得に比重が置かれるようになりました。つまり「絵なんか描いてる場合じゃない」という認識が60年代に園内で広がっていったのかもしれません。この時期は「絵の会」の衰退と重なります。

もう一つの理由として、後世に残すべき資料として絵画が扱われてこなかったこともあるでしょう。描いた作家本人が持っていたけれど、どこかに失くしてしまったり、あるいは作者の没後に捨てられてしまったものも多いのではないか。

ハンセン病療養所では園内誌の発行があり、入所者の文学や詩、エッセイなどを残すことには積極的でした。活字で残りますからね。ですが、絵画となるとなかなか難しい……。多磨全生園に関しては、1960年代の後半からようやく患者・回復者の生き抜いた証ともいえる生活道具や創作物を残す取り組みが行われ、それは国立ハンセン病資料館の前身である高松宮記念ハンセン病資料館(1993年に開館)に引き継がれました。国立ハンセン病資料館が所蔵する絵画作品も多くが1970年代以降のもので、それ以前のものの多くは失われています。

国立ハンセン病資料館の学芸員の吉國元。美術家としても活動し、会期中に開催された絵画教室とワークショップの講師も務めた。

今回の展示で紹介されている9作の入選作は、すべて多磨全生園で発行されている機関誌の記事からの転載写真だ。

阿蘇篤の『病室』、村瀬哲朗の『洗濯場』など白黒の粗い図版から構図の巧さは伝わってくるものの、色や質感はわからない。1955年の9人同時入選の快挙を皮切りに、1959年の『第25回旺玄会展』まで断続的に入選は続いた。「絵の会」最盛期の作品が、1958年(第24回)入選の長州政雄『武蔵野の森』の1点のみしか実物で見られないのが悔やまれる。

吉國:展覧会をつくる過程でも困難さを感じました。それこそ点と点をつなげるように歴史を語っていくような調査でした。

自身も絵を描いていた園内医師の義江義雄の提案で「絵の会」が結成されたのは1943年ですが、園内で絵画運動が始まったのはその20年前に遡ります。第一区府県立全生病院(現在の多磨全生園)にあった礼拝堂は儀礼的・宗教的行事のほかに「全生歌舞伎」の公演や講演会などが行なわれる多目的施設で、1923年10月31日から11月3日まで「第壱回絵画会」が開催されています。同展は記録写真も出品リストもまったく残されておらず、入所者の山本哨民(やまもと しょうみん)の文章が当時の機関園内誌『山桜』に掲載されているだけです。

園内誌『山桜』『多磨』の表紙絵が並ぶ

吉國:このようにモノが残っていない現状をふまえて展示をかたちづくっていくなかで、とくに強調したかったのが長浜清という描き手の存在です。長浜は岡山県の長島愛生園に入所して詩と絵を園内で発表していましたが、絵を学ぶ目的で1969年に多磨全生園に転園します。これは推測ですが、絵画に関する情報が比較的集まりやすい東京に行くことを希望したのかもしれません。しかし健康状態の悪化で絵を一枚も描くことなく43歳で亡くなりました。

園のなかで絵が描けなかった人もいた、つまり、モノを残せなかった人もいたということは、歴史を見ていくなかでとても大切な前提になるように思えました。歴史を考えるなかで、残されたモノだけではなくて、残されなかった表現を可能な限り想像することに意味があるんです。

1971年に発行された長浜清の遺作詩集『過ぎたる幻影』には、彼と親交のあった光岡良二があとがきを寄せている。そこには長浜が不調を抱えながら、体調のよいときには美術館や絵画展を見に行っていたという記述とともに、長島愛生園時代に書かれた詩について述懐されている。

長浜清の遺作詩集集『過ぎたる幻影』より「喪失」

これらの、ほんとうに自分ひとりのために書いたような詩篇の中に、彼のいい素質が、飾らず、素朴に、原質のままきらめき光っているように思えた。

光岡のあとがきに限らず、この展覧会や同時に制作された図録では、作家やその作品について、別の誰かが書き記した記録が積極的に紹介されている。実作が失われたとしても、その表現は波紋のように誰かに影響を及ぼして、言説やまた別の表現のなかに根付いていく。そのようにして人と人が補完し合う関係性から語りうる歴史があるということを本展は伝えているかのようだ。
- いっぽうで、かろうじて残された記録の断片を拾い集め、具体的な事物をかたちづくっていくことも言葉が司る重要な役割だ。あらためて、サークル「絵の会」とその前後の歴史、多磨全生園の画家たちについて書いていきたい。

1923年に第壱回絵画会が行われたことはすでに触れたが、園内で絵を描く者たちの発表の場はそれだけではなかった。1919年に数人の入所者で創刊された園内誌『山桜』は言論と文芸作品の発表の場となり(現在も『多磨』に改名して発行は続いている)、その表紙絵は園外のゆかりのある描き手も含めた入所者たちが担当した。

戦時中には「銃後奉公ノ誠ヲ捧グベシ」といった危うい時勢を感じさせる「療養生活五訓」の言葉が表紙に掲載され、戦後の1950年代には色鮮やかな多色刷りが目立つ。また1957年にはメキシコ壁画運動を牽引したディエゴ・リベラの『とうもろこしをひく女』が複写されているが、これは1955年に東京国立博物館で開催され大きな反響を呼んだ『メキシコ美術展』をふまえたものかもしれない。『多磨』の表紙は、戦後の多磨全生園が外の美術界の動向に影響を受けていたことも伝える。

園内誌『山桜』と『多磨』の表紙

医師の義江義雄の提案から始まった「絵の会」は、1943年という戦時下で結成されたが、同サークルが、「絵ごころある者は集まれ」という素朴な呼びかけから始まった点で特異だろう。というのも、戦前の療養所内のサークル活動は園内の「秩序維持」のための施策の側面が強かったからだ。

吉國:一例に、戦前の「全生歌舞伎」は入所者の慰安を目的とし、園内の秩序を維持するためのものとして捉えています。つまり、入所者たちに自暴自棄にならず、「趣味にでも励みなさい」、「おとなしくしなさい」、という意味合いで、あくまで園が主導したのが戦前の文化状況でした。

しかし、入所者にとっての表現活動は、園に「許された」「与えられた」ものだけではなかったのです。戦後は治療薬プロミンの導入による病気の回復、また基本的人権を尊重する日本国憲法の登場を契機とする、より主体的で自発的な表現の獲得へと向かいます。実際に戦後に発表された合同歌集に見られる表現が入所者の「自己修養」の枠組みを大幅に超えるものとして医師から批判され、それが論争にまでなったこともありました。

ただ、絵画はその文化的な構造から少し離れたところにあった印象を私は持っています。「絵の会」の結成を提案したのは絵を描いていた医師であり、結成直後は戦時中の総動員性の影響なども見られるが、戦後はどちらかというと、園や職員との融和的な結びつきが目立ちます。50年代の旺玄会展への入選にしても、多磨全生園が作品搬入のために車を出していたという事実も見落とせません。

絵を持つ「絵の会」会員。新憲法公布記念の書画展開催にあたって1946年11月に撮影/ 国立ハンセン病資料館蔵

「絵の会」の会員でもあり、今回の展覧会では1970年代以降に描かれたドローイングも実作で紹介されている氷上恵介(ひかみ けいすけ)は、戦時下の活動について「防空壕の掩蓋(えんがい / 上にかぶせる覆いのこと)をつくるために多くの樹木が切り倒されたが、その音を聞きながらの展覧会であったことに感動する」と回顧している。

戦時下の療養所が入所者の活動全般への統制を強めるなかでの「絵の会」のある種の反骨を感じさせる。とはいえ厳しい状況に変わりはなく、会の本格的な活動は戦後に持ち越された。

瀬羅佐司馬の自画像

戦後の46年11月には、新憲法発布祝賀行事として書画展をさっそく開催。その時期に「天才」として注目されたのが瀬羅佐司馬(せら さじま)だ。彼の作品も記録写真以外はやはり残っておらず、ここでは瀬羅を評した氷上の言葉を紹介する。

彼は絵のことになると夢中で、左手に持った絵筆を叩きつけるような描き方をした。左手で描き、しかも人差指の第一関節から先を失っていたので、見ているとなんとなくぎこちなかったが、画布を塗りつぶしてゆくスピードは早かった。(略)枕頭台に置かれた包帯と薬瓶の静物を描いたことがある。再製の包帯には量感があり、瓶の中の水薬は淡いピンク色をし、飲めばうまそうに見えた。 - 氷上はこうも書いている。

人付き合いの悪い彼は、会の指導力など微塵もなくー俺はいい絵を描いてみせるーという気迫だけで生きていたので、会の中でも孤独であった。自画像を彼が描いたことがあるが、その顔は悲しみにゆがみ、目だけはらんらんと光り、何かを凝視している恐ろしい絵であった。 - 今回展示されている瀬羅の作品は写真パネルに引き伸ばされた一点のみで、それは戦後の書画展で撮影された集合写真から複写したものだ。

「絵の会」の発足人である義江を中心に、全16名が集まった写真。そこで自画像を持ち、下顎をぐいっと突き出した格好で座る瀬羅には、作品と一緒に「俺を見ろ!」と凄んでいるような主張の強さがある。作家らしい……と言い切ってしまうと語弊があるが、強い「個」を感じさせる人だ。

吉國:どんなグループにもあてはまることと思いますが、集団で行なう活動には必ず異分子がいます。「絵の会」の場合は瀬羅がまさにそうでした。療養所といえども、それはまさしく社会の縮図のようでもあって、グループから外れてしまう、あるいは外されてしまう人たちがいる。そのことは展覧会の中で必ず触れたかったことです。

一気に1990年代後半へと時間を跳ぶが、この時代にも「異分子」と呼べるかもしれない作家がいた。

鈴村洋子が多磨全生園に転園してきたのは1967年。地蔵をモチーフにした絵を描き始めたのは1997年からで、笑い顔や穏やかな顔をした地蔵などの絵に言葉を添えた絵手紙のスタイルで制作を続けていた。2016年には、群馬県の画廊で個展も行なっている。

吉國:鈴村の絵は、一見すごくにこやかな絵だけれど、その背後には過酷な経験があります。療養所に隔離された自分自身や、義理の兄が栗生楽泉園の特別病室(重監房)が亡くなった経験を詠(うた)った詩を残していて、溜め込んだ感情への祈りを、絵や言葉に託していたのかもしれません。本人を知る職員の話では「自分は絵しか描けないから」と語っていたそうです。

鈴村洋子『無題』(Tシャツにサインペン等、制作年不詳)

2014年頃から制作の始まった「現代絵巻」のシリーズは、今回の展示でもっとも大きなスペースを使って展示されている。

自分の健康状態や療養所の様子、16年の熊本地震や過去の戦争体験についてなども書かれたそれは、日記・手記の要素が強く、鈴村の視点で紡がれた現代のクロニクルと呼ぶべきものだ。

鈴村洋子『現代絵巻』『はがき』

吉國:この展覧会で紹介している唯一の女性が鈴村洋子さんです。ほかの療養所における近年の絵画活動には、女性が参加していますが、多磨全生園に関しては2020年に亡くなった彼女だけです。

記録を見る限り、「絵の会」には女性が参加していません。あわせて、とても興味深いのは、「絵の会」を指導した旺玄会の近藤せい子さんは、牧野虎雄の最初の女性の直弟子で、当時は他の男性会員に妬まれ、いじめられたそうです。旺玄会といえども当時は男性会員が多く、女性の参加が少なかったんですよね。この点は、多磨全生園の絵画活動と呼応しています。

これは推察でもあるのですが、ハンセン病療養所では、夫婦関係のなかで家の仕事、つまり、「家事」の大部分は女性が担い、妻は忙しくて絵を描く時間はなかったのだろうと思います。また制作活動への理解を夫から得なければならないということ、また、自分のための画材を取り寄せることも簡単ではないという条件の厳しさがあったのではないか。そういう制限された環境のなかで女性たちは絵を描くために男性以上に戦ってきたのではないだろうか。やろうと思えばいつでもできる、ではないんです。

これまで触れてきた表現、作家たち以外にも、本展には美術史や社会に対するさまざまな示唆がある。

先述した氷上恵介と宇津木豊ら成人の入所者たちが、園内の学校で美術教育を担っていたこと。そして1960年代後半から70年代にかけての生徒たちの作品に、社会見学や修学旅行で訪れた園外の名所などの題材が増えたことは、時代と入所者たちの心情の変化を感じさせる。

また1960年1月には、東京国立近代美術館所蔵の絵画数十点が貸し出され、園内の礼拝堂で1日だけの「移動画展」が開催されていたという事実も日本美術史において重要だ。当時の国立近代美術館次長であった今泉篤男と、岩波書店の雑誌課長だった玉井乾介の尽力で実現されたというが、この際の貸し出し記録は国立近代美術館にも一切残っておらず、今後の研究でわずかでも詳細が明らかになることを期待したい。

また、国吉信(くによし しん)や望月章(もちづき あきら)など、比較的実作が多く残っている作家の歩みも重要だが、ここでは丁寧に触れる余裕がない。

表現や社会をめぐるいくつもの宿題を手渡されたまま、なかなか思考を深めることができずにいる自分が歯痒いが、担当の吉國元が指摘した故郷喪失に由来する表現について記したい。

吉國:多磨全生園絵画には、故郷から離れた人たちの表現が多く見られます。氷上恵介は兵庫、国吉信は沖縄、鈴村洋子は北海道、望月章は静岡。みんな遠い土地から強制的に連れてこられ、故郷に帰れなかった。世界的に見れば、移民や亡命、さらに過去の奴隷貿易に由来するなどに故郷喪失の表現が文学や現代美術などであるけれど、戻れない場所について紡がれる表現というのは日本ではそう多くないんじゃないかなと思います。故郷から離れたところで絵を描くということがどういうことなのか……。

多磨全生園絵画は、一般的な大学における美術教育、画壇、マーケットとは、ほぼ無縁でした。美術大学を卒業した自分にとって、それらの、美術を語る上での条件があまりに自明なものになり過ぎていたことに気付かされました。本展で紹介しているのは、先の条件がなかった絵画活動ですが、純粋で、妥協がなく、「絵に対してこんなにもまっすぐな人たちがいたんだ」ということを多くの人に知ってほしいです。

以前、絵を描いてきた回復者にご挨拶をさせていただいたときに、「私は絵を描いてきたからここまで生きてこられた」とその方が言っていて、本当にそうなんだろうと思います。絵に込めた命懸けの表現を、ぜひ多くの人に見ていただきたいと思っています。

国吉信『キャンドルサービス』(キャンバスに油彩、制作年不詳)

「内」と「外」の二分法を強化することで表現動向を手際よく分類し、その多様性を表面的には歓迎しつつも、しかし同時に「規範」となるアートの定義を強化する(ひいては社会階層を固定化する)のが、今日のコンテンポラリーアートのキュレーションなり批評行為の暗黙の作法として有力だが、それは私をいつも落ち着かない気持ちにさせる。

美術教育を受けていない表現だからといって、それはアウトサイダー・アート(※)と言えるのか? そもそもアウトサイド(外)とはどこにあるのか? 私たちが安住しているここは内側なのか? 私たちが見えていなかったものが突如見えてきたとき、それは即座に外側に配置されてしまうのか?

多磨全生園の絵画をめぐる記録を紐解いていくと、入所者たちが同時代の美術誌や情報を積極的に摂取していたことが知れるし、療養所外の展覧会に足を運んでいたこともわかる。先述した旺玄会のメンバーであった画家・近藤せい子と近藤良悦は「絵の会」の指導を行なってもいた。私たちは療養所のなかの表現を知らなかったかもしれないが、かれらはよく熟知していた。

隔離などの歴史的事実から、療養所の「内」と「外」の二分化が明確になってしまいやすいのがハンセン病をめぐる言説の厄介さでもあるが、多磨全生園の絵画活動に見られるのは、その境界を横断するようなダイナミズムだ。先述したように、1955年の旺玄会展への入選、1960年の東京国立近代美術館所蔵作品の療養所での展示もあった。ハンセン病療養所の文化は、つねに内からの力を原動力とし、絶えず外からの影響を受けたながら生成してきたのだ。

吉國:山本哨民は1923年の第壱回絵画会について、言葉や文章で表現していない何らかの欲求をしている、ということを書いています。展覧会ではそこまで深く触れてないんですが、じつはそこに「愛」という言葉があるんです。

「愛」っていうのはすごく抽象的な言葉だし、しかも100年前の愛となるとその意味することを解釈するのは難しいのですが、私の感覚からすると……他者に対する何らかの呼びかけ、希求だったと思うんですね。それが芸術表現の根幹にあるものだったと思います。そこでの他者っていうのは、入所者同士かもしれないし、あるいは職員か園の外の人かもしれないけれど、表現することは常に向こう側にいる誰かに向けて何かを問いかける、投げかけている。

そのことを山本哨民はいまに伝えているように思えます。

最後にとても嬉しいニュースも紹介したい。多くの実作が所在不明になっていると冒頭で書いたが、なんと会期中の調査で「絵の会」会員の村瀬哲朗の水彩画が公開の運びとなったのだ。1946年に制作された同作は、多磨全生園絵画における現存する最古のものだ。

吉國:作品は、当館の所蔵資料のなかにありました。今回の展覧会では、村瀬も参加していた「絵の会」の1946年の集合写真を紹介していて、企画展のための調査によって、この写真に写っている描き手2名が誰かを特定(瀬羅佐司馬、村瀬哲朗)することが出来ました。今回は館蔵資料であるこの絵と、この写真に写っている村瀬哲朗の絵を同定することが出来ました。

村瀬哲朗作の水彩画『無題』』 1946年10月31日

集合写真に映る額装された作品は油絵のようにも見えるが、終戦直後の物資不足や戦前の資料をふまえると、写真に映った「絵の会」メンバーの作品はすべて水彩画ではないかと考えられてきた。今回の村瀬の水彩画の発見は、それを証拠づけたと言えるだろう。

吉國:村瀬は宇津木豊の名前でも作品を発表していて、1953年に療養所内で開催された文化祭では『燃ゆるボイラー』で特選を得ています。また、のちに園内の中学校で美術教師を務めるなど、多磨全生園での芸術活動に大きな役割を果たした人物です。ハンセン病療養所での絵画史を考えるうえで、大きな発見だと思います。

失われたと思われていたものがふたたび姿をあらわしたことがすでに奇跡的だが、展覧会を見た人々から多数の新証言が寄せられるなど、さまざまな波紋が広がりつつあるという。たとえば鈴村洋子の夫に絵画を教えていたのがまさに村瀬哲朗であったり、実作が多く残っている国吉信は園内の看護学校のひとりの看護学生に絵を教えていたり。

そういった意外な関係性が次第に明らかになることで、ハンセン病療養所の絵画史はいっそう豊かなものとして、輪郭を明らかにしていくだろう。