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立花もも 新刊レビュー 暑い夏に何を読む? 毒まみれの作品、フィクションと見紛う医療小説など注目4選

2024年08月01日 11:50  リアルサウンド

リアルサウンド

田辺青蛙 『致死量の友だち』(二見文庫)

 発売されたばかりの新刊小説の中から、ライターの立花ももがおすすめの作品を紹介する本企画。数多く出版されている新刊の中から厳選し、今読むべき注目作品を紹介します。(編集部)


田辺青蛙 『致死量の友だち』(二見文庫)

  主人公は、エスカレートしていくクラスメートからのいじめだけでなく、愛情のない家庭環境に苦しむひじり。そんな彼女に手を差し伸べるのが、美しき孤高のクラスメート・夕実である。ひじり以上におぞましい仕打ちを、教師からも生徒からも受けている彼女の豊富な毒の知識でもって、復讐を果たしていくシスターフッドの物語かと思いきや、途中から思いもよらぬ方向へ事態は展開していく。


  夕実以外によりどころのないひじりは、夕実の同志というより忠実なしもべのようでもある。唯一無二の絆がありながら、どこかあやうい二人の関係は、人殺しの共犯となることでよりいっそきらめくものになるのでは……と思っていたら、予期せぬ人が、予期せぬ形で殺されて、物語は学園内で起きる連続殺人事件の犯人捜しへと変わっていくのだ。


  犯人はいったい、誰なのか。ひじりに届く「かわりに殺してあげた」などのメッセージの意図は。父親が探偵だというちょっとイキッたクラスメートの出利葉くん(解説を書いた三浦しをんさんの大のお気にいりキャラだそう)愛情があるのかないのかわからない(たぶんほとんどない)ひじりのお兄ちゃん、関係なさそうな人もみんなあやしく見えて、翻弄されているうちにこれまた予期せぬラストにたどりつく。


  最初から最後まで毒まみれ。登場人物の造形ふくめて不快感マックスなのに、どこかクセになる。単行本ですでに読んだという人もぜひ、書き下ろしで加えられたという後日譚ふくめて、読んでほしい。さらにおぞましい気持ちになること、請け合いである。



滝沢志郎『月花美人』(KADOKAWA)

  読み終えて、巻末の〈この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。〉の文字に「そんな馬鹿な!?!?」と叫んでしまった。


  姪の若葉と二人で暮らす郷士・望月鞘音(さやね)の仕事は紙を漉くことである。傷による流血を止めるため、自力でアレンジした〝サヤネ紙〟を売って生計を立てていたのだが、あるとき、その紙をまとめ買いする女性医師によって、月経中の女性に配られていることを知る。


  月経は穢れとされていた時代。自分の名を冠した紙を、そんなものに使われては名誉も穢れると最初は憤った鞘音だが、くだんの医師・佐倉虎峰だけでなく、幼なじみで紙問屋の若旦那・壮介にも、より女性たちのためになるよう、紙を改良することを説得される。初潮を迎えた若葉によって、女性たちの苦悩をより身近で切実なものへととらえなおした鞘音が、改良に改良を重ねてつくりあげたその紙が、今でいう生理用のナプキンである。


 「女人を救うことは、子を産む母親を救うこと。母親を救うことは、産まれてくる子を救うこと。ひいては天下万民を救うことにござりまする」と鞘音は言う。士道に反するという誹りを、逆に「それこそが士道なのだ」と説く彼の弁は、正直、屁理屈にも近いが、言葉や知識というのはこうして武器に変えていくのだな、と感じられる場面が、とてもよかった。差別や偏見を打ち破るために必要なのは、相手の倫理観に寄り添って、いかに相手を納得させるかなのだなあ、とも思わされる。


  そんな鞘音たちの闘う姿は、現代を生きる私たちを救ってくれもする。すべての人を納得させ、救うことはできなくても、性別の垣根をこえてともに革命(よなおし)の一歩を踏み出すことはできるはずだと、信じたくなる。



いしいしんじ『息のかたち』(講談社)

  金属バットが頭に直撃したその日から、人の息のかたちが目に見えるようになった女子高生・夏実。なんと、それは遺伝だという。銀色のハーモニカをくわえたような少女のかがやく息。赤黒い生肉のかけらを周囲にばらまくヤクザものの息。そんなものが四六時中見えてはたまったものではないが、いしいしんじさんの表現があまりに美しく、色とりどり形もちがう息に彩られた世界はどんな情景を見せてくれるのだろうと、夢想してみたりもする。


  息が見えるようになって、急にモテはじめるのもおもしろい。「こっちから息がみえてるていうんは、向こうからしたら、みられてるわけやろ。意識しいひんとしても、呼吸の底では、向こうもなんかしら感じたはんのとちゃうか」と祖母は言う。かくいう祖母も、そして男子校で青春を過ごした父も、夏実と同じ年ごろにモテてモテてたまらなかったという。


  考えてみれば、一緒にいて心地いいのは「呼吸が合う」と思える相手だ。見えてる、ということはおそらく自然と夏実は相手の呼吸にあわせられる、とまではいかずとも、呼吸を邪魔しない行動とるわけで、それだけでうんと魅力的になってしまうのかもしれない。


  息のかたちは、私たちのありようそのものだ。祖母がもらす薔薇のような吐息みたいに、美しい息を吐けているだろうかと、考えたりもする。一方で、コロナ禍を舞台にした小説だからこそ、自分の息がよくないものをはらんでいるかもしれない、その可能性についても考える。でもそれを、ただ忌避するのではなく、それでも美しい情景としてとらえなおしていく、いしいしんじさんの感性と表現に、胸を打たれる。


  私たちは、息をしている。それぞれのかたちで、生きている。その瑞々しさをいつまでも失わずにいたいと思える小説だった。



村上雅郁『かなたのif』(フレーベル館)

  中学1年生の香奈多(かなた)には友達がいない。空気が読めなくて、クラスメートの名前を覚えるのもへたで、いろんなことがうまくやれない彼に「お世話係」はいるけれど、友達じゃないとはっきり言われている。そんな香奈多が、終業式の日に出会ったのが瑚子(ここ)という少女。同じ学校の同じクラスだと彼女はいうけれど、そんなはずはなくて、もしかしたら香奈多のイマジナリーフレンドかもしれない瑚子と、過ごす日々が香奈多にとって何よりの希望になっていく。


  if、というのは願いだ。イマジナリーフレンドも、そう。もしこんな友達が自分にいてくれたら。もしこんな未来があったなら。そんな願いを重ねて、人は生きている。でも現実はときに残酷で、願いをかなえてくれないどころか、最悪のかたちで裏切ったりもする。物語が進み、瑚子が誰なのかがわかってくるにつれ、香奈多も、読者である私たちも、悲しい真実をつきつけられていく。


  でも本当に、ただ悲しいだけなんだろうか? 存在していてほしい人が、本当はどこにもいないのだと思い知らされるのは、たしかにとてもつらいことだ。でも、他の誰にもその存在を認めることができないからといって、それは本当に「いない」ということになるんだろうか。この世界のどこかに、「もしも」を重ねたその先に、信じていれば叶う希望もあるんじゃないか。


  中学生のときにもしもこの本に出会っていたら、何かが変わっていたかもしれない。でも、大人になった今でもきっと、読み終えたあとには何かが変わっているはずだ。そんなことを信じさせてくれる、ファンタジックな物語。