Text by 後藤美波
Text by 葛西祝
映画や音楽など先行する表現メディアと同じように、現代のビデオゲームシーンも多様なアイデンティティを持つクリエイターとプレイヤーで構成されている。にもかかわらず、ビデオゲームにおいてはそうした現実を可視化するような言説は少ない。
一般ゲームメディアではエンターテインメントとしての情報提供が先走るのもあってか、ゲームで描かれるマイノリティのアイデンティティに言及した評論や記事が登場することはまだ多くない。現行の映画や文学批評で行なわれることが、ゲームでは決して普通ではない。
そんななか、先日出版されたゲーム評論書『フェミニスト、ゲームやってる』(晶文社)は、この一冊だけで見えにくかった状況を可視化するかのようだ。本書はタイトル通りフェミニズムの観点からさまざまなタイトルを取り上げている。それだけではなく、クィアや身体障害者など広範なマイノリティの視点で評しており、過去のゲーム評論とは一線を画したものとなっている。
本書を執筆した近藤銀河氏はアーティスト、美術史家であり、美術史をフェミニズムやクィアの観点から研究している。そんな近藤氏だからこそ評せた、ビデオゲームのあり方とはどのようなものだろうか?
—近藤さんの普段の美術批評などのお仕事と比べて、ゲームの評論は少し異色の立ち位置とも感じました。実際のところ、これまでのゲームとの関わりはいかがでしょうか。
近藤銀河(以下、近藤):私の専門は美術史なのですが、アーティストとしての活動では、「Unreal Engine」というゲーム開発エンジンで作品をつくったりもしているので、そのような面ではゲームという媒体をこれまでも扱ってきました。
また、メディアアート的なものと女性やセクシュアルマイノリティは関わりが深いところがあるので、インタラクティブなメディアとしてのゲームにも興味がありました。なので、私としては自分のメインの活動とゲームはすごくつながっているんじゃないかなと思っています。
─ご自身の普段の活動においてもゲームからは大きなインスピレーションを受けてきたのですね。
近藤:そうですね。美術史の研究でも現在の観点から見てレズビアンとみなしうるような表現についての研究をしているのですが、そういうものは史料や過去の研究も少なく、想像力がすごく求められます。
ゲームはプレイヤーが過去を生成していくようなところがあって、たとえばゲームの回想シーンでは、映画の回想シーンと違って、過去なのにプレイヤーが主体的に関わることができますよね。そういった想像力をもって歴史を考えるというのがゲームが持つ大きな意味なのかなとは感じていました。
近藤銀河(こんどう ぎんが)
1992年生まれ。アーティスト、美術史家、パンセクシュアル。中学の頃にME/CFSという病気を発症、以降車いすで生活。2023年から東京芸術大学・先端芸術表現科博士課程在籍。主に「女性同性愛と美術の関係」のテーマを研究し、ゲームエンジンやCGを用いた作品を発表する。ついたあだ名が「車いすの上の哲学者」。ライターとしても精力的に活動し、雑誌では『現代思想』『SFマガジン』『エトセトラ』、書籍では『われらはすでに共にある──反トランス差別ブックレット』『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド──ゲームの沼』など寄稿多数。本書が初の単著。
—近藤さんはどのようなかたちでゲームに触れ始めましたか。
近藤:子どものころは家でゲームをするのが禁止されていて、祖父母の家でスーパーファミコンをやっていました。そこで『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』シリーズや、『MOTHER2 ギーグの逆襲』(1994年)を遊んだのが始まりです。それから2000年代の半ば、中学生のころに携帯ゲーム機のPSP(プレイステーション・ポータブル)や、「勉強用に使うから」とNintendo DSを親に買ってもらったりしていました(笑)。
—『脳を鍛える大人のDSトレーニング』(2005年)などの知育ソフトが流行っていましたね(笑)。
近藤:ちょうど中学生になったころ、筋痛性脳脊髄炎 / 慢性疲労症候群(ME/CFS)を発症し、座ってモニターに向かってゲームすることができなくなったんです。そうした状態でも携帯ゲーム機は横になりながら遊べるので助かりました。
2010年代に入るとPCゲームが広まり、ノートパソコンやモニターアームを使ってモニターをベッドに配置することで、寝ながらゲームを遊べる環境になりました。それもゲームにたくさん触れるようになった理由のひとつです。
—フェミニズムやクィアとしての問題意識はそのころから生まれていったのでしょうか。
近藤:小さなころから自分のマイノリティ性やフェミニズム的なテーマが自分のなかにあったんですよね。ただ、当時はどちらかというとそのテーマは曖昧でした。ですが、たとえば『MOTHER2』にトニーというゲイのキャラが出てきたりしてくれることが嬉しいという感覚は、はっきりありました。
それらが問題意識として言語化されて立ち上がるのは中学生ごろからです。自分のマイノリティ性を強く自覚し始めて、フェミニズムの本を読むようになりました。
—昔のゲームはいまよりもさまざまなアイデンティティの人間を描くことがなく、基本はマジョリティの観点でつくられていたことが多かったですね。
近藤:私はマイノリティが出てくるフィクションを求めていたのですが、当時はそういったものが見つからないというのは、ゲームに限らず、小説や映画、アニメでもそうでしたね。なので、あらゆるメディアやあらゆるジャンルに触れ、ちょっとずつ自分の物語だと思えるものを見つけていくしかありませんでした。
—そのなかで印象深いゲームはありますか。
近藤:私の記憶に残っているのは、1997年の『フロントミッション オルタナティヴ』(※)です。味方のキャラクターにゲイやトランスジェンダー女性が出てくるのですが、そこで面白かったシーンがあります。
主人公が「自分は差別なんてしない。差別をする人がいるのは知っているけど、自分の周りにはいない」と言うのですが、その発言について仲間から怒られるんです。「差別が悪いのは当たり前だからいいじゃん」という普遍的な意見で終わらせることなく、さらに一歩踏み込み、黒人差別と同性愛差別が重ねられていたりするなど、複雑な差別のあり方を提示していました。それを1990年代にやったのはすごいと思います。
—本書のタイトルにある「フェミニスト」と聞くと、特に女性への性差別による不当さを取り扱うイメージがありますが、本書はそれだけではなくクィアや、身体障害の視点も含まれています。
近藤:私にとってのフェミニズムのあり方は、まさに障害や人種差別、性的マイノリティへの差別すべてと連動しています。それらと重なるかたちで女性差別があります。そこからマジョリティ性を問い直すことも含めてフェミニズムだと考えています。
インターセクショナリティとも言いますが、この本では、フェミニズムとして多層的な抑圧アイデンティティが重なるものを目指しました。同時に、現代のゲームのあり方はそのような多層的な差別のあり方を語るものが決して少なくはないので、自然とそうなったところもあります。
—私は普段ゲーム専門メディアの寄稿が多いのですが、現在フェミニズムやクィアの要素を持つさまざまなタイトルが出ていても、なかなか表立って言及されにくい印象があります。
近藤:私はむしろ逆で、ゲームメディアはそのテーマについて触れている印象です。ただ、ゲームコミュニティがあまりにトキシックなので、ゲームメディアで言及しても、興味を持つ人に広がらないのではないかと思います。
『フェミニスト、ゲームやってる』では、フェミニズムやクィアの表現に興味がある人に、どうしたら多様な表現を持つゲームを届けられるのか、という問題意識がありました。そのこともあり、テーマに興味を持っていても、ゲームをやったことがない人に向けて、どうやって購入をすればいいか、どんなふうにプレイをすればいいかなどの解説も書いています。
近藤銀河『フェミニスト、ゲームやってる』(晶文社)表紙
—確かに、評論としてはゲームの購入方法や遊び方に文字数を割いているのは珍しいです。
近藤:いままでのゲームの書籍は最初からゲームをやっている人向けに書かれているか、逆に本を読めばやらなくてもわかるというかたちで書かれている面があったと思います。なので、連載時も「ゲームをやらない人に、どうやったらプレイしてもらえるだろう」ということを一番に考え、連載の担当だった編集の金子(昂)さんと相談して書いていました。書籍で担当いただいた晶文社の竹田(純)さんともこの点は話し合って、用語の解説を細かくしたりしていました。
金子(wezzy連載時の担当編集):連載を始めるとき、「ゲームのストーリーだけ引っこ抜いて批評するのは避けたい」という話はしていましたね。ゲームというメディアだからこそ、主体的にプレイできる楽しさを文章にしたいとリクエストしていました。そうすることで、読者が「自分でもやってみようかな」と思ってもらえるのではないかと。
—連載時の反響はいかがでしたか。
近藤:嬉しかったのは、このテーマに関心を持ってゲームをプレイしている人がすでにたくさんいると気づけたことです。そうした方々が反応をくれて、言葉が届いただけじゃなく、その方々同士で話し合えるきっかけになった気がします。しかし、もともとゲームに興味がある人には連載があまり届いていない気はちょっとしています。
やはりフェミニズムやクィアの視点でゲームをやっていると孤独な感じがするというか、安心して話せる場所がなかなかないんです。ネットを見ると、ヘイトばかりなのもあって。
—ゲームコミュニティではポリティカル・コレクトネスに反発を覚えるケースも多く、そのテーマに関心がある人同士でもつながるのが難しいのは想像できます。
近藤:特にクィアやフェミニストのプレイヤーにとっては、ゲームコミュニティは怖いものと思われています。日本語圏でもいろいろな問題がありますし、英語圏でも「ゲーマーゲート事件」(※)が起こりました。
ゲーマーゲート事件は英語圏の匿名掲示板「4chan」が温床になったこともあり、のちにQアノンにつながりましたし、日本ではゲームのまとめサイトがヘイト言説をずっとやっていたり、ゲームとヘイトが相乗的な効果を持っている場面はたくさんあります。
現在、ゲームのつくり手もすごく多様な人々がいて、フェミニズムやクィアネスや人種差別などをテーマとした作品がつくられています。ゲームライターにもそういった意識を持つ書き手がいます。ゲーム文化ってすごく豊かなものなのに、トキシックなコミュニティや怖いというイメージによって、そうしたテーマに興味のある人ほど、ゲームの面白さに触れることができなくなってしまうのは大きな問題です。
—女性やクィア、マイノリティのプレイヤーやクリエイターにとって、ゲームの表現だからこそ持ちうる意味についてはどのように思われていますか。
近藤:ほかの表現媒体がそうであるように、どんな作品や表現媒体でもフェミニズムやクィアの意味を持ち得るというのが前提にあると思います。そのうえで何がゲームの良さなのか、なぜゲームとして表現するのかということですよね。
マイノリティにとっては、過去というものが曖昧なんです。よく言われるのが、自分のアイデンティティと同じようなロールモデルが過去にいないこと。それによって自分がどこにもいないような、どこにも所属していないような感覚がすごくあります。そうすると未来を思い描くことも難しいんです。
私にとって未来とは、現在と過去のふたつの点を結んだ先にあるものです。しかし、過去がないと現在しかなく、未来を想像することが難しい。過去にいたマイノリティに触れるには断片的な情報から想像力を使わざるを得ず、時間というものが捻じれたものになっていくんです。
その意味で、ゲームならではの表現に「過去の可塑性」があると思います。たとえば本書で扱った『If Found…』(2020年)(※)などはすごくきついトラウマを語るゲームで、プレイヤーが能動的になることを意識させられるプレイを特徴としています。これは小説などではできない表現になっていて、プレイヤーが能動的になることで過去のトラウマと距離を置くための装置ができる、トラウマ体験を語る素地ができる面があると思います。
『If Found…』のプレイ画面。本書Ⅳ章「80-90年代を描くゲーム」の「#13 トランスジェンダー女性記録を消しながら記憶をたどる──「イフ・ファウンド… If Found…」、やってみた」より
─小説や映画などだとクリエイターの個人的なトラウマ体験などがもっとダイレクトに出やすいけれども、ゲームだと自分がプレイヤーとしてコントロールすることで、やや客観的な視点で見ることができる、ということでしょうか。
近藤:そうですね。トラウマを語るうえで、ゲームの特性によってそのことから少し距離をとりやすいんじゃないかなと思います。
また、マイノリティの体験や経験がゲームになっていることの重要な点は、ゲームにはルールがあって、そのルールのなかでプレイすることが、マイノリティが社会規範のなかで自身のマイノリティ性や差別とどう向き合っていくかということと類似しているということです。
つまり、あるルールのなかで抵抗したり従ったりするのがゲームだとするなら、マイノリティの経験は規範と向き合いながら、ときに反抗したり従ったりしながらなんとか差別的な世界で生きていくということ。その体験はゲームをプレイする体験とすごく近いと思うんです。
─マジョリティ的な視点だと、ゲームが持つルールに則って行動したり、争ったりしながら勝負に勝ったり、点数を稼いだりする特性は、既存の社会的な成功や適応をデフォルメしたようなものにも感じるんですね。本にも書かれていましたが、あらためて近藤さんのご意見には少し意表を突かれました。
近藤:それはまさにマイノリティとマジョリティにとっての規範のあり方の違いなのかなと思います。マジョリティにとってルールは有利に働くもの。だからこそ、マジョリティであると思うんですが、そういう人たちにとってルールはたしかにハックしたり、成功のために使うものだと思います。
でも、マイノリティにとってそれは反抗したり乗り越えたり、あるいは従いながら利用したり、すごく格闘するものだと思うんですよね。マジョリティにとってのゲームとマイノリティにとってのゲームが違うというのは、現実の規範がそれぞれにとってどう働いているかの違いでもあるのかなと思います。
本書Ⅳ章「80-90年代を描くゲーム」の「#12 クィアなミドルエイジ女性の過去・現在・未来──「レイク Lake」、やってみた」より『Lake』のプレイ画面
—現実の差別とのつながりという意味で、本書で興味深かったのがゲームの能力主義についての言及です。たとえば女性やマイノリティの属性を持つ主人公が、戦闘などで結果を出すことで差別を跳ね除けコミュニティに認められるという展開に対して批判的でした。
近藤:私のスタンスとして、全力で褒められる作品はこの世にないと思っています。どんな作品にもなんらかの良さとなんらかの悪さがある。
本書で扱った、オープンワールドの大作アクションRPGである『Horizon Zero Dawn』(2017年)(※)では、女性主人公や女性の科学者が活躍したり、ジェンダー的な規範を崩すような描写がたくさんあったり、あるいは主人公が受ける人種的な差別について語られるなど意欲的な作品です。自分が投影できるマイノリティが活躍できるゲームはすごく嬉しいことでもあり、エンパワーメントになるものでもあります。
同時に、主人公がいろんな人々に認められていく過程が能力主義的であるのが問題です。主人公=プレイヤーですよね。敵を倒してマイノリティが受け入れられることで差別が解消されるというのは、マジョリティにとって都合のいい展開でもあるんです。ゲーム自体も打ち倒す快感を重視しているのもあり、能力主義というのはクリティカルな問いになる気がします。そういう意味で、本作は大作ゲームにおけるマイノリティの表象の良さと歪みを一身に抱えるゲームではないでしょうか。
—「全肯定できる作品はない」ということですが、自分が好きなものでも肯定できない要素が含まれていたり、それが明るみになるということがいろんなジャンルで起きています。ファンとしては気持ちが引き裂かれるところだと思うのですが、近藤さんはそういったことについてどう捉えているのでしょうか。
近藤:やっぱり「好きなものが正しい」というのはなかなか難しいことだと思っています。そこは一致しないものなので、「批判しつつ好きである」というのが矛盾した態度ではなく、当然のこととして考えていけるようになればいいんじゃないかと思います。
好きなものを批判されると全部を否定されたように感じられるというのは、いろんなところで見受けられますが、好きでありつつ批判するということをみんなで考えることではないでしょうか。また、私の個人の考えですが、逆に嫌いなところがわかっていたほうが、長く好きでいられるんですよね(笑)。私は長く好きでいたいので、批判できるところは批判しながら考えたいなあと。
—最後にフェミニズムの実践としてゲームをプレイしたり、ゲームをつくったりすることについてご自身で今後考えていることがあれば教えてください。本書では発売前にプロモーションとしてのゲームを近藤さんが直々につくったりもされています。
近藤が自ら制作した、『フェミニスト、ゲームやってる』の内容を紹介するゲーム。PCやスマートフォンのブラウザからプレイ可能(サイトを見る)
近藤:いまはZINEカルチャーがすごく人気で、『文学フリマ』も盛んですよね。そのなかでフェミニズムや人種差別などのこと、イスラエルによるパレスチナの虐殺に対して反対するといったことが実践されていると思います。
それと同じような感覚で、ゲームがつくられていけばいいなあと思っていますね。私が本書のプロモーションでつくったゲームも3時間か4時間でつくったようなものなので(笑)。そのくらいでゲームってつくれるし、5分くらいのプレイ時間でも面白いものがつくれることがあります。それによってゲームカルチャーも私たちの社会も変わってくると思うんですよね。本書を読んだ方は、ぜひゲームをつくってみてほしいです。それが最高の実践ではないでしょうか。