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「このままでは忘れられてしまう」 きっかけは危機感 40年前、ドラマ「虎に翼」のモデルを取材した京都の弁護士

2024年05月21日 09:50  弁護士ドットコム

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女性として初めて裁判官になった三淵嘉子(みぶち・よしこ)さんがモデルのNHK連続テレビ小説「虎に翼」。


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戦前に選挙権すら持たなかった女性たちが力強く生き道を切り開く姿が描かれており、特に法曹関係者の間で共感が広がっている。



ドラマ化によって女性で最初に弁護士になった三淵さんと中田正子さん、久米愛さんに今注目が集まっているが、今から約40年前、3人の存在を知りその生き方に感銘を受けた弁護士がいた。



それが、彼女らの人生を「女性法曹のあけぼの」などの本にまとめてきた京都弁護士会の佐賀千惠美弁護士(71)。



取材に駆け回った日々や弁護士を目指した経緯を振り返ってもらった。(弁護士ドットコムニュース・一宮俊介)





●きっかけは危機感 「記録がなければ忘れられてしまう」

ーーどうして3人の本を書こうと思ったのですか?



以前、出版社の方から司法修習生向けの雑誌にコラムを書いてほしいと言われたことがあり、打ち合わせの中で担当者から「女性の弁護士はいつからいるんですか?」と聞かれたのですが、私はすぐに答えられませんでした。



女性弁護士が誕生したのは戦後だろうなと思っていたのですが、少し調べてみると戦前に3人が女性として初めて弁護士になっていたことを知りました。



ただ、その3人について詳しく書かれた本がなく、そのうちの2人の先生はすでに亡くなられていました。



その時、「記録を残しておかなければこの人たちが忘れられてしまう」と思い、昭和60(1985)年に取りかかりました。



私は当時、検察官を退官した後で育児をしていましたが、毎日「これでいいのかな」と漠然と思っていたこともあり、3人を知った時の心理的なインパクトは大きかったです。



女性に選挙権がないあの時代に女性で弁護士になって頑張った人がいたということ自体がすごい。それに気がついた私しか記録に残す作業をやらないだろうなと思いました。





●1986年、中田正子さんに直接取材

ーーどうやって本を書いたのでしょうか?



まず、3人が在籍していた明治大学の追悼集を入手し、そこに文章を寄せている関係者にインタビューしに行きました。



すでに三淵先生と久米先生は亡くなっていましたが、中田先生や三淵先生の一人息子である和田芳武さん、久米先生のパートナーなどに話を聞いてまわりました。



中田先生は鳥取県にお住まいだったので、私は当時住んでいた関東から飛行機で取材に行きました。昭和61(1986)年8月のことです。



インタビューした時、中田先生は淡々と話されていましたが、どこかたおやかというか優しい印象でした。



ただ、「国家試験に受かるためにはガリガリ勉強しないとダメです」と話していて、芯が強くてしっかりしている方だと感じました。



お子さんたちには「鳥取には私を必要としている人がいる」とも言ったそうで、鳥取で弁護士活動を続ける意思を示していました。



私の帰りの飛行機が出発するまで時間に余裕があったため、中田先生が鳥取砂丘まで連れて行ってくれました。



中田先生はその時77歳で、夏の暑い時期でしたが、砂丘の中を「ハァハァ」と言いながら歩いて案内してくれました。親切な先生でした。



和田芳武さんには、三淵先生の日記や写真をお貸しいただきました。三淵先生の弟さんにも話を聞きましたが、「姉が一番優秀でした」と話していました。





●身内の影響と育った環境の大きさ

ーー3人の女性たちが突き進んでいけた原動力は何だと思いますか?



身内の影響や育った環境はとても大きいと思います。



三淵先生の父は海外で働いていたこともあり、三淵先生の思いを尊重してくれました。久米先生はお兄さんが学者だったようで、自分もそうなりたいと思ったのではないでしょうか。中田先生も父の影響があったと思います。



3人ともご家族の価値観はあの時代において少数派だったと思います。



おそらく「男に負けてたまるか」というよりも、世の中の仕組みが分かるようになって「自分の力を社会で発揮したい」という気持ちがあったのではないでしょうか。



また、当時の明治大学には女性が弁護士になることを後押しした穂積重遠先生のような方がいました。時代の巡り合わせもあり、3人は運も良かったと思います。





●父の勧めで法曹を目指す

ーー佐賀弁護士はなぜ法曹を目指したのですか?



私は熊本市で生まれました。父は大正生まれの九州男児で、薬剤師として薬局を経営していました。



父は仕事中によくラジオを聴いていたのですが、ある時、熊本県で初めて女性の弁護士になった人が法律相談で話していたらしく、当時中学生だった私に「女性弁護士はいいぞ。東大に行って弁護士になれ。金の心配はするな」と言ってきたのです。



実は父のいとこの女性は熊本大学医学部に女性として初めて合格した人だったのですが、あとで考えると、そんないとこがいたこととラジオで女性弁護士の存在を知ったことで、父は「女性もやればできるんだ」と思ったんだと思います。



中学生の私は父にそう言われ、「弁護士という道があるんだな」と意識するようになりました。



熊本高校を経て、1971年に東京大文科1類に入学しました。勉強するたびに自分の世界が広がることを実感し、勉強を苦痛とは感じませんでした。



ーーNHKの「虎に翼」は見ていますか?



はい。工夫して作られていて面白く、かつ俳優さんたちも良い演技をしていますよね。



当時の時代の女性の状況をストレートに表現しているので共感しながら見ています。



例えば、妻の能力を認めない夫が登場する場面などは「今の時代でもあるよね」という感じで。





●3人の先生が道を広げてくれた

ーー徐々にですが、女性の弁護士も増えています



女性にとって弁護士などの法曹は良い仕事だと思います。多様性があり、いろいろな立場の方が携わることは良いと思います。



ただ、まだ女性弁護士の平均収入は男性よりも少ない。弁護士業務は依頼者があってのものなので、依頼者が女性を選ばないという背景がまだあるかもしれません。



そこには女性は頼りにならないという偏見もあるのではないでしょうか。もちろん女性だからこそ男性よりも引き上げてもらったこともあります。



例えば、私は京都府地方労働委員会の公益委員に女性で初めてなりましたが、当時の私の年齢と同じ男性弁護士はなれませんでした。京都府として「女性の委員がほしい」ということで選ばれたのです。



三淵先生、中田先生、久米先生は道を広げてくれた方々です。私の場合、法曹になれたのは間違いなく父のいとこの女性とラジオに出ていた女性弁護士、この2人のおかげです。



まだ完全ではありませんが、ジェンダーへの意識も世代によってずいぶん変わってきました。弁護士として依頼を受けて仕事をするときには、性差は関係ないと思います。




【取材協力弁護士】
佐賀 千惠美(さが・ちえみ)弁護士
熊本市出身。東京大学を卒業後、1980年に東京地検の検事になり翌年退官。1986年に京都弁護士会に登録し、翌87年から弁護士として活動する。著書に、女性初の弁護士3人を扱った「華やぐ女たち 女性法曹のあけぼの」(早稲田経営出版)、「三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち」(日本評論社)、「三淵嘉子の生涯」(内外出版社)など。
事務所名:佐賀千惠美法律事務所