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30分で4度の爆発、傷だらけのデッキ——スケーターたちへの現地ルポで迫る、ウクライナ侵攻2年の「いま」

2024年05月01日 12:10  CINRA.NET

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Text by 川谷恭平
Text by 児玉浩宜

元NHK報道カメラマンで、フリーランスの写真家として活動する児玉浩宜がウクライナ・ハルキウに訪れ、若いスケーターたちのコミュニティを現地ルポ。

ロシアによる軍事侵攻から2年。国際的な支援疲れや関心の低下が指摘されるなか、戦争当事者となった彼らの視点からニュースでは報道されない、ウクライナの「いま」を伝える。

※取材は2024年2、3月に実施

ウクライナ第二の都市、ハルキウの中心部にそびえ立つオペラ劇場は、旧ソビエト時代の建築物特有の無骨な姿をしている。

ここもまた多くの建物と同様にロシア軍によって爆撃を受けた。幸運にも被害は大きくなかったが、外壁の一部は剥がれ、ガラスは割れたままだ。

この劇場前の広場には、毎日のようにスケートボードに乗る若者たちが集まる。

スケーターの一人が言った。

「いま、この瞬間だけは自由になれる気がするんだ」

私は彼らの姿を追っていた。どういうわけか私もスケボーに乗って。

2024年2月、私はロシア軍によるウクライナ全面侵攻から5度目となるウクライナを訪れていた。きっかけは東京のカフェで聞いた友人の何気ない言葉からだった。

「ウクライナってまだ戦争やってるの?」

彼女の質問に悪意がないのはわかっている。それでも「ニュースを見ればわかるだろう」と内心では小さな憤りを感じた。

だが、彼女がそう思うことはもっともだ。メディアでの報道は急速に減少しつつある。それは世間の関心が薄まりつつあるせいだろう。私が最後に訪れたのは昨年のことである。いまウクライナはどうなっているのだろうか。

霧雨の夜。首都キーウは重苦しい雰囲気に包まれていた。ちょうどこの日は侵攻から2年になるということで、各地で追悼式が挙げられていた。

「同じ通りに住む隣人が侵攻してきたロシア兵に撃たれて死んでしまった」

「友人がウクライナ軍に参加した。前線へ向かったが、すぐに亡くなった」

言葉を失うような話はどこへ行っても耳にする。市民の顔を曇らせるのは亡くした人への思いだけではない。ウクライナ軍への動員だ。

ロシア軍による全面侵攻が始まって以降、ウクライナでは総動員令が出され、18歳から60歳までの男性は原則、出国が禁止されている。戦力にするためだ。いつ徴集されるかわからない恐怖から、国外逃亡を図ろうとして摘発される男性も多いとも聞く。

キーウの街を歩けば意外にもバーやクラブが営業を再開しており、ダンスミュージックの重低音が漏れ聞こえてくる。

つい「復興」という言葉が頭をよぎる。だが、酔っ払いの狂ったような雄叫びが響き、殴り合いの喧嘩の末、警察が男を羽交い締めにしている姿を見かけるとその言葉は頭から消える。

厭戦(えんせん)気分やいら立ちに対する憂さ晴らしなのだろうか。全面侵攻から2年、2014年に起きたクリミア危機(※1)やドンバス紛争(※2)から10年にもなる。この街を照らす光の影に、戦争がもたらした狂気が潜んでいるように感じられる。

数日後、私はウクライナ東部のハルキウで、あるボランティア団体に同行させてもらった。彼らが向かう先はロシア国境近くのクピャンスク。ロシア軍に包囲されつつある街から住人の脱出を手助けするというという。

前線は複雑に入り組んでおり、何度も検問を越え、道を変えて進む。車両の窓からは砲撃によって崩れたアパートや焼け焦げた家が見える。

到着したクピャンスクの街には住民の姿はほとんど見当たらず、目につくのはウクライナ軍兵士の姿ばかりだ。ボランティアの一人が電話をかけると、建物から住民が走り出てくる。

素早くドアを開けて乗り込む。突然、爆発音が空気を震わせ、私たちの皮膚へと伝わる。住民は手を広げて肩をすくめて見せる。

私たちがその街に滞在していた時間はわずか30分ほどだが、4度の爆発音を聞いた。帰り際、スマホをいじりながら運転手が言った。

「さっきの空爆で残っていた住民2人が死んだらしい。これはよくあることだ」

この状況が2年続いている。これが現実である。

前線付近で日中の活動を終え、陽が落ちかけるころにハルキウ市内まで戻る。明かりがきらめく首都キーウとは違い、ハルキウの夜は早い。節電と灯火管制のためだ。この街に憂さを晴らすような場所はない。

中心部にあるオペラ劇場の前を通ると、その広場にスケーターが数人集まっていた。戦時中でもスケボーに乗る人たちがいる。その風景をどうとらえてよいかわからず、私は思わず声をかけた。

スケーターの一人が答えた。「この場所は特別なんだ。いつ来ても誰かに会えるからね」

戦争前はこの広場に毎晩30人は集まっていたらしい。私が見たところ、今はその半分以下ほどだろう。

ハルキウのスケーターらがここに集まる理由はいくつかある。まず誰でもアクセスがしやすい中心部にあること。そして滑りやすい路面があること。さらにここには石の階段やベンチなどがちょうど良く配置されており、トリック(技)をしやすいという。

アルチョムという青年は「ハルキウにはスケートショップもないし、コミュニティも小さい。だけど、そのぶん結束は固いんだ」と話してくれた。ここに顔を出すことは仲間同士の生存確認や情報交換の意味もあるのだろう。

彼らはスケボーから降りると、ずっと話し込んでいた。そのなかには浮かない顔をしていたデニスという青年がいた。

「母親が一緒にポーランドに逃げようと言っている。俺はまだ17歳だから、国外に出ることができるからね。でも本当はここに残りたいんだ。ここにいればいつでもスケボーができるし仲間にも会える」

この街はいまだにミサイル攻撃を受けている。そんな状況でも彼らにはスケボーや仲間がそれほど大切なのだろうか。何度も何度もプッシュ(※)してはトリックを試みる。そんな彼らの妙に切迫感のある表情が忘れられなかった。

ウクライナ人でもない、若者でもない私が彼らの心情に近づくためにはどうすればよいのだろうか。私は思い切っていったん、首都キーウに戻った。キーウで唯一と言われるスケートボードの専門店を訪れるためだ。

一時的でもいい。彼らを知るために、彼らと同じ目線に立ってみたい。だが、私のスケボーのレベルは多少遊んだことがある程度でほとんど初心者に近い。訪れたショップにあったスケートボードは中国製の既製品で1万7000円だった。思わぬ出費は痛手だが仕方がない。

どうもスケボーに年齢制限はないようで、中年の私に店員は快く対応してくれた。私はにわかにほっとしたが、本番はこれからである。新品のスケートボードを携えた私は鉄道で一晩かけ、再びハルキウに戻った。

宿に荷物を預け、スケボーとカメラを持ってすぐに広場に向かう。再会の挨拶もそこそこに「新しいスケボーを買ったの? ちょっと見せてよ」と集まってくる。

「挑戦してみたくて……」という私の言葉には耳を貸さず、念入りに私のデッキ(板)をチェックしている。まるで彼らの仲間入りをする試験のような錯覚になり少し緊張した。

「まあまあだな」

ギリギリ合格といったところだろうか。続いて彼らに認めてもらうために、まずはオーリー(ジャンプ)ができるようにならなければ話にならない。私は邪魔にならないよう広場の片隅で練習を始めた。

颯爽とスケボーに乗って現れたのは高校生のベロニカだ。見よう見まねで乗ろうとする私に彼女はニヤニヤしながら、「オーリーよりもまずは心地良く滑れるようになることだね」と鼻で笑い、これ見よがしにトリックを決める。

生意気な、と思ったがこちらはまだ立つのがやっとなレベルである。見かねたスケーターたちが入れ代わり立ち代わり現れると、「右足はもっと後ろへ、肩の力を抜いて」「膝を曲げるタイミングが違う」「身体の重心を中央にして」などと逐一教えてくれるのだが、言うことがてんでばらばらでわけがわからない。

なによりわからないのは、ウィール(タイヤ)が4つ着いただけのスケボーを重力に反して浮かせるということだ。いや、デッキを蹴り上げることによって浮くという原理はわかる。だが身体の使い方がわからないのだ。

それでもせっせと広場に通ううちに、ようやく10センチほどのオーリーができるようになった。嬉しかった。

それを横目で見ていたスケーターたちが「飛べてるよ、その調子だ」と言ってくれるのだが、声の調子からするとそれはあきらめと励ましが入り混じったような感じで、その優しさが中年の私の胸を刺す。

私はウクライナにスケボーをするために来たんじゃなかったはずなのだが。

以前話してくれたデニスの姿を広場で探しているのだが見つからない。すでに母親と一緒にポーランドに行ってしまったのだろうか。それ以後、彼の姿を見かけることはなかった。

この街から避難する者がいる一方で、ここへ避難してくる者もいる。

翌日、一人のスケーターの部屋に招かれた。待ち合わせたアパートの前でメッセージを送ると、しばらくして現れたのがバディム、17歳だ。

彼はロシア軍に占領されているザポリージャ州出身で、侵攻が始まってすぐにハルキウへ避難してきた。両親はまだ街に残っているという。

避難先となったアパートの階段を彼に続いて上りドアを開ける。脱いだスニーカーとスケボーが無造作に転がっている。彼の部屋には友人たちが泊まっていたようだ。

「昨日、部屋でラップをレコーディングしてたんだ。聞いてみる?」。バディムは録音したばかりの曲を流しながらベッドに寝転び天井を見つめる。

「将来はプロスケーターになりたいけど、ウクライナじゃスポンサーが集まらなくて難しいかも。どう思う?」(バディム)

「俺は初心者だから詳しくないし、わからないよ。ウクライナに残りたくはないの?」(筆者)

「もちろんここにいたいよ」(バディム)

「ザポリージャはどうなの?」(筆者)

「毎日、お母さんと電話している。俺を心配するより自分を心配しろって思うよ。占領されてるのに残るなんて」(バディム)

そんな会話を続けながら部屋でだらだらと過ごしたあと、「じゃあ行くか」と言って友人たちと部屋を出た。とはいえ行くあてはとくにない。

営業を再開しているショッピングモールで高価なスニーカーを眺め、フードコートに席を陣取り何も注文せずにだらだらと喋る。

だが、空襲警報が鳴るとすぐに売り場を追い出されることになる。行き場を失った私たちが向かうのはいつもの広場だった。

誰よりも早く来て誰よりも遅くまで残り、トリックを続けるスケーターがいた。地元出身のアルチョムだった。普段から彼は「いまから広場に行くから早く来なよ」と私によくメッセージをくれた。

彼は21歳で、ウクライナ軍への志願兵の対象年齢である。そのことについて直接本人に聞いてみた。

「友人の何人かは兵士になった。もちろんウクライナ軍の兵士には感謝しているし、尊敬もしている。俺たちを守ってくれているからね。でも俺には人を殺す理由がどうしても見つけられないんだ」と彼は声を落として言った。

「俺の人生は俺のもののはずだ。でもどこにも逃げられない。もし兵士にならなきゃいけなくなったらどうしようって毎日考えていると気がおかしくなってくる。だから俺はここでいま、スケボーを続けるしかないんだ」

そういってアルチョムはスケボーに飛び乗った。

彼らの持っているスケートボードは古くて傷んだものが多い。それはスケートショップが存在しないハルキウで、彼らの友人や先輩から譲り受けたものを使い回しているからだ。傷だらけのボードは、ぴかぴかのボードしか持たない私には妙にかっこよく見えた。

アンドリーという青年が自慢げに説明してくれる。

「この傷はあの段差でスライドしてできた。こっちの傷は手すりでトリックしたときに生まれた傷だな」

スケートボードに残された傷はこの街の思い出であり、彼らの歴史でもある。母親とポーランドへ向かったデニスもスケートボードは手放していないはずだ。

私は練習を続けた。寒空の夜なのに、いつの間にか汗だくで、ダウンジャケットを脱ぎ捨てる。

集中力を高めて、身体の動きに意識を向ける。右足をキックする。その直後、左足を浮かせたまま寝かせるように曲げる。着地失敗。転ぶ。痛い。次こそはできる気がする。もう一度。また転ぶ。

その瞬間、はっと気づいた。私はいま戦争をしている国にいるという意識がまったくといっていいほど無かった。嫌悪していた空襲警報さえも気づかないほどだ。むしろ夢中になることに爽快感さえあった。

あらためてスケボーに取り組む彼らの姿を眺めてみた。思わず「そういうことなのか……」と独り言が出た。私と彼らのレベルは天と地ほどの差があるのはたしかだが、それでも彼らがスケボーに取り組んでいる理由がわかった気がしたのだ。

体のバランスに気を配り、指先から足の爪先まですべてをコントロールする。そして「いまこの瞬間だけを見つめる」ことは、戦争という状況にあって一度は奪われかけた自らの身体の感覚を取り戻す行為なのだろう。

彼らと時間を過ごしていくうちに、週末にスケートボードの小さな大会があることを教えてもらった。私のような初心者が参加できるようなものではないが、せめて彼らの姿を記録したい。

会場のスケートパークはハルキウ郊外のサルティフカ団地の一角にあるらしい。団地は市内でも空爆が最も被害が大きかった地区にあるが、パークの周辺は被害を免れたようだ。

私が到着した昼すぎにはすでに大会は始まっていた。参加者は30人ほどだろうか。大会といっても見たことがある顔ぶれがほとんどだった。

主催者はユアンという16歳の青年で、自らスポンサーに交渉して賞品をかき集めてきたという。大会といっても、きちんとしたスタッフがいないのは、皆が選手でありスタッフなのだろう。その姿からは、この街で彼らができる最大限のことを自分たちの力でやりたいという思いが伝わってくる。

仲間たちに見守られたスケーターは真剣な顔つきで、トリックをメイクしていく。たとえ失敗しても大きな歓声があがる。スケートボードを加速させ、デッキを蹴り上げた瞬間、宙に浮く。それこそが、彼らにとってかけがえのない瞬間なのだろう。

己の肉体を自らの意思で動かす。それだけがこの戦時下で、たしかに握り締め続けられる小さな自由なのだ。大会が終わるとスケートランプの上から選手の名前が呼ばれ、賞品が配られた。

新しいデッキを獲得して浮足立っていたアルチョムが「俺たちと一緒に帰ろうぜ」と声をかけてきた。

ソビエト時代から走っている古いトラムにボードを抱えたまま仲間たちと飛び乗る。はしゃぐ彼らの姿を、ほかの乗客はちらっと見るだけで気にも留めない。アルチョムは手にした古い傷だらけのボードを見つめて、目を細める。

「ついにこいつとお別れだな」と彼はつぶやいた。

仲間からはレジェンドとして慕われ、チャイカと呼ばれているスケーターがかつてのハルキウのスケートシーンを話してくれた。

「昔は合板が高くて手に入らなかったんだ。だから廃墟に忍び込んでドアを盗んでくる。それをナイフで削ってスケートボードみたいなものをつくってたよ」

左下でグレイのフードを被っているのがチャイカ

彼が言うにはそもそもウクライナにスケートボードという文化が入ってきたのはロシアからだという。そしてロシア国境に近いハルキウでは、ウクライナでもいち早くそのカルチャーは浸透した。

そしていまでは考えられないことだが、侵攻以前はたびたびロシアからスケーターが遊びにきて、交流が盛んだったらしい。このオペラ劇場前の広場でもともにトリックを披露しあっていたという。たった2年前のことだ。

その話を脇で聞いていたのか、ベンチに座っていたスケーターが「戦争はクソだ。戦争はクソだ」と繰り返した。そして彼はすぐにボードに足をかけ、プッシュを続けトリックを試みた。

戦時下にあるこのウクライナでスケートボードに乗るということは、現実から身を背けることではない。現実と向き合うためだ。このどうしようもない世界にあっても彼らには絶対に譲れないものがある。

それは、己が国家やシステムの一部ではなく、「いまここにいる自分自身である」ということだ。だからこそ彼らは今日もスケートボードに乗り、プッシュを続ける。

この国が、この街がどうなろうとも、広場でスケートボードに乗る彼らの姿はこの先もきっとある。

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