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「水木しげる以上に水木しげるを知っていた」関係者に聞く、“伝説のファン”伊藤徹が後世に与えた影響

2024年05月07日 12:10  リアルサウンド

リアルサウンド

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■水木しげるも認めた日本一の水木ファンがいた


  2023年に公開された映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』がヒットし、2024年には鳥取県境港市の「水木しげる記念館」がリニューアルオープンするなど、空前の水木しげるブームが起こっている。そんな水木を語る上で欠かせない、伝説のファンがいた。古書店「籠目舎」の店主で、2013年に亡くなった伊藤徹である。


【写真】水木しげるの伝説のファン、伊藤徹が蒐集した貴重なコレクションや自身が編集した雑誌や鳥取の街並みなど


  伊藤は子どもの頃、『悪魔くん』を読んで水木作品の虜になり、ファンレターを出し続け、水木と交流を深めるまでになった。やがて、水木本人からも認められた日本一の水木ファンとして知られるようになる。『開運!なんでも鑑定団』にも水木しげるコレクターとして登場、そのコレクションを披露している。


  ファンであるだけでは終わらなかったのが伊藤の凄さだ。水木の作品目録を作成したほか、絶版古書の復刻版の出版にも関与するなど、ファンの枠を超えた活動を展開した。博覧強記の水木研究家として名を馳せ、ファンの間では“水木しげるよりも水木しげるに詳しい”と言われるほど評価されていた人物であった。


  伊藤は公私ともに水木と親しかったが、いろいろと晩年は“やらかし”てしまい、出禁を食らったとされる。それでも、後世の水木研究に与えた影響は計り知れないものがあるといえるだろう。筆者は今回、元籠目舎のメンバーで伊藤と親交が深かった岡本真一氏(54歳)にインタビュー。忘れられつつある伊藤の業績について話を聞いた。


■伊藤徹と接点をもったきっかけ


――岡本真一さんが、伊藤徹さんと接点を持ったのは何がきっかけだったのでしょう。


岡本:確か、「月刊漫画ガロ」1989年12月号だったと思うのですが、そこに掲載されていた『水木しげる画業四○周年』が刊行されるという告知を見て、慌てて購入予約の申し込みの手紙を出したのが、伊藤さんと最初にコンタクトを取った出来事でしたね。翌年早々から伊藤さんと文通を開始し、水木先生の情報をいろいろと教えていただきました。


――手紙を使ったやり取りが時代を感じます。その後、籠目舎に入ったのはいつ頃なのでしょうか。


岡本:いつの間にか自然に入っていた感じなので、今でもあまり自覚がないのですが、メンバーになったなと認識したのは1991年の初春あたりでしょうか。『水木しげる叢書別巻1 水木しげるキャラクターグッズカタログ』の付録「水木しげるの妖怪学校」オリジナル版(注:大阪の菓子メーカー・江崎グリコのフーセンガム『ギャグメイト』『ギャグシー』販促用のミニカタログで、水木しげるがほとんど一人で描き上げた貴重な作品。1983年発行)を、復刻用に資料提供したところ、採用されたのがきっかけです。ちなみに、このグッズカタログは代金先払いで付録だけ先に送付されて、肝心の本がいつまで経っても出なかったんですよね。


――当時、伊藤さんは水木ファンや漫画古書ファンの間でどのような存在でしたか。


岡本:私の場合、伊藤さんと接点を持つまで、まわりに漫画古書ファンや水木先生のファンが皆無だったので、どのような存在だったかまったく知らなかったんですよね(笑)。1991年7月21日、宝塚ファミリーランドで水木先生のサイン会があったのですが、何せ大昔のことなので記憶が曖昧になっていまして、しかも今、手元に記録もないので、もしかしたら翌年だったかもしれませんが(笑)、その時に籠目舎の他のメンバーの方々に初めてお会いして、傍にいるうちに「伊藤さんって何か凄い人なんだな」と実感しました。


――サイン会に集まったメンバーも濃い人ばかりだったのでしょうね。


岡本:この時のサイン会には、のちに「関東水木会」のメンバーになった活動弁士の坂本頼光さんが参加していました。後年、ご本人から直接伺った話ですが、坂本さんは当時小学5年生で、神戸市にあった水木先生の公認ファンクラブ「水木伝説」の会員でした。調布駅前の水木プロに頻繁に出入りしていて、水木先生のお母様の琴江さんに気に入られていたそうです。


■絶版古書の復刻ブームを牽引


――伊藤さんの業績の代表的なものとして、何が挙げられますか。


岡本:まず、1974年に初めて水木先生の公式作品リストを作ったことですね。そして、1978年に最初の水木先生の公式ファンクラブを創設したことも大きいでしょう。1981年に自然消滅するような形で解散したのが惜しまれます。また、大手の出版社がどこも作らなかった水木先生の画業40周年の祝賀記念本を自主制作し、“古書マニア発”の水木しげるブームを起こすという、前例のないことをやった点でしょうか。


――いずれも大きな業績ですし、漫画ファンの活動としても先駆的です。


岡本:「関東水木会」設立のきっかけになった『水木しげる叢書』第1期全10巻を出したことも重要です。これがなければ、今の京極夏彦先生はなかったと断言していいでしょう。また、水木先生自身が発行されていたことを知らなかった貸本長編作品『恐怖の遊星魔人』(暁星出版)を発見して、復刻したことも偉業だと思います。


――そういえば、1980年~90年代は神保町の中野書店などを筆頭に、漫画古書界隈で絶版古書の“復刻”がブームでしたよね。


岡本:水木先生の主要な作品は、1986年から88年の“第3次鬼太郎ブーム”の時に矢継ぎ早に単行本化されていました。その後、伊藤さんが水木先生の作品の復刻を手がけた1990年は、画業40周年という節目の年だったのです。講談社と朝日ソノラマが競うように出していた短編集も既に絶版となっており、平成アニメ版の『悪魔くん』の放送が終了した直後という、ある意味では空白期間ともいえる年でした。こんな時期に復刻をやるなら、これまで一度も復刻されてない作品をやろうという、伊藤さんのサービス精神の表れだったのではないかと思います。


――『恐怖の遊星魔人』の発見と復刻を伊藤さんが担ったことは、ファン活動の域を完全に超えていると思います。


岡本:ただ、伊藤さんの復刻では、一部のページが上下逆になっているという、貸本オリジナル版の製本ミスに気付かなかったのは痛かったですね(笑)。


■伊藤との交流、そして別れ


付録の「読本」に京極夏彦の解説文が掲載されているが、籠目舎の名前は出てきても、伊藤徹の名前が載っていないのが切ない。様々な事情があるのだろうと察してしまうが……


――岡本さんが知る、伊藤さんの印象深いエピソードを教えてください。


岡本:一番の思い出は、1991年の春、夜間高校の卒業祝いとして水木先生の「鬼太郎と目玉おやじ」の毛筆彩色色紙を贈っていただいたことですね。これは本当に嬉しかったです。他には、宝塚ファミリーランドでの水木先生のサイン会の終了後に音楽の話題になり、私がPANTA&HALのファンだと話すと、伊藤さんが「ライブ観たよ!」と自慢されていたことでしょうか。


――私は伊藤さんって気難しそうな人だなと思っていたのですが、そういうお話を聞くと、実に気さくで仲間想いだなあと感じます。対して、生粋の商売人だったという話もありますが、実際にそうなのでしょうか。


岡本:これについては、答えるのが難しいですが…… 『画業四○周年』や『水木しげる叢書』の“ナンバリングがない物”が古書店にかなり流通していたことや、2008年に枚方映研が出した竹内寛行版『墓場鬼太郎』復刻版全6巻を、自前でオフセット印刷で作り直して売っていたことなどを考えると、やはり“生粋の商売人”になるのでしょうかねえ。


――だんだん闇深い話になってきましたが、岡本さんが籠目舎を去った理由は何だったのでしょう。


岡本:いろいろな経緯があります。まずはじめに、代金を先払いした『キャラクターグッズカタログ』がいつまで経っても出ない不満はもともとありましたが、きっかけは1996年3月に完結した『水木しげる叢書』専用の収納紙箱を作っていたことを、知らせてくれなかったことですね。決定打は、年間購読料を払っていた『紙魚の王国』の発刊が、同年11月発行の第2号で中断し、しかも返金がなかったことで、私はこの時に籠目舎を去りました。その後、1997年2月25日に発売された『水木しげる貸本漫画完全復刻版 墓場鬼太郎』の予約受付を籠目舎が独自に行い、講談社からクレームが来るという事件がありました。私も籠目舎を去る直前の1996年末に予約を入れていましたが、講談社から「籠目舎経由の予約は無効である」という内容の封書が自宅に届きまして、これがさらなるダメ押しになりました。


――伊藤さん、壮絶なやらかしぶりですね。


岡本:この一連の流れは、晩年の伊藤さんが評価を落とした原因でもあると考えています。2007年8月に私用で大阪の梅田に行った帰りに伊藤さんのお店に立ち寄ったのですが、さすがにお互い挨拶程度の会話しかできませんでした。まさか、これが今生の別れになるとは思いもしませんでした。今でも後悔しています。


■作者に認められた稀有なファンだった


――岡本さんも大変な思いをしたと思いますが、伊藤さんをリスペクトされているからこそ、こうしてインタビューに応じてくださったのだと思います。当時を知る水木ファンの中には、伊藤さんの功績を評価される方が少なくありません。現在の漫画好きには、伊藤さんのように“作者よりも作者に詳しい”人は珍しくなりました。


岡本:「関東水木会」の京極夏彦先生や、「一騎に読め!」管理人のBONさんなど、“作者よりも作者に詳しい人”は何人かいるにはいますが、肝心の作家本人が鬼籍に入られているケースがほとんどですし、“作者にも認められた人”は確かに減っていますね。昔の漫画雑誌には、漫画家の自宅住所がファンレターの宛先として掲載されていました。現代ではありえないことですよね。それが廃止されたことで、漫画家と直接コンタクトを取る機会が失われたうえ、長年にわたる不況で活動資金や余暇が大幅に減少したため、研究活動に没頭する余裕がなくなりました。この2点が原因ではないかな、と考えています。


――伊藤さんは、水木先生に会うたびに色紙をもらってきたという話があります。岡本さん宛てにも、色紙を描いてほしいと頼んでくださったわけですよね。しかも、色付きで! なぜそんなことが可能だったのでしょう。


岡本:子どもの頃から水木先生の自宅兼事務所に出入りしていて、水木先生本人から絶大な信頼を得ていたからでしょう。そうでもなければ、そもそも不可能なことですからね。


――2013年、伊藤さんは水木先生より先に亡くなってしまいました(水木先生は2015年没)。神戸で古本屋を営む戸川昌士さんが、著書の『あなもん』の中で「伊藤さんが生きていたらどんな追悼文を出しただろう」と語っています。岡本さんは、伊藤さんが存命であったらどんなコメントを発表したと思いますか。


岡本:……たぶん、気持ちの整理がつかず、まともな追悼コメントを出すこと自体ができなかったのではないでしょうか。実際、私もそうでしたから。


(文=山内貴範)