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「殺すつもりはなかった」 無期懲役囚が語った”殺人犯の心理” 仮釈放の通知は「意外だった」と吐露

2024年07月18日 10:50  弁護士ドットコム

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66年前に起こした殺人事件で無期懲役囚となった男性。刑務所に収容されたものの、さらに別の事件を企て、2度目となる無期懲役の判決を受けることになる。獄死を免れた今、事件を振り返り、殺人に至る心理を明かした。(弁護士ドットコムニュース・一宮俊介)


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●刑務所でも殺人 求刑は死刑、2度目の無期懲役

最初の殺人からわずか半年後のことだった。



無期懲役囚となった稲村季夫さん(現在91歳)は1959年7月8日、刑務所内で仲良くなった受刑者の鈴木和男さん(当時28歳)を別の受刑者と共謀して革切り包丁で刺し殺した。



千葉地検に保管されていた当時の刑事記録によると、事件発生の約1カ月前から、鈴木さんが稲村さんをバカにするような態度をとったり話しかけても返事しなかったりするようになった。



その後、稲村さんがある受刑者に親族の個人情報を書いた紙を渡したことでそれを受け取った相手が刑務官の取り調べを受けた。そうした行為を鈴木さんが強く非難したことに稲村さんは立腹して殺害を決意したという。



2度目の殺人に検察は死刑を求刑。一方、弁護士は「稲村は極度に興奮しやすい精神的欠陥者であって犯行当時心神耗弱の状態にあった」と主張した。



千葉地裁は1959年10月24日、「あらかじめ事前に詳細かつ具体的に打ち合わせをしているのであって、稲村の行動になんら精神病的異常は認められない」として2度目となる無期懲役の判決を下した。





●「死刑になってもしょうがない」と控訴せず

当時の新聞には、「当時百人余人の作業員と二人の看守人がいたが、まったく一瞬の出来事だったという」「殺害された鈴木も二人を誘発するような言動をしていたことなどから、この事件としては情状判決となった」などと書かれている。



2度の無期懲役判決に対して、稲村さんは「もう何でもいいやって自分を捨てていた。死刑になってもしょうがない」と控訴しなかった。



刑が確定した後、被害者の母親にお金を送ったこともあったが、「そういうことをされると息子を思い出す」と拒否された。そのお金は代わりに、事件を起こした現場の近くにある福祉施設に寄付したという。





●「弱いものが逃げるのを見て追いかける動物と同じ」

犯行はあまりにも自己中心的で残虐だが、2件の殺人事件とも稲村さんは「相手を殺すつもりはなかった」と振り返る。



そして、人間が人間を殺める際の心理状況を説明した。



「相手の襟元をつかんで、動かないようにして顔を切った。そしたら『ワーッ』と言ってものすごい力でふりほどいて逃げ出した。人間の最期の力というのはおそろしいですよ。それを追いかけてとどめをさした」



人差し指を縦に振って刃物で切り付けるそぶりを見せながら話を続ける。



「人間って不思議なもので、勢いに負けるんですね。やるなら最後までという気持ちになってしまう。動物と同じで、弱いものが逃げるのを見た時に追っかける。それでやってしまう」





●17歳で少年院へ 70年近くを矯正施設で過ごす

稲村さんは1933(昭和8)年5月、朝鮮の京城(現・韓国ソウル)で日本人の両親のもとに生まれた。



終戦後に日本に引き揚げたが、家庭は困窮。現在放送中のNHK朝ドラ「虎に翼」でも描かれているように、戦後の混乱期、街には孤児があふれていた。



稲村少年は近所に住む子どもたちと豆腐を売って回ったといい、自然と素行の悪い友達とつるむように。



17歳ごろに少年院に入り、その後も窃盗や詐欺、覚醒剤使用を繰り返して20歳で初めて刑務所に送られた。



出所すると今度は、当時付き合っていた女性と心中しようとしたが死にきれず、殺人未遂罪で再び1年半服役した。



そして、殺人事件を起こし無期懲役囚となる。



少年院から数えると、稲村さんは91年の人生のうち70年近くを矯正施設で過ごしてきたことになる。





●無期懲役囚として開き直り、刑務所の有名人に

「どうせ出られないと思っていた」。無期懲役囚としての服役生活が始まると、逆に開き直ったという。



中で出会った気の合う受刑者と「兄弟分の盃を交わした」。彼らがトラブルを起こして懲罰を受けると、「よしっ、俺がやってやる」と代わりに刑務官や他の受刑者を襲撃。傷害事件を何度か起こし、服役中にも実刑判決を受けた。



刑務官に刃向かうと、あとで他の受刑者が食事の時にご飯をいつもより多く盛ってくれたり、黒砂糖を入れてくれたりしたという。



処遇困難者として北海道の網走刑務所、大阪刑務所、広島刑務所に次々と移送され、最後に送られたのが熊本刑務所だった。



そこで立ち直るきっかけをくれた刑務官との出会いもあり、反抗的な態度を改めた。





●仮釈放の決定は「意外だった」

2020年ごろから熊本市の職員などが刑務所に面会に来るようになったが、「まさか仮釈のためのものとは思っていなかった」。



そのため、仮釈放の決定を知らされた時は「『意外だな』と思う以外になかった」と驚いたという。



無期懲役刑は特別な許しがない限り死ぬまで国の監督下に置かれる刑罰であり、仮釈放されたといっても完全な自由があるわけではない。



さらに今、無期懲役刑は「終身刑」化していると言われており、無期懲役囚の多くが塀の中で亡くなっている。2度の無期懲役判決を受けながら仮釈放を許可された稲村さんは異例だ。





●「被害者に結びつける気持ちで生活」

稲村さんは上皇さまと同じ年に生まれた。卒寿(90歳)を過ぎた今、仕事を得ることは難しい。



「一人暮らしをしてみたいが、自炊できるか自信がない」という稲村さん。残る人生をどう過ごそうとしているのか。



「自分という欲望を抑えて人のために生活しなければいけない。(仮釈放後の生活で)つらいと思うことがあったら、それ以上に私のためにつらい思いをした人がいたと考える。わずかなことだけど被害者に結びつける気持ちを持って生活しています」