Text by 今川彩香
「大正ロマン」を象徴する画家である竹久夢二。東京都庭園美術館で『生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界』が開かれている。
同展覧会では、長年行方不明で近年発見された《アマリリス》をはじめとする油彩画や、夢二を看取った友人に遺したスケッチブックや素描など187点を展示。そのうち186点は岡山市の夢二郷土美術館に所蔵されている作品だ。
東京都庭園美術館と産経新聞社の主催で、8月25日まで。この後、岡山・夢二郷土美術館と大阪・あべのハルカス美術館などで巡回予定。展覧会をレポートする。
《桜さく島 春のかはたれ》(1912年 / 初版)=左=、《桜さく島 見知らぬ世界》(1912年 / 初版)ともに夢二郷土美術館蔵
1884(明治17)年に岡山県で生まれた竹久夢二。正規の美術教育を受けることなく独学で自身の画風を確立し、「夢二式」と称される叙情的な美人画によって人気を博した。グラフィックデザイナーの草分けとしても活躍し、本や雑誌の装丁、衣服や雑貨などのデザインを手がけた。
竹久夢二(たけひさ ゆめじ)
岡山県東南部の邑久郡本庄村に生まれる。本名は茂次郎(もじろう)。神戸中学校に入学するも家事都合で中退、一家で福岡県に転居する。17歳で家出して上京し、その後早稲田実業学校で学ぶ。雑誌『中学世界』に「夢二」という雅号を初めて用いて投稿したコマ絵が入選し、本格的に画家への道を進む決意をする。職業画家となって新聞や雑誌のコマ絵やスケッチを手がけるようになり、1909年に最初の画集『夢二画集 春の巻』を刊行。妻のたまきをモデルに「夢二式」と呼ばれた美人画を発表。夢二自ら企画・デザインした着物や小物などの雑貨類は若い女性を中心に人気となったという。1931年から産業美術の視察を目的にアメリカやヨーロッパ各国を回り、1933年に帰国。翌年、肺結核のため亡くなった。
本展覧会は、「1章 清新な写生と『夢二のアール・ヌーヴォー』」、「2章 大正浪漫の源泉──異郷、異国への夢」「3章 日本のベル・エポック──『夢二の時代』の芸術文化」「4章 アール・デコの魅惑と新しい日本画──1924-1931年」「5章 夢二の新世界──アメリカとヨーロッパでの活動──1931-1934年」の5章で構成されている。夢二の生涯をたどるように、概ね年代順の構成となっている。
会場である東京都庭園美術館の本館は、朝香宮家の自邸として1933年に建設された。担当学芸員の鶴三慧(東京都庭園美術館 学芸員)は、本展の見どころのひとつとして、時代の空気を共有するような会場で、夢二作品の世界観を味わえることだと説明。実際に、旧朝香宮邸には夢二の色紙も飾られていたという逸話もあるのだという。
《花火 雑誌『婦人グラフ』第1巻第4号表紙》(1924年)夢二郷土美術館蔵
また「幻の名画」とされていた《アマリリス》の本格的な公開が、本展の目玉でもある。1919年ごろに描かれたこの油彩画は、東京・本郷の「菊富士ホテル」の応接間に飾られていたが、1944年にホテルが閉業したのちは行方不明に。近年の調査で発見され、今年5月に夢二郷土美術館で5日間限定公開されていた。
《アマリリス》(1919年ごろ)油彩、カンヴァス 夢二郷土美術館蔵
夢二の油彩画は現存するだけでも約30点と少ない。本展では《アマリリス》以外にも、油彩画が13点展示されており、油彩画家としての夢二の一面を知ることができる。
例えば、旧朝香宮邸の書斎に展示されている《初恋》は、現存するなかで最初期にあたる油彩画だ。1912年に京都で開催された『第一回夢二作品展覧会』に出品。島崎藤村の『初恋』から着想を得たと考えられ、詩に登場する青年とその想い人である少女が描かれているのだという。
《初恋》(1912年) 油彩、カンヴァス 夢二郷土美術館蔵
会場風景より。この3点は夢二が封筒をデザインしたもので、左から『どくだみ』『つりがね草』『菜の花』
また、デザイナーとしても活躍した夢二の、例えば封筒や千代紙、本の表紙などの作品も目を引く。本展のキャプションによると、夢二が上京した1901年はパリ万国博覧会で「アール・ヌーヴォー」が国際的に大流行し日本に紹介され始めた時期。夢二も影響を受けたといい、アール・ヌーヴォー様式と、日本の浮世絵などの要素を融合させた独自のスタイルを確立していったとされている。アール・ヌーヴォーは、グラフィックデザインやインテリアデザインなど幅広い分野にわたった芸術運動でもあった。
会場風景より
本展では、夢二が晩年の1931年から約2年間、アメリカやヨーロッパに滞在した際のスケッチも公開している。これは、友人であり、夢二が亡くなるまで治療にあたった医師の手元に残されたものだ。今回が初めての公開であるという。
会場風景より
鶴学芸員は、「絵画の可能性を求めて海をわたった夢二ですが、帰国後病にたおれ、志半ばでこの世を去りました」とし、「本展にて海外で描かれた油彩画やスケッチを見て、夢二がもう少し命をながらえていたのであれば、また新たな展開があったのかもしれない──そのように感じ取っていただければうれしい」と話していた。
《立田姫》(1931年) 紙本着色 夢二郷土美術館蔵