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写真家たちは強大な権力の抑圧にどう抗ったのか。バルト三国の写真家に焦点を当てる展覧会をレポート

2024年06月03日 19:10  CINRA.NET

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Text by 廣田一馬

写真展『Human Baltic われら バルトに生きて』が6月9日まで表参道・スパイラルガーデンで開催されている。

同展では、1960年代から1990年代にエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国で活躍した17人のヒューマニスト写真家による200点以上の作品を展示。同展で取り上げる「ヒューマニスト写真」とは、人々の人生模様やストーリー、ドラマ性を写すことで人間性の重要さに光を当て、平和を推進しようとするものだ。

今回展示されている写真の多くが撮影された1960年代から1990年代は、バルト三国がソビエト連邦の支配下であった時期とも重なっている。そのため、人々の人生模様に加えて、ありとあらゆる制約に対してどのように写真家たちが抗い、挑戦したかを表わす写真が展示されているという。

今回の記事では、展示で紹介されている17人の写真家の作品のうち、3人の作品を紹介する。

1960年代から活動した女性写真家のマーラ・ブラフマナ。当時は男性の写真家がほとんどで、女性が写真を撮ることは非常に珍しかったという。

同展では、市場の様子を写したシリーズとブラフマナが生まれ育った場所を写したシリーズを展示。ブラフマナは日常生活をフィーチャーする写真を撮っていたが、当時の写真家は哲学的なものを扱うことが多く、ブラフマナが撮影するようなドキュメンタリー的写真は優位になっていなかったという。

リトアニア人で80歳を超える写真家のアルギマンタス・クンチュス。今回展示されている海辺を写したシリーズは1960年代からスタートしたもので、いまもなお同じテーマで撮影を続けている。

ラトビアとエストニアの首都は海に面した場所にあるが、リトアニアの首都は陸に囲われている。リトアニア人は週末に海に行くことを楽しみに生きており、海は非常に重要なものだとキュレーターのアグネ・ナルシンテは語る。

また、リトアニアの海辺の地域は約700年間ドイツの支配下にあった。海辺を写したシリーズでは「パロンガの桟橋」と呼ばれる桟橋が頻繁に登場するが、リトアニア人はその桟橋の一部にしか立ち入ることができなかった。パロンガは現地で「窓」という意味があり、ソ連の支配下の時代には「自由」や「逃亡」の象徴でもあったという。

何の情報もなく見ると、1980年代のリバプールやニューヨークで撮られたと勘違いしそうになる写真群。実際にはソ連統治下のエストニアで撮影された作品だ。

皆が同じ服装をして同じ行動をするよう統一されていたソ連統治の時代、周りと違うことをする人は抑圧の対象になっており、KGBなどの組織だけでなく、写真家からも抑圧されることがあった。そのような時代のなかで撮影されたアルノ・サールのパンクシリーズは非常に貴重で、重要な意味をもつ作品だという。

今回の展覧会では、リトアニアのビオレタ・ブベリーテ、ラトビアのグナーズ・ビンデ、エストニアのペーター・トーミングによるヌード写真も展示。ヌード写真はヒューマニスト写真という枠組には含まれないが、ソ連支配下では禁止されていたジャンルで、秘密裏に撮影が行なわれていた。

今回の展覧会ではそれらの歴史にあやかり、内側を向けて写真を並べる「秘密のブース」という形で展示されている。

ロシアのウクライナ侵攻により、バルト三国も脅威を感じざるえない現在。展覧会を企画した経緯や意義について、キュレーターのアグネ・ナルシンテは以下のように語った。

「初期の構想の段階ではウクライナ侵攻を加味していませんでした。バルト三国の写真家たちを祝福する機会として開催する予定でしたが、計画している途中に侵攻がはじまり、祝福するだけでなく、私たちが抑圧されていた、制約があったという歴史をしっかり伝えなければいけないという考えにいたりました」

「展示会を開催するとき、作家たちを祝福しようと考えがちなのですが、それによって政治的な側面をないがしろにするのは違うなと今回の出来事を受けて感じるようになりました。当時の写真家たちは脅威を感じ、抑圧されながら写真を撮っていたということを文脈として提示したいと思いましたし、すごく小さな一歩ですが、ウクライナを侵攻しているような体制に抗う手段だったことや、もっと大きく抗いたかったけれど結局微力になってしまったという歴史的事実も皆さんに認識していただきたいと思っています」