2024年06月05日 09:40 弁護士ドットコム
日本テレビ系列で昨年ドラマ化された漫画『セクシー田中さん』の原作者で、漫画家の芦原妃名子さんが亡くなったことを受けて、日本テレビと、原作版元である小学館がそれぞれ社内調査報告書を発表した。
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2つの報告書からわかるのは、出版社は芦原さんからの脚本修正などの意向を再三伝えたとするも、テレビ局が否定しているということだ。いろいろと書かれてあるが、本当のところは当事者ではないのでよくわからない。
なんだか「日テレのプロデューサーが悪者ではないか」というような空気になっているが、それはそうとは言い切れないような気もする。
テレビ局のプロデューサーという立場で言えるのは、日テレの報告書には書かれていないことがあるということだ。それゆえに、この報告書は完全とは言えない。ドラマ制作に関わる全体像を明らかにしたい。(テレビプロデューサー・鎮目博道)
日本テレビと小学館の報告書を読んだ。かなり詳細なことがそれぞれ明らかにされており、反省や今後の改善点などにも触れているが、「互いに相手の対応への疑問を指摘し、不信感をあらわにしている」内容だと印象付けられた。
これらに書かれてあることを受けて、たくさんの人が意見を述べている。
私はわかりやすく「何が悪い」とは断言できない。しかし、テレビマンとして、いろいろ感じるところはある。それを書くことで、みなさんのこの問題に対する理解の助けになれば良いと思う。
双方の報告書からほぼ完全に抜け落ちていることがある。演出サイドや技術サイドの意向だ。
報告書に登場する日テレ側の人物は、局のプロデューサーとその上司と思しき人物と脚本家、ほぼそれだけ。
実際には現場で大きな権限を持つはずの監督やディレクターたち、制作を受注していて実質的に現場を仕切っていたはずの制作会社のプロデューサー。演出に相当影響力を及ぼすこともあるカメラマンなどは登場しない。
彼らが何を考え、どう発言し、どう動いたのかは、報告書からはまったくわからない。
こうした人たちの言動が明らかになっていない報告書では、どのような力学が働いて原作の世界観が変えられていったのかは見えてこない。
テレビの現場には多くの人が関与するから「誰が実質上の権力者か」はその番組によってまったく違う。
「プロデューサーがワンマンで絶対権力者」の番組もあるが、別の番組では「ディレクターのトップである総合演出が神様」だったりもする。演出家や放送作家が強い番組もあるし、カメラマンや技術が威張っていることもある。
報告書を読む限り、局プロデューサーが『セクシー田中さん』をドラマ化したいと思って企画を提案し、実現に漕ぎ着けたということのようだが、では、その局プロデューサーがどこまで「自分の思い通りに番組を作ることができたのか」はまったくわからない。
想像ではあるが、この人の思い通りに事は進まなかったのかもしれないな、と感じる。
私にはドラマを制作した経験はない。ドラマ以外の多くの番組にディレクターやプロデューサーとして関わってきたが、「自分の思い通りに作れた」と思える番組は正直ほとんどない。
あまりに多くの人が関わり、さまざまな方向から突然「御意向が降ってくる」テレビ業界では、「中の人」ですらほぼ思い通りに番組を作ることはできない。
当時を振り返ってみると、「限られた時間と予算の中で、放送事故にならないようになんとか番組を完成させた」と必死だったことしか頭に浮かんでこない。
プロデューサーと聞けば「偉い人」と思われるかもしれないが、現在のテレビ業界では「使いっ走り」とほぼ同義語だ。
これも想像だが、報告書に出てくるプロデューサーも、まず局内では営業や編成、そして自分の上司たちから降ってくるさまざまな「無茶な指令」に苦しめられ、制作会社や演出サイド、脚本家からの要望を「できるだけ実現しなければならない」と悩み、こうした「さまざまな声」と出版社・原作者との板挟みとなった可能性があるのではないかと思う。
報告書からは、小学館と日本テレビの担当者が、短すぎるタイムリミットの中で懸命になんとかドラマを成立させ着地させようと、殺人的忙しさの中で苦悶しまくった姿を想像した。
殺人的忙しさを問題の原因にしてはいけないが、なぜ彼らがそのような状況下で番組作りを進めることになったのかについて、視野を広げて調べることは必要ではないか。調査報告書に足りていないのはそれだ。
きっと、出版社や漫画家の世界と、テレビ番組制作の世界は、似ているようでいてまったく異なる世界だ。
報告書を読むと、その「まったく異なる世界」の価値観をすり合わせることができていなかったことが、問題の根幹ではないかと考えさせられる。
冒頭で書いた「お互いに相手の対応への疑問を指摘し、不信感をあらわにしている」というのは、まさにこの「まったく異なる世界観」を象徴的に表しているのだと思う。
テレビは「誰の思い通りにもならない世界」で、出版は「作家の思い通りになる世界」と言えなくはないか。もちろん作家の思い通りにならない部分もあるだろうが、その「思い通りにならない」度合いはまったくテレビ業界の比ではない気がする。
今回、ずいぶん原作者は「ドラマだから改変されることもあるのは理解している」という姿勢を示しているし、出版社はテレビ局側に伝えてもいるが、「理解できる改変の質や程度」についても、本当のところでは双方で共通認識が持てていなかったのではないかと思える。
立ち止まって考えてみたい。本当に『セクシー田中さん』はドラマ化すべき作品だったのか。テレビ業界の諸々を理解したら、また違う結論もあったのかもしれないと思う。
一方、日本テレビにとって『セクシー田中さん』は、本当に彼らが望む番組に適した原作だったのか。これも疑問が残る。
そして、こんなことも思う。テレビは「丸めこむ世界」で、出版は「尖らせる世界」なのではないか。テレビはいろんな視聴者たちの最大公約数を狙って視聴率をとる。多くのスタッフたちがそれぞれの意見を「丸めこんで」なんとか関係性を保ち、チームとしてプロジェクトを前に進める。
かたや出版は「作家が作り上げる尖った世界」をさらに尖らせて、作家と共感する人たちの「深い共感」を呼んでビジネスにしている。
尖らせようとする原作者と、丸めようとする演出陣・脚本家。そこで世界観の衝突がいちいち起こり、原作者と脚本家の不信感が相互に深まったのかもしれないと想像する。
そして、出版社がテレビ局に伝えた要望も、テレビ局が「丸め込んで」しまったことによって、プロジェクトは前に進んだ。しかし、溝は深まってしまったのかもしれない。
契約をもっと早くに結ぶべきだし、もっと時間をかけてすり合わせるべきだ。そして、もっと人員や予算も増やして、じっくり取り組むべきだ。それはいろいろな人が指摘しているし、間違いのないところだろう。
それに加えて、それぞれがあまり相手のことを理解しないままに、相互依存してきたことに問題の本質がある気がする。
テレビも出版も右肩下がりの不況の中で、ビジネスのためにお互いを都合よく利用してきた。しかし、まだまだお互いちゃんと理解し合えていないのではないか。
まずは、お互いきちんと交流して理解を深めて、本音でぶつかれるようになる。そこからしか再発防止策は生まれないような気がする。