Text by 辰巳JUNK
Text by 後藤美波
今春、サプライズなサイン会で日本を驚かせたビヨンセのイメージといえば、ゴージャスさだろう。1990年代より四半世紀ものあいだトップを走りつづけてきた彼女は、世界最大級のスーパースターとして、権力や富を誇示する「女王」の作風で知られている。
そんなビヨンセすら、公然と人種差別を受けたとしたら、どれほど衝撃だろうか? じつは、その経験こそ、サイン会で宣伝された新アルバム『COWBOY CARTER(カウボーイ・カーター)』がつくられたきっかけだった。
舞台は2016年のカントリーミュージックアワード。この番組で中心となるカントリーとは、ビヨンセが生まれた米南部にルーツを持つ人気音楽ジャンルで、基本的に白人男性中心の保守的な領域とされている。当時、ビヨンセは、同賞にサプライズ登場するかたちで自身のカントリーソング“Daddy Lessons”のパフォーマンスを行なった。しかし、カントリースターが連なる観客席で目立ったのは無表情。
この衝撃的な静けさには、2000年代にブッシュ政権を批判して同業界を干された白人女性バンド、The Chicks(当時はDixie Chicks)との共演であったことも関係しているかもしれない。しかし、現場では、退室者が出るのみならず「あの黒人女を引きずり下ろせ」といった人種差別的な野次も飛んでいたという。
「『COWBOY CARTER』を生んだのは、数年前のある体験です。個人的に自分が歓迎されていないと感じましたし、実際、明らかにそうでした。でも、この経験があったからこそ、カントリー音楽の歴史に没入し、豊かな音楽資料を研究することができたのです」
(ビヨンセによる『COWBOY CARTER』リリース時の声明より)
「歓迎されなかった経験」とは、十中八九、このアワードのことだろう。だからこそ、今作はスキャンダラスな議論を呼んだ。白人中心の保守的業界が「黒人の女王」の侵攻を受け入れるのか、といった調子で喧伝されていったのだ。
リリース当初、もっとも賛否を呼んだのは、アルバムにも登場するカントリーの女王、ドリー・パートンによる代表曲“JOLENE”のカバー。1973年作の原曲の主人公は、ジョリーンという美女が自分の恋人を奪ってしまうのではないかと不安に苛まれており、「お願いだから彼を奪わないで」「あなたほどの美女ならほかのどんな男性ともつきあえる」と懇願する内容になっている。
パートンと対極の態度をとるのが、歌詞を変えたビヨンセ版“JOLENE”だ。「女王」を自認する主人公は、夫に近づくジョリーンを凡庸なつまらない女だと見下しながら、大変なことになる前に離れろと警告する。「20年間愛し合っているあの男と子どもを育てたのは私だ」として歳月の重さを念押しするのみならず、男性コーラス、つまり夫役が「私は彼女とともにいる」と歌う加勢のようなパートまで追加されている。
国民的人気を誇る名曲の改作は、広範な議論を呼んだ。パートンの“JOLENE”の魅力とは、主人公の弱々しさにあった。さらに、同曲のみからはジョリーンが主人公の恋人に言い寄っているか否か確定しないため、動揺する主人公のほうが同性であるジョリーンに魅惑されているのではないか、といったクィア的な読み方もなされている。しかし、ビヨンセ版は上から目線の敵対視で、夫も加勢させている風なため、複雑な原曲を女性同士の争いに書き換える「フェミニズム的後退」だとする不満の声も生んでいった。
ただし、ビヨンセ版で多様な読み方ができないわけではない。アルバム中“JOLENE”につづく“DAUGHTER”は、夫を殺害する妄想が描かれている。これは、カントリーの伝統たる「殺人バラード」(※)だ。加えて、南部の民間伝承には、不倫した夫、あるいは不倫相手を銃撃する黒人女性の物語があるという。つまり、この二曲まとめて、黒人の視点によるカントリーの伝統の再解釈と考えることができる。
重要なのは『COWBOY CARTER』が映画的世界観をとっていることだろう。マカロニ・ウェスタンやブラックスプロイテーションを参照した本作には、おもに西部劇の典型を用いた大げさな演出があふれている。
主人公カウボーイ・カーターが行くのは、アメリカ音楽史をたどり、その固定概念を破壊する旅である。
いまでこそ白人のイメージが強いカントリー音楽だが、もとを辿れば、肌の色合いが異なる音楽家たちがともに創造した音楽だったと伝えられている。たとえば“TEXAS HOLD'EM”で鳴らされる、ジャンルの定番楽器バンジョーは、奴隷にされたアフリカ系の人々とその子孫がつくったものだ(*1)。彼らによる霊歌やそのリズムも、主に白人による(人種差別的な)ミンストレル・ショーを経由して広範に影響を与えていった。そして、20世紀前半にカントリー音楽の基礎を形成したジョニー・キャッシュやハンク・ウィリアムスら白人ミュージシャンは、黒人に音楽技術を習っていた(*2)。
定説としては、1920年ごろから、主にレコード会社やラジオ局が人種分離的なジャンル分けを行なっていった。彼らがつけた白人音楽「ヒルビリー」や黒人音楽「レースレコード」といったラベルが、ときを経て「カントリー」や「R&B」になっていったのである。21世紀に入ると、カントリーはすっかり白人中心の音楽になっていた。2000年から2020年にかけて、ジャンルの本拠地ナッシュビルの三大レーベルの所属アーティスト411組のうち、非白人は3.2%、黒人はわずか1%であった(*3)。
「カウボーイ・カーターというキャラクターは、西部の黒人カウボーイの原型をもとに生まれた。カウボーイという言葉自体、元奴隷たちへの蔑称として使われていた。こうした蔑みの含意を破壊したあとに残るのは、彼らの強さと回復力、真なる不屈の西部精神だ」
(『COWBOY CARTER』プレスリリースより)
音楽史の教示とも伝えられた『COWBOY CARTER』のテーマは、カバーアートと題名から見てとれる。星条旗を掲げたビヨンセが乗る悲しそうな馬は、黒茶や茶色の姿で生まれたのち白馬へと毛色が変わるリピッツァナー種だ。題名のカウボーイにしても、もともとは非白人も多い、熟練を要する過酷な職業だったという。そして、カーターとは、ビヨンセの夫ジェイ・Zの姓でもあるが、黒人から音楽を教わっていたカントリー第一世代の南部白人グループ、The Carter Familyも想起させる。
ビヨンセ『Cowboy Carter』ジャケット
『COWBOY CARTER』が照らすものは、アメリカの現代音楽の基礎に貢献したにもかかわらず、過小評価されてきた黒人の先駆者たちである。つまり、同じ「ルネッサンス三部作」とされた前作『RENAISSANCE』と近い主題が掲げられている(参照:ビヨンセ『ルネッサンス』は何を「再生」させたのか。黒人クィアコミュニティーに捧げられた感謝)。
1960年代に初の黒人女性カントリースターとなったR&B歌手、リンダ・マーテルがジャンルの窮屈さを語って幕をあけるロックンロール“YA YA”が象徴するように、このアルバムは、歴史に敬意を示しながら既存の境界を突きやぶって疾走していく。商業的ジャンルのアンチテーゼかのように、カントリーと近しいロックンロールやフォーク、そしてモダンなヒップホップやハウスにまで至るのだ。実験性がとくに強いアルバムの後半部は、かつての黒人アーティストたちが排斥されなかった場合のカントリー、ひいてはアメリカーナミュージックのイマジネーションだとする説もでている。
タナー・エデルやシャブージーなど、黒人カントリー歌手も参加する本作には、白人ミュージシャンたちも応援に駆けつけている。南部出身のマイリー・サイラス、ポスト・マローンに加えて、カントリーの大御所、ウィリー・ネルソンとドリー・パートンも声援を贈るのだ。そして、アイリッシュダンスをベースとした“RIIVERDANCE”において、ビヨンセはパートンが発明した爪と爪を擦り合わせて音を出す演奏を取り入れ、人種の垣根をこえた創造を奏でてみせる。
さまざまな読み方ができる『COWBOY CARTER』だが、ひとまず“JOLENE”に戻ると、演奏前に流されるドリー・パートンがビヨンセに宛てた言葉がすべてかもしれない。
「きれいな髪をした浮気娘について歌ってたでしょ?
あれを聴いて昔の知り合いを思い出したわ。
彼女の場合、燃えるような赤髪だったけどね。
どうか祝福を。
髪の色が違うだけで、心の痛みは同じ」
(『COWBOY CARTER』収録曲“DOLLY P”より)
ここで示されているビヨンセの歌とは、すべてのはじまりの2016年カントリーミュージックアワードの時期にリリースされたアルバム『Lemonade』において、夫の金髪の不倫相手に言及した楽曲“Sorry”だろう。しかし、さらに深読みすれば、パートンの言葉は、ビヨンセ版の“JOLENE”、ひいては『COWBOY CARTER』にも捧げられているのではないか。つまり、髪や肌の色、ジャンル定義が異なっていたとしても、歌われる魂は同じなのだ。
ジャンル議論を呼び起こした『COWBOY CARTER』だが、ジャンルという発想を忘れて聴くのが良いアルバムかもしれない。