Text by 森谷美穂
Text by べっくやちひろ
Text by 篠原豪太
2024年3月に、作家活動20周年記念小説となる『あきらめる』(小学館)を上梓した作家の山崎ナオコーラ。
まだ少し肌寒さの残る4月の夜、高円寺の書店・蟹ブックスで、同世代作家で友人でもある小林エリカ、西加奈子と3人での文学トークが企画された。
残念ながら西は体調不良のため欠席となったが、蟹ブックスの店主である花田菜々子が急遽加わり、人がもつ加害性や「評価されたい」気持ちとの向き合い方、「そもそも『文学』とは?」など、『あきらめる』の周囲にあるトピックについて深く語り合った。
イベント中の蟹ブックス店内
小林:ナオコーラちゃんと加奈子ちゃんとは、それぞれの節目に3人でトークイベントをするのが暗黙のルーティンになっているよね。加奈子ちゃんは『サラバ!』を出したときに呼んでくれて、私が国立新美術館で展示をしたときにも3人で話して。
山崎:『サラバ!』のときは、加奈子ちゃんと私がちょうど作家10周年だったんだよね。
小林:じゃあ、あのときから10年経っているということ? びっくり。
山崎:そう。それで「私も大きい仕事ができたらお二人にお願いしよう」とたくらんでいたんだけれど、なかなかできなくて。でも今回、20周年で頑張って長編小説を描いたから……。
(会場から拍手があがる)
小林:おめでとうございます! 今日は加奈子ちゃんが来られなくなってしまったけれど、花田さんにも入っていただけて、すごく嬉しいです。
花田:みなさんは、だいたい同世代ですか?
山崎:そうですね。加奈子ちゃんと私はたぶんデビューが同じ年かな? 年齢はみんな同じくらいです。
小林:最初に会ったのは、私がデビューして2、3年くらいのときだったかな。中国で日中の若手作家交流会があって、それぞれ日本の作家として参加したのをきっかけに知り合いました。
作家同士って、お互いの作品は読んでいるけど、会う機会ってあんまりなくて。その交流会をきっかけに一緒に遊んだり旅行したりするようになりました。
山崎:エリカちゃんがニューヨークに滞在しているときに、加奈子ちゃんと一緒に遊びに行ったりもしたね。
小林:懐かしい! ダブルベッドで一緒に寝てもらったね(笑)。楽しかったなあ。
(写真左)山崎ナオコーラ:作家。1978年、福岡県生まれ。2004年に作家デビュー。近刊は『ミライの源氏物語』。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。
(写真右)小林エリカ:作家・漫画家・アーティスト。1978年、東京生まれ。目に見えない物、時間や歴史、家族や記憶、場所の痕跡から着想を得た作品を手がける。近刊は『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』と『女の子たち風船爆弾をつくる』。
小林:しょっちゅうメールや電話をするとかではないんですけど、本屋さんで二人の新刊を見かけたら絶対に買うし、それを読んで「いまこういうことを考えているんだなあ」って想像しています。
それぞれの若い頃の作品も読んできて、自分も年を重ねてきたからこそ、新しく出た本を読むと「人ってこういうふうに変化できるんだ」「変わることを恐れずに作品をつくり続けることができるんだ」っていつも本当に感動しちゃうんです。
花田:今日は山崎さんの最新作『あきらめる』の話や文学の話について、たっぷり聞いていきましょう。
花田:まずは『あきらめる』、本当におもしろかったです。「SF」と聞いて最初は身構えたんですけど、宇宙とかタイムトラベルの話ではなく、本当に起こりそうな近未来の話。子育ての話や親子の確執、人間のいろんな矛盾や不思議さが複雑に描かれていて、特に小さい子どもの加害性やままならなさみたいなものっていままであまり文学で読んだことがなかったな……と。心に「ドンっ」と来ましたね。
『あきらめる』(小学館):主人公が入院中の愛する人との残り少ない日々の過ごし方や、家を出ていしまった家族のことなどを考えて川沿いを散歩していると、親子風の二人組に出会う。親に見える人は思い詰めた表情で「自分の人生をあきらめたい」と言う――。「あきらめる」ことで自らを「あきらかにしていく」物語
山崎:いま「加害性」という言葉が出ましたけど、私は自分のなかにある加害性をどう取り扱ったらいいんだろう、とずっと考えていて。差別に反対したいと考えているけれど、一方で私自身も自然と誰かを差別してしまっているときがあって、自分のなかの暴力性を取り去ることができないんですよね。そんな自分の加害性に対峙しないといけない瞬間がある。
「あきらめる」は、古語では「明らかにする」という前向きな意味らしくて。差別や暴力といった加害性が自分にあると「明らかにする」ことで、もしかしたら何か答えに近づけるのではないかという気持ちがあり、小説にしたいと思ったんです。
花田:でも『あきらめる』で書かれていることって「私は差別する人間だけどそのままでいいや」とは違いますよね。「私は差別なんかしない人間です」でシャットダウンするのでもなく、「自分も差別している」ことと向き合い続けることが書かれているというか。
花田菜々子:本屋「蟹ブックス」店長。1979年生まれ。「ヴィレッジヴァンガード」に入社し全国各地で店長を務めたあと、「パン屋の本屋」店長、「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」店長など、さまざまな本屋に関わる。著書に『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』がある
花田:「自分も加害者だと自覚しよう」という言葉自体はすでに広がっているし、言われたら「そうだよな」と思うんですけど、それをもっと深く思考している感じがして、私はそこが好きでした。
小林:私が秀逸だと思ったのは、マイノリティとマジョリティの揺らぎが描かれているところ。同性愛者でマイノリティとして描かれている人物が、親子という関係性のなかでは家父長的になったり、子どもという社会的に弱いとされている人物が、暴力や強権を持ちえる存在にもなったり。力が強い弱い、マジョリティとマイノリティが、一人の人間のなかで固定せず入れ替わりながら展開していくのが素晴らしいと思いました
山崎:一人の人物がすべてにおいてマイノリティになるわけではないんですよね。マジョリティの側面ももっているし、弱い立場のときもあれば権力をもつときもある。
小林:私も『女の子たち風船爆弾をつくる(※)』(文藝春秋)を書くなかで、強者と弱者の揺らぎをすごく意識することがありました。
戦時中、高等女学校に進学できる恵まれた家庭の女の子たちが風船爆弾をつくり、一生懸命戦争に協力している。なぜなのかを調べていくと、彼女たちがキリスト教系の学校にいたため、敵として認定されないように率先して協力しなければいけなかった現実が見えてきて。弱い立場だからこそ、戦争に加勢しないと生き残れないんだということに行き着きました。
小林:これまで権力に一度も認めてもらったことがない存在として生きるなかで、自分たちのつくった爆弾で国に貢献できる、褒めてもらえると思ったらすごく頑張ってしまう……。そんな状況も私は、わかるなと思ったんです。
結果的に彼女たちがつくった風船爆弾で、アメリカ側に死者が出てしまった。そういうふうに、自分の弱さと強さが状況によって逆になってしまうことがあるんだなと考えるようになりました。
山崎:私はデビュー前、「弱い立場からものを書きたい」と考えていました。でも最近は、それだけじゃダメだよな、と思うようになって。
年齢が上がったことで相手から「怖い」と思われる立場になることもあるだろうし、そのつもりはなくてもパワハラの加害者になる可能性もある。だから、加害しているかもってまず自覚しなきゃいけないと思ったんです。
花田:でも、どこをゴールにすればいいんだろう、と悩みますね。「弱い立場だから人を傷つけてもしょうがないよね」「差別が再生産されるのは仕方ないよね」が答えじゃないことはわかっているけれど、個人をいわゆる「私刑」にしたり吊し上げたりしても意味がないし。
山崎:私の場合は、活動家ではなく芸術家としてその問いに向き合いたいので、「差別・暴力って何だろう……?」のままで答えを出さなくてもいいんじゃないかなと思うんです。
花田:小説だから無理にジャッジしなくてもいいんですね。「これはダメです」のもっと先に行けるのが文学の力だと思うんですけど、難しいのは、インターネット上の反射的な思想が日常にまで浸透してきて、不適切な行動に対して即座にブザーが鳴る人も増えているというか。
以前ある作家さんが「不倫をする登場人物を描きづらい」と話していたのが印象に残っています。不倫をする人が出てくるとみんなそこに集中して、「この男はクズだ」と言うことで満足してしまう……というようなことをおっしゃっていました。
「犯罪者の一生」みたいなかたちで書いているぶんには納得して読めても、「普通の人」の顔で登場人物がそういう行為をするととたんに拒絶反応が出てしまう人が多いと。
山崎:それを聞くと、文学の分野でもっと頑張らなきゃと思います。ジャッジではないことを、文学の仕事としてちゃんとやれていないのかもしれない。
小林:ジャッジの目線をどうやったら取り除けるんだろう、とはすごく考えます。政治的な思想がまったく違う人や罪を犯す人をつい「別の世界の人」と線引きしてしまう自分がいる。本当は自分にもそうなる可能性があるはずなのに。
でも小説だったら、「この人は自分みたいだな」と思っていた人物が予想もつかない行動を起こすこともあるわけで。『あきらめる』を読んでいたときも、はじめは雄大という人物の恋心や弱さに感情移入しながら読んでいたのだけれど、その同じ雄大が、別の関係性のなかでは、急に傲慢で尊大な態度をとっていて「えっ!」と驚いてしまって。そうやって揺さぶられることがすごく大事なんだなって実感しました。
山崎:意地悪をしてしまうこととか、差別をする側に立ったときの気持ちとか、そういうのを、むしろ「自分にもあるよね」って認めてしまうほうが一歩前に進めるんじゃないかという気はします。
線を引いてすっきりした気持ちになることも私にはたぶんある。だから「線を引かないほうがいいよね」と言うだけでは違うと思うんです。ほかの作品を読んで「線」を感じたとき、ここに私のやるべき仕事があるなと感じます。
たとえばその試みのひとつとして、『あきらめる』は性別や年齢を表す言葉を使わないで書いているんです。
小林:確かに。みんな名前で呼んでいるね。
山崎:性別の言葉を壁と感じて読みにくさを覚える読者もいますから。私の場合は、線引きではない、違う表現をしようかな、と。
とはいえ、性別を表す言葉を世の中からなくしたいわけじゃありません。私の書くものではほかの言葉を使おう、いまの社会のなかで私の場合はこうしよう、という程度のことで、ほかの人が性別を表す言葉を書くのはかまわないんです。
とにかく、「いまの社会でどう折り合いをつけて生きていくか」に自分らしさがあると思っていて、「こういうふうに折り合いをつけています」を書けたとき、いい仕事ができたと思えるんです。
山崎:「いい仕事ができた」という話をしたけれど、私は「作品が何かの賞を受賞したり、偉い誰かに認められたりしないと、仕事が続けられない」っていう呪いがなかなか解けなかったんだよね。
小林:『あきらめる』でも「私は賞をもらえないからダメなのか」と悩む登場人物が出てくるよね。私はあの話がすごく好きです。
山崎:そうそう、アートシーンで活動しながらも賞に関係してなくて、仕事にならない、と考える人物がいます。この考えは家父長制ですよ。「偉い人に認められないと仕事と思えない」っていう呪い。私自身、デビュー時に書評でいろいろいわれたこともあって、その呪いがなかなか解けなくて。当時、文芸誌に「トンマ」っていわれて悩んだり。
花田:それはただのクソリプじゃないですか(笑)。
山崎:いえいえ、偉い作家の、ちゃんとした言葉なんです。それで、褒められたり、賞に関係したりしないと、「文学」を仕事にしているとはいえない、という焦りが生まれました。そして、その焦りはずっと長くありました。
小林:私も、漫画を描いたり美術の展示をしたりいろいろなことをしているから、私の仕事は「文学」と思われてないんじゃないか、というコンプレックスがありました。チャラチャラしているように思われているんじゃないかと。一時期すごく悩んでいたんです。
でもそんなときにある知人の作家さんが「あなたのやっていることはすべて文学だ」と言ってくださったのがすごく嬉しくて。それから自分にとっての「文学」って何だろうってすごく考えたの。そうしたら、何らかのかたちあるもの、残るものだけが、私にとっての「文学」のすべてというわけではないのかもしれない、って思えた。
だから、ナオコーラちゃんにお子さんが生まれたあと「生活が大変で書けない」とSNSで発信していたのを見て、「ナオコーラちゃんの生活とか生きていること全部が文学だと私は思う」って言ったんですよね。
山崎:そのやり取りは強く覚えていて。「育児で文学に関することがやれない」みたいな愚痴を書いたとき、エリカちゃんが「育児も文学だ」とバシッと言ってくれてすごく勇気づけられた。育児中は時間に制限ができて、社会からも置いていかれているように感じていたから。
エリカちゃんの言葉を聞いて、子どもと雑談することも、家事やSNSだって「文学」かもしれない、と考えが広がって救われました。
山崎:エリカちゃんが『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』のなかで「賞をもらったり評価されたりすることだけが仕事じゃない」と書いてくれているのもすごく励みになりました。
小林:嬉しいです。あの本は、私たち自身が私たちの価値観で称えたいと思う事柄をもっと称えてもいいんじゃないかと思って書いたもの。何かの賞を取るとか偉い人や権威に認めてもらうとかじゃなくて、自分から見て「この人はすごいんだ」っていうところに、きちんと価値を生み出していきたいなと。
偉大な女性の伝記本はすごく増えていて、それ自体は本当に素晴らしいことです。でも私は、その伝記にすら入らなかった女の人の人生が素晴らしくなかったわけではないと信じていて。
たとえば、リーゼ・マイトナーという女性物理学者。彼女は核分裂の発見に大きく貢献したんだけれど、ユダヤ人であることから亡命を強いられ、研究の成果をすべてドイツ人の男性パートナーに取られてしまったんですよね。結果的に彼だけが『ノーベル賞』をもらい、リーゼはもらえなかった。じゃあ『ノーベル賞』をもらえなかったリーゼの仕事は尊くないのか? というとそうじゃない、と私は思う。
山崎:うんうん。それを聞くと、エリカちゃんの書いてきたもの、つくってきたものは根底で全部つながっているんだなと思う。
『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』。「歴史」のなかで、不当に不遇でありながらも戦い抜いた女性たちのストーリーが、27のイラストとともに描かれている。
小林:そうかもしれない。私自身は微力かもしれないけれど、権力とか差別に一つひとつの小さな積み重ねで抵抗できるんじゃないかと考えたとき、過去の人たちはどんなふうに抵抗してきたのかを知りたいとずっと思っていました。
山崎:私も「権力者に認められてこそ仕事は結実する」の呪いが、ようやく解けてきた。『あきらめる』はユートピアを書きたいと思って書いたんだけど、それも「文学」をあきらめたからかもしれない。
文学って、自分の恥ずかしいところをさらけ出すとか、ディストピア的な社会の表現を求められているのかなと思うことが多くて。昔は頑張ってそういうことを書こうと考えたこともあったんだけれど、やっぱり自分にはそれはできないと認めた。だから『あきらめる』を書けたのかもしれません。
小林:ナオコーラちゃんの仕事がそういうふうに結実したことに私はすごく感動しました。そうやって仕事の定義が広がっていくと、すごく生きやすくなると思うんだよね。
山崎:加奈子ちゃんがこんな感じのことを言っていたんだけれど、作家はみんなで協力して「日本文学」の本棚をつくる仕事をしているんだ、って。ライバル同士で本棚の枠を取り合っているわけじゃなくて、協力し合っている。
誰が書いたのかはどうでもよくて、結局「おもしろい本棚」をつくるための仕事をすればいいわけで。私が頑張って目立つ必要はないし、自分の名前を残さなくてもいいんだよね。私は、作家のみんなのことを、ライバルじゃなくて、友だちだと思っている。
私たちが生きているこの世界って、作家がどれだけ書いても書ききれないほど重大な問題に溢れていると思っていて。それぞれが感じていることを書いたり、口伝や踊りだったり自分が好きなやり方で伝えていく行為そのものが、意義深くて尊いことだと思っています。