トップへ

中世ヨーロッパは本当に「暗黒の時代」だったのか? 新進の中世史家が考える、多面的な人々の感情

2024年08月13日 13:00  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 『沈黙の中世史 ――感情史から見るヨーロッパ』(ちくま新書)は、「暗黒の時代」との印象で語られがちな中世ヨーロッパ(西暦でおよそ500~1500年)を「感情史」という切り口で読み解くことで、あらたな一面に光を当てた新書だ。著者は、西洋中世史、心性史、女性神秘家の研究を専門とする青山学院大学文学部史学科准教授の後藤里菜氏。2021年に刊行した『〈叫び〉の中世―キリスト教世界における救い・罪・霊性』(名古屋大学出版会)で注目を集めた新進の中世史家だ。


人類最古の帝国・アッシリアには「投資信託」もあった? 楔形文字が伝える、高度な都市文明


 後藤氏によると、中世ヨーロッパはまだ文字による「言葉」はごく一部の人々に限定されていて、声と音が生活の大部分を占める騒々しい世界だったが、そこに生きる人々の「沈黙」や「感情」に着目することで多面的な魅力を見出せるのだという。中世ヨーロッパのイメージを刷新するガイドブックとしても楽しめる『沈黙の中世史』について、後藤氏に話を聞いた。(リアルサウンド ブック編集部)


中世ヨーロッパ人の自己認識は、現代の日本人にも近い?


――中世ヨーロッパというと、どこか暗くて地味なイメージがあって、現代の我々からは遠い世界に感じます。


後藤:たしかに学生と話していても、中世ヨーロッパは市民革命以降のヨーロッパ、あるいは古代ギリシャやローマに比べるとどこか地味なイメージを持たれています。キリスト教への馴染みのなさも相まって、自分たちとは遠い存在であるように思われているのですが、そうでもないと私は思います。


 そもそもヨーロッパの人々には、自己主張がはっきりとしていて日本人とはどこか気質的に違うイメージがありますよね。しかし、ハーメルンの笛吹き男の研究で有名な阿部謹也さんが述べたように、「世間」を気遣う日本人の感性と中世の人たちの世界観には不思議と似たところがあるんです。中世ヨーロッパの人は、所属する集団と結びつけて自らを捉えている。そこからキリスト教を通して、ひとりひとりが神と向き合っていく中で、今のヨーロッパ人のような「自己」を形成していったのではないか。つまり、出発点では中世のヨーロッパ人は今のヨーロッパ人よりも、むしろ日本人に近い感覚を持つのかもしれない。日本人も、属する集団をベースに自己認識をする人が多いですよね。そういうところから、私自身も中世ヨーロッパに関心を持つようになりました。


――先ほど言われたように、キリスト教に対する馴染みのなさも、中世ヨーロッパを遠ざける理由のひとつになっているのかもしれません。


後藤:もちろん、日本にもキリスト教徒の方はたくさんいらっしゃいますけれど、世界的に見るとやはりすごく少ない。ただ、イエス・キリストが説いた教えというのはすごく素朴なもので、ごく簡潔に言うと、人間同士で差別をしたり区別をしたりせず各々の賜物、つまり長所や短所や癖を享受すべきだというものです。それは信徒ではない自分も、人間としてとても共感できる。そうしたキリスト教の根本を、日本の人にももっと知ってほしいというのも本書を書いた理由のひとつでした。


――なるほど。それが本書『沈黙の中世――感情史から見るヨーロッパ』になるわけですが、この副題にある「感情史から見る」というのは、どういったアプローチなのでしょう?


後藤:感情史は、従来はあまり考慮されてこなかった人間の「感情」にスポットを当てて、歴史を捉えようとするものです。中世については、巻末のブックリストにも挙げたバーバラ・ローゼンワインが、ある感情の価値体系を共有する集団を「感情共同体」と定義したことが大きなきっかけになっていると思います。


 本書の最初のほうで取り上げた中世の修道院などには、わかりやすく規律があって、そこには良いとされる感情のコードがあるわけです。修道院以外にも、世俗のもの――たとえば、国王にも騎士にも、それぞれの集団における感情の規範みたいなものがある。規範の縛りはむしろ社会の上層の人たちに対して強い、というか、そういう規範の実践を通して権力が体現されるのが中世世界なんだと思いますが、それは農民たちにもあるかもしれない。


 中世ヨーロッパは一見野蛮に見えるかもしれないけれど、先ほど言ったように、集団に照らした上で自己があるわけで、その集団における感情の規範がある。だとすると、その規範を掬うことで中世の人の人間性が分かるかもしれない。戦争が多い時代といっても形をなぞっていて、むやみに殺し合っているわけではないんです。これまで感情史的なアプローチで中世ヨーロッパ全体を見直そうとする日本語の書籍はほとんどなかったので、本書を書く意味があると思いました。


――感情史を読み解くのに、どんなものを史料として扱うのでしょう?


後藤:現代の人にとって感情というと、制御できないプライベートなものをイメージするかもしれませんが、感情史ではいわゆる「感情表現」と言ったときの感情を扱います。分かりやすいもののひとつに、政治的な場面で身ぶりを大袈裟に表現するというものがあります。いろいろな史料を見ていくと、古代ローマの頃から大袈裟な感情表現はあったらしい。政治的に和解するために、ひれ伏すような身ぶりをするとか、涙を流すとか、激しい抱擁をするとかそういうものです。これらは感情を抑えられなかったから、というより、和解を求める手続きの一環として型どおりに表現されている。こうした政治的コミュニケーションとしての感情表現には、ゲルト・アルトホフをはじめとした研究成果があります。そのほか、当然かもしれませんが文学に類するものに、感情は豊かに描写されます。


――いわゆる詩や物語、逸話といったものですか?


後藤:そうですね。いわゆる文学作品は歴史のリアルを書いているわけではないため、従来の歴史学ではあまり史料として用いられなかったのですが、先ほど言った感情のコード――ある場面において、どういった感情が良いとされていたのかは、文学作品にむしろ顕著に表れている。そこで今回の書籍では、色々な文学作品を参照しました。


中世ヨーロッパは「声」と「音」の時代だった


――一方で、本書のタイトルの「沈黙」は、どんなことを表しているのでしょう?


後藤:私はもともと「叫び」について研究していました。中世ヨーロッパの大部分の人は文字の読み書きをしていなくて、基本的には上層部の人間しか読み書きはできませんでした。中世は「声」の時代であり「音」の時代だったんです。それを「叫び」という観点から考えたのが、前著の『〈叫び〉の中世―キリスト教世界における救い・罪・霊性―』でした。ここで言う「叫び」は、「clamor」をはじめとする色々なラテン語の訳語になるのですが、音声を伴う「叫び」だけではなく、心から神を欲する態度といった意味も含んでいます。つまり、そもそも「叫び」イコール「音声」ではないんですね。それに、理性的な言葉を叫ぶだけではなく、いわゆる「悲鳴」のようなもの――この頃には悪魔憑きの「悲鳴」みたいなものもあったわけで。ひと言で「叫び」と言っても、決して一枚岩ではないんです。


 同じように「沈黙」も、また一枚岩ではありません。というか、沈黙は叫びとコインの裏表のようですらある。傍で見ている分には「沈黙」だけど、実は神に向かって声を出さずに祈って「叫んで」いるのかもしれない。中世の修道院というのは、まさにそういった場所だったりするわけです。


――なるほど。それで本書は修道院から話が始まるわけですね。


後藤:そうです。もちろん明確に、声を出さない意味の「沈黙」が規律として課されていたのが修道院世界なので、「沈黙」をテーマに中世ヨーロッパを語るときに修道院を避けて通るわけにはいかないと思いました。ただ、実際に規律や修道士の著作を見ていくと、修道士は定期的に祈りを捧げながら、自分が罪を犯していないかどうかと向き合うわけですが、やっぱり人間なので、感情とか欲を抑えられなくなるときがある。心静かにしようとしている修道士たちの中でこそ、すごく感情的なものが読み取れたりするんです。つまり、神と真摯に向き合った修道士たちの中から、その沈黙を破ろうとする感情が現れる。そういうところに、中世ヨーロッパを感情史から読み解く意義も感じました。


――修道士たちの次は、統治者の側に章が割かれています。


後藤:統治者は「沈黙」と言うよりも、やはり「声」ですよね。先ほど言ったような政治的なコミュニケーションにおいてはもちろん、人々に対して何かの「お触れ」を出したりするのも「声」だったわけです。当時はいわゆる証書みたいなものがあっても、それが読み上げられて、ちゃんと聞いている人がいなかったら意味を成しませんでした。そこにもやはり感情のコードがあるので、本書で取り上げました。


沈黙を破ったクリスティーヌ・ド・ピザン


――続いて本書は世俗の人たちーー特に女性たちの「声」にスポットを当てていきます。


後藤:本書は「沈黙」という言葉のニュアンスを、さまざまに捉えながら自由に変奏しています――メロディーを変えていく意味の変奏ですが。先ほども言ったように、当時は限られた人しか読み書きができなかったので、個人的な心情を一般の人が綴ることはほとんどなくて、そうすると、歴史の中で「沈黙」している人ばかりなんです。その「声」を聞くにはどうすればいいのか。そこで色々な史料を行き来しながら、「沈黙」がいかに破られるか、あるいは破られていないかに注目していきます。


――具体的に言うと本書の「第5章 聖女の沈黙」では、12世紀のドイツで神の声を聞き、教皇・皇帝レベルの面々にさまざな助言をしたヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098年-1179年)、自らの肉欲と戦う主体性を持ったイングランド、マーキエイトのクリスティーナ(1096年頃-1155年頃)、さらには、口述筆記ながら自ら『無化せし(単)純なる魂たちの鏡』を著したフランスの「ベギン」であるマルグリット・ポレート(1250年頃-1310年)などの女性たちが紹介されています。この「ベギン」というのは、どういった存在だったのでしょう?


後藤:女性が霊的に高い段階の生活をするには女子修道院に引きこもるというのが一番の在り方だったのですが、修道院というのは限られた数しかないですし、良い家柄でないと入れなかったりもしました。しかも、女子修道院は、男性の修道院よりも厳しく隔てられていて、まったく外に出られなかったりと俗世から隔絶されていました。


 ところが12世紀後半から13世紀ごろ、都市が発達すると、世俗世界にとどまったままで敬虔な生き方をする仕方が可能になる。それがベギンです。ベギンは、織物の仕事や家事手伝いなど自分の仕事を持ったままで定期的に集まって、一般の人たちよりも難しい祈りを唱えたり、子どもの世話や病人の世話という慈愛の業をおこないました。もともと中世の農村世界では、女性は子どもを産み育てたら、また農作業を手伝うぐらいしかなかったのですが、都市の発展でそれ以外の職業の選択肢が生まれてきた。そこで、半聖半俗の生き方も出てきたのです。


 そこそこの家柄で寡婦になって、家柄ゆえに読み書きを習っている女性がおそらくベギンの有力な指導者層だったと思われます。けれど、権威をもって指導したというより、教え合う水平的なスタンスで、そのあたり、女性的であるようにも感じます。女性的というのは、権力を持たない人たち、という意味で。中世ではヒエラルキー的な上下関係が単に権力にもとづく抑圧ではなく、神の定めた秩序と考えられていた。新しく出てきたベギンも、その世界観を壊すのではなくて、むしろ自分はすごく小さい存在だという認識を突きつめて、その中から限りなく大きな神の存在を見出すのが面白い所です。


――そこからマルグリット・ポレートのような女性が出てきたと。そして最終章である「第7章 沈黙を破る女性」では、『薔薇物語』の女性蔑視的風潮を批判した、本書の帯にも肖像画が掲載されているクリスティーヌ・ド・ピザン(1364年―1430年)が紹介されています。


後藤:クリスティーヌ・ド・ピザンは、職業作家として身をたてたごく初期の女性で、キリスト教世界でイヴと結びつけて貶められてきた女性への価値づけに、ほぼ初めて異議申し立てをおこなったとされる人です。だから日本でもフェミニズムの文脈で知られているかもしれません。そうすると、キリスト教世界である中世から脱しようとしたかのようにも聞こえるんですが、私自身はむしろ、中世キリスト教の世界観に忠実に生きようとした人なのかなと思っています。女性への偏った見方に異議を唱えて、それを文字にして残しているところが珍しくて貴重なのは確かですが、新しい何かを作り出そうというよりも、もっとイエスの精神の根源に戻ろうとしているように見えるからです。根源というのは男も女もなく、神が各々に賜物を授けているはずだという実感ですね。


マーブル状で複雑な中世ヨーロッパの世界観


――なるほど。本書の「あとがき」にもありましたが、彼女たちがやってきたことは、集団の中の秩序を保つための実践的な知恵であって、いわゆる「改革」みたいなものとは少し違うわけですね。


後藤:そうですね。当時は現在のような「生まれながらの平等」という概念はもちろん存在しなかったわけですが、彼女たちはそれを「不平等」であるとも思っていなかった。ただ、イエスの精神の根源に戻ろうと声をあげたときに、自然と女性蔑視的風潮を批判する立場になったのだと思います。私は中世ヨーロッパに生きていた人たちのものの見方や感性というものが、どういうものだったのかに関心があるんです。


――「後世から見てどうなのか」よりも「当時の人々がどう思っていたのか」に焦点を当てるというのは、最近の歴史学のトレンドだったりするんですか?


後藤:文書館にあるような史料を精査する研究はもちろん大事ですが、当時の人々の感性を知るには、文学や絵画、音楽など従来の歴史学の史料に含まれなかったものも併せて考えるべきだというのは共有されていると思います。たとえば西洋中世学会などは、歴史学者だけではなく美術史や音楽史、文学研究の専門家も一堂に会する学会です。しかも研究者だけではなく、中世を好きな人なら誰でも歓迎しているんです。そういう開かれた学会と、一つの史料をつぶさに見た成果を発表する、専門家に限定した学会、その両方がうまく機能することが人文学の未来にとって大事なんだと思います。


――なるほど。では最後に改めて、中世ヨーロッパを知ることの面白さはどのようなところにあると思いますか?


後藤:ヨーロッパ人の祖ともいえるゲルマン人やケルト人はもともと典型的な部族社会で、戦闘に強い者を長と仰いで、森や泉、太陽や天体に人智を超えた力を見出す世界観を持っていました。一方で、古代ギリシャやローマから引き継がれるプラトン的な霊肉二元論も、地中海世界には根強い。それに加えて、すべてを創造主の御業に帰すキリスト教的な世界観が浸透していきました。中世ヨーロッパは、その3つが折り重なりながら、マーブル状に組み合わさっているところが面白いところです。ほかにも地域によって、ユダヤ教やイスラームの影響の強い場合もある。そんなふうにさまざまな文化が入り混じって存在していて、どこに注目するのか、誰の言葉を取り上げるかによって、見え方が大きく変わってくる。その調和や混沌に私は魅力を感じます。暗黒の時代だと思われがちな中世ヨーロッパですが、人々の感情に注目してみることで、多面的で興味深い時代だったことがわかると思います。本書を通して、中世ヨーロッパのあらたな一面を見出してもらえたら嬉しいです。


(麦倉正樹)