Text by 前田立
Text by 今川彩香
東京・上野の国立西洋美術館で3月12日から企画展『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?——国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ』が開催されている。同館において初めて現代美術を軸に据えた展覧会であり、同館が現代作家の糧となってきたかを検証するという自省的な問いがテーマとなっている。そのため同館だけではなく、美術館という存在や美術界そのものについて切り込むような作品も並んでいる。企画者で同館主任研究員の新藤淳さんに、企画展の出発点をはじめ、作品や作家から受け取った課題、そして国立西洋美術館の存在意義などを語ってもらった。
―国立西洋美術館は現代のアーティストを触発してきたのか? という問いが今回の展覧会の主題だったと思います。このような自己言及的なテーマにした理由や背景を、あらためて教えてください。
新藤:国立西洋美術館は主に中世から20世紀前半までの西洋美術を収蔵していて、生きた作家の作品を収集対象としていませんから、どうしても現代作家の方々にとっては縁遠い場所になってしまうのではないかという意識がありました。しかしもともとこの美術館は、生きている作家たちの糧になるよう願われながらに生まれた、と私は考えています。
当館が開館した1959年、昭和34年以降の時間を生きている、あるいは生きてきた作家たちにたいして、国立西洋美術館のコレクション、そしてこの美術館という存在自体が実際のところ、どのように働きかけることができてきたのか、できているのかということは、問うに値する問題だろうとずっと考えていました。その問いを根幹に据えた展覧会が、検証の場として必要であろうと感じていました。
新藤淳(しんふじ あつし)
1982年生まれ、広島市出身。国立西洋美術館主任研究員。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程芸術学専攻修了(西洋美術史)。展覧会企画(共同キュレーションを含む)に「かたちは、うつる」(2009年)、「フェルディナント・ホドラー展」(2014-15年)、「No Museum, No Life?-これからの美術館事典」(2015年)、「クラーナハ展―500年後の誘惑」(2016-17年)、「山形で考える西洋美術|高岡で考える西洋美術――〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき」(2021年)など。
―国立西洋美術館は川崎造船所初代社長である松方幸次郎のコレクションを保存・公開するために設立された美術館ですよね。今回の展覧会では、コレクションの形成をはじめ、第二次世界大戦中に一時期はフランスの国有財産となったが寄贈返還されたこと、また美術家を含む民間の力があって同館が設立されたという経緯についても強調されていました。
新藤:国立の美術館ですから国の財政のみで建てられたというイメージが強いと思うんですけれども、美術家たちや財界からの支援があって設立に至ったという経緯は、ほとんど注目されてこなかったですし、これまで国立西洋美術館自身が強調してこなかったんですね。じつは民間から1億円を目標にした寄付があり、それがこの美術館が建つにあたって、あるいは松方コレクションが寄贈返還されるにあたって、非常に大きな力となりました。今回、私個人としては、そういった松方コレクションの形成「以後」の歴史を鍵としながら、自己言及的な問いを立てていきたいと考えました。
―作家さんへの依頼については、どのような問いかけをされたのですか?
新藤:作家さんへの依頼は、起点はすべて同じでした。全体の企画書となるものを、みなさんにお渡ししまして。どういうものかというと、さきほどお話したような国立西洋美術館の設立の経緯などの記述からはじまる企画書です。そこにはノヴァーリス(※1)が18世紀末に書いた「展示室は未来の世界が眠る部屋である。──/未来の世界の歴史家、哲学者、そして芸術家はここに生まれ育ち──ここで自己形成し、この世界のために生きる」という言葉をエピグラフ(※2)として引用しました。美術館という制度がヨーロッパに本格的に成立した時期とも重なっていますので。今回の展覧会の長いタイトルは、ノヴァーリスのその言葉を言い換えたものです。
しかし、そういう「未来」へと働きかける場所に国立西洋美術館がなりえてきたのかと問うてみたとき、私自身は自信を持って「イエス」と答えることができない──そういうことを企画書には率直に記しました。そのうえで、当館はアーティストたちの生まれ故郷になってほしいという願いを託されながら建ったはずだけれども、アーティストの方々はこの国立西洋美術館をどういうふうに見つめてきたのか、あるいは見つめてこなかったか、それとも多少ならず権威主義的に映るであろうこの美術館に対して口をつぐんできたのだろうか、といったことを問いました。そうした問いを、作家のみなさんが受け取ってくださった、というかたちです。
―展覧会では新藤さんが登場する作品もありますね。「反-幕間劇ー上野公園、この矛盾に充ちた場所:上野から山谷へ/山谷から上野へ」という章では、弓指寛治さん(※1)が、山谷地区に約1年間通ってつくり上げたという膨大な絵画とテキストが並んでいました。一部には、新藤さんがアウトリーチ(※2)に参加した際、路上生活者の人に「あなたのことを知っている」と言われた場面が描かれており、印象的でした。
新藤:弓指さんの作品ができていく過程で抱いたのは、反省ばかりでした。私は路上生活者の方々を「ホームレス」という──何て言うのかな……カテゴリーとしてしか見ていなかったと思うんです。通学、通勤で20年以上、上野に通っていますが、この「文化エリア」に内在する矛盾を強く感じながらも、路上生活者の方々は基本的には顔を知らないひとたちであり、弓指さんが描いたようには1人1人を「個」として見つめていなかった。気になる方というのは時期ごとにいたりしたのですが、ついぞ声をかけたことはありませんでした。
弓指さんと一緒にNPO法人・山友会さんが主催する上野のアウトリーチに参加していたとき、私の存在を認識していた方がいらっしゃって。そのときに突きつけられたのは、決定的な非対称性だったと思います。私はカテゴリーとして認識しているに過ぎなかったけれども、相手は個として、私のことを認識してくださっていた。そこでコミュニケーションが発生して、いまではその方と上野のなかでしばしばコミュニケーションをとる間柄になりました。
美術館のすぐ外には路上生活をしている人たちがいて、その近くに建っている当館は彼ら、彼女らにとってどういう場所なのだろうかということは、ずっと考えてきました。いま、コミュニケーションをとり始めてみると、実際に美術館にも何度も足を運んでくださった。スローガンとしての「インクルージョン」――つまり「包摂」を掲げることは容易いと思うんですね。けれども、今回の場合で言えば、弓指さんに教えられたとおり、自分たちの足で出向き、じかにコミュニケーションをとることが重要だったと実感しています。それはしかし、弓指さんの力があったからこそできたことで、私ひとりではできないことでした。完全に私の力不足です。
今後も引き続き、上野のみならずですけれど、アウトリーチなどの活動を続けていきたいと考えています――実際、展覧会が始まってからも続けているのですが。弓指さんと一緒にアウトリーチに参加し、美術館の近くにいらっしゃる路上生活者の方とコミュニケーションをとれるようになったことは、私自身にとっては、今回の展覧会の企画構成をつうじて生まれた、なにより大きな出来事だったともいえます。
「反–幕間劇ー上野公園、この矛盾に充ちた場所:上野から山谷へ/山谷から上野へ」における、弓指寛治さんの作品の一部
―路上生活者のみならず、さまざまな他者をカテゴリーに当てはめて見てしまうということは、誰もが陥りうる視点の問題だと思います。「誰しもに開かれた美術館」というのは確かに理想ですが、まず前提として個として考えることは大切ですよね。
新藤:「開かれた美術館」というスローガンを掲げるのも、やはり容易なことです。しかし、それもしばしばリベラルなポーズを示すにすぎないものであることが少なくないのではないかと思います。われわれが例えば入館者数などでしか認識できていなかったとしても、現実には個々人それぞれに異なる経験があります。とはいえ、実際のところ、そのほとんどはわれわれには知りえない経験です。できる限り個としての来館者と向き合う必要があるでしょうし、スローガンとしての「包摂」を超えていければと思いますね。
―田中功起(※)さんは、美術館に対する数々の「提案」を作品とされました。例えば、常設展の絵画を車椅子の人や子どもの目線に下げることや、展示室内の翻訳言語を拡張することなどですが、そのなかでも託児所は臨時で実現されたと聞きました。利用状況はいかがでしょうか? また田中さんからの提案についてどう考えられましたか。
新藤:託児所については、悪くない稼働率です。実際に継続してほしいという利用者からのご意見やご要望もあるようなので、実現できてよかったと思っています。
今回の田中さんの「提案」というのは、我々とのネゴシエーション、実現できたか、できなかったかも含めて作品化されています。そのプロセスのなかでもっとも考えさせられたのは、誰しもに最適化された美術館の状態を実現するのは不可能だということ。とはいえ、美術館は通常、暗黙のうちに健康な成年の人間の身体を前提にして絵画を展示する高さなどを決めています。田中さんのご提案というのは、そこに基準を設けるのではなく、例えば車椅子を利用される方や子どもにあわせるというラディカルなものでした。この美術館が考えてこなかった、いくつもの盲点を突いてくださったと思います。
誰に対しても平等に開かれた状態は、美術館は実現できないと思います──しかしその困難のなかで試行錯誤し続けていくことが大切だと、あらためて考えさせられました。
―そういった認識が、先ほどの「包摂を超えたい」というところにつながるのでしょうか。
新藤:そうですね。やはり具体的なところから考えていくしかないんだと思います。理念的に「誰しも開かれた美術館」を容易くうたうのではなく、具体的に誰かの顔を一つひとつ思い浮かべていくことが重要なのではないかと。具体的に考えていかない限り、本当の意味での多様性や包摂に近づく可能性というのは見えてこないと思います。
―展覧会の図録には、参加作家ほぼ全員のインタビューが掲載されていますね。飯山由貴さん(※1)との対話では、国立西洋美術館の所蔵に女性作家の作品が非常に少ない問題について触れられていました。実際、どのくらいの割合なのでしょうか。
新藤:現状ではとても少ないです。少し前にデータベースから抽出した資料なので現在は多少変わっているのですが、例えば絵画の点数でいうと男性450点以上に対して女性6点。これは作品数をもとにしたデータですので、作家数の比率ではありません。つまり、同一作家で複数の作品を所蔵している場合には、それらがすべて数に入ってくるということです。彫刻は当館の場合、多くがロダンのものですが、作品数だけでいえば、男性作家の作品と女性作家のそれとの比率がおよそ100対1です。具体的な個数でいうと、女性作家の彫刻は1点のみです。
その1点というのも、つい数年前、2021年度に購入したカミーユ・クローデル(※2)の作品です。この購入は前館長の馬渕明子さんのご意向が強く働いたものでしたが、それまで女性作家の彫刻は1点もなかったんですね。彫刻の購入は鋳造の問題などもあって難しいとはいえ、ゼロであったことはやはり大きな問題だったと思います。
―想像以上に少ないですね。国立美術館全体としても女性作家の割合を増やす方針になっているとのことでしたが、この課題についてはどうお考えですか。
新藤:広く国際的な潮流ですよね。女性作家の価値上昇はアート・マーケットの力学ともなんら無縁ではありませんから、それとの関係は慎重に考えていくべきだと感じます。ですが昨今では、各研究員がいかに女性作家の作品を増やしていくかを課題にしていて、私自身、今後そういうふうに動いていくことができたらと思っています。例えば『あいちトリエンナーレ2019」では女性作家と男性作家を半々にするという考え方がありましたよね。あれは現代美術展のジェンダー・バランスがどうしても不均衡ということで、ひとつのアファーマティブ・アクション(※)として実行されたといえますが、初めはそういったラディカルな提案や行動が必要だと思います。
ただし、ずっとそれでいいのかというと疑問もあります。というのは、例えばジェンダー・バランスをとるために女性作家さんを入れるという話になってくると、それは作家さんに対して非常に失礼だと思います。今回の展覧会で、そういうふうにして女性作家さんにお声がけしたケースはゼロです。この作家さんに問いを投げてみたいと考えたからこそそうしたのであって、それは断言できます。
戦後の美術史を考えてみたときにも、優れた仕事をしていた、またはしている人に目をきちんと向けてさえいけば、美術史の言説や美術館のコレクションに占める女性作家の作品の割合はおのずと増えていくのではないでしょうか。そうなっていなかったのは、男性中心主義、ひいては白人男性中心主義があったからで、これはあきらかに脱却が必要だと思います。美術史の言説が編まれ直していくのと同時に、美術館が表象する美術史というものも見直していかなければなりません。そのためにはコレクションがなければできませんので、国立西洋美術館もいまはまだ、そういう歴史を編むための途上にあるかと思います。
―展覧会の主題の性質から、美術館に対してのさまざまな問題提起がありました。梅津庸一さん(※1)はこれまでとは違う美術史の編み方をしていくことが、お金など数値だけの評価から離脱するために必要だとしていましたが、この問題について新藤さんはどう考えられましたか。
新藤:新自由主義と呼ばれる政治方針のなか、この美術館も2001年に独立行政法人になっています。そうすると運営費交付金がどんどん減っていく一方で、自己収入を増やすということが求められてきます。ですので、美術館が入館者数やお金などの数値を切実な問題として抱えざるを得なくなって久しいわけですね。しかし、そういった数値化できるものだけを無批判な指標としてしまうなら、オルタナティヴなものを求める実験的な文化や芸術は衰退し、美術館のあり方も一元的になってしまうでしょう。そうではない批評基準──クライテリア(※2)をつねに探し続けなければいけないし、場合によってはつくり出していかなければいけないと思います。
「パープルーム」の展示エリア。パープルームは、梅津庸一さんが自宅で主宰してきた芸術の私塾で、アート・コレクティヴ。共同生活・制作が行なわれ、展示空間でもある。
―また今回の展覧会に対して、東京藝術大学出身者の割合が多すぎるという指摘もありましたね。
新藤:藝大関係者が多かったというのは、出身者も含めて確かにそうだろうと思います。ただ、ほかの現代美術展と比較してみても、今回がことさらに藝大関係者ばかりかといえば、かならずしもそうではないはずです。梅津さんが主宰するパープルームには、国公立美術館での展覧会とは縁遠かった作家さんにも出品していただいています。さまざまな出自を持つ方々が参加してくださっていて、一定以上の多様さは確保されていると思っています。
上野という場所にフォーカスしたので、藝大関係者が増えてしまったというのはあります。また、はじめてこの美術館で生きている作家の方々をお呼びする展覧会ということで、大きな舞台での展示経験がある方に多くお声がけしたという実態はありました。私の出会いの有限性もありますし、観測範囲の限界もあるでしょう。それがひいては、ほかの美術展である一定の層の美術家ばかりが繰り返し呼ばれるというような構図を強化してしまうことにもなるのかもしれませんから、そういう意味ではやはり、具体的かつ自省的に考えていく必要がありますね。もっとも、出自の多様性が確保されていないとして批判されるべき展覧会は、実際には今回の企画にかぎったものではないと思います。
―3月11日の内覧会では、飯山さん、遠藤麻衣さん(※)ら一部の参加作家と有志から、国立西洋美術館のオフィシャルパートナーである川崎重工への抗議が行なわれ話題となりました。これは、防衛省が攻撃用ドローンの導入を検討するにあたって選定した実証機の7機中5機がイスラエル製で、このうち1機の輸入代理店が川崎重工だったことが背景にあります。パレスチナで起きているイスラエル政府のジェノサイドに反対するという趣旨でしたが、新藤さんはどう捉えられましたか。
新藤:これについては現時点では私からは答えられません。いえ、当然ながら考えること、考えさせられることはとてもたくさんありますけれども、少なくとも現時点では何も申し上げることができません。
―未来のアーティストの触発、という主題のなかで、日本に国立として西洋美術館があることの特殊性についても検証したいという意図が窺えました。今回の展示を通して得られた見解はありますか?
新藤:西洋美術のみを収蔵、保存、展示することをアイデンティティにする当館は、ともすると日本が明治時代に「美術」という概念を西洋から輸入して近代化を遂げ、その後も欧米の美術を一つの範としながらこの国の美術史が展開していった様態を、ある意味では無批判に延命させる装置として機能するんじゃないかという考え方もできます。
とはいえ、世界的に見てもここはとても例外的な場所だと思います。というのは、ナショナル・ミュージアムでありながら自国のものを基本的に持たない──これはいわば、遠くの他者のことを想像せよ、と告げている美術館だと思うんです。しかもいまを生きている作家の産物ではなく、過去の人たちのさまざまな記憶を、です。
いまは「近く」のもののほうが瞬間的にSNSなどで次々に話題になって消費されていく──そういうサイクルのなかにわれわれは生きているわけですが、空間的にも時間的にも「遠く」にあるものを想像すること、距離のある他者をわかろうとすること、そういった可能性は、けっして捨ててはならないと思います。それがなくなってしまうと、隣の身近な他者について考える想像力すら衰弱してしまうのではないでしょうか。
そういう意味では、国立西洋美術館には確かに「西洋」という縛り、ひいては捨てることのできない西洋中心主義というものがあって、それは問題含みだとは私個人は考えているものの、やはりとても重要な場所だと思っています。時間的にも空間的にも遠いものを見ることで、今日をまた捉え直すことができる──新しい想像力や思考のために、過去は幾度でも見つめ直され続ける必要がありますし、美術史も編み直されていかなければならない。そういった場に、国立西洋美術館はなり得るはずです。
―あらためて、新藤さんは研究員(学芸員)という立場で、一つの大きな制度である美術館という機関をどう捉えていますか。
新藤:美術館というもの自体が、どうあがいても西洋の近代が生んだ制度であることに変わりはないと私は考えています。その前提から眼を背けるべきではないと。つまり、美術館という制度そのものが植民地主義などと無関係ではないかたちで、そして近代的な価値基準と無縁ではありえないものとして生まれたわけですから──一方でそれをどう拡張していけるか、あるいは脱構築できるかというのが重要ですけれども──つねに根源を問い直していかざるを得ない場であると考えています。