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『悪は存在しない』濱口竜介監督インタビュー。「どっちとも言えない」という視座を丁寧に描くこと

2024年04月26日 17:10  CINRA.NET

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Text by 後藤美波
Text by 鈴木みのり
Text by 苅部太郎

濱口竜介の監督作『悪は存在しない』は、『ドライブ・マイ・カー』(2021年)で意気投合した音楽家・石橋英子とのコラボレーションによってつくられた。石橋から受けた映像制作のオファーをきっかけに、石橋のライブ用サイレント映像作品『GIFT』とともに生まれた長編映画だ。

長野の自然豊かな町に持ち上がった、グランピング場の建設計画をめぐって展開される物語は、地方と都市、自然と都会という単純な二項対立では割り切れないさまざまな問いを観る者に投げかける。「現実は、我々が思ってるほどはっきりと分かれているわけではない」と語る濱口。むしろその割り切れなさこそが本作の核にあったようだ。作家の鈴木みのりが話を聞いた。

予告編でも初めに使われている、『悪は存在しない』のファーストショットに、わたしはとても困惑した。この映画の舞台となる長野県・水挽町(架空の町)にある、山中の林を下から捉えながら進んでいくショットに、石橋英子さんによる音楽が重なり、わたしはとても美しいと感じたのに。

ハイハットの連打とエレキギターの歪みに導かれた不穏な導入からストリングス中心に変わっていく音楽とともに、時間が経っていくと、雪山を上から撮ったかのようにも見えるし、採取された水や植物を顕微鏡で覗き込んで観察しているようにも見える。その、約4分のあいだ、音楽、特にストリングスのような生の楽器に、わたしたちが、いや、わたしが、容易に叙情を感じるのではないかと考えた。なぜわたしはこれほど、ただ樹々を捉えているだけのショットに揺さぶられるのか? その問いと、問いの変奏を抱え続けるこの映画の鑑賞体験は、この素朴な感情に飲み込まれないよう踏みとどまらせようとする力を感じるものだった。

物語自体は非常にシンプルだ。東京からも近いとされる水挽町には移住者も増えており、そこに、主人公の巧(大美賀均)と、その娘の花(西川玲)は代々暮らしている。かれらの住むその田舎町にグランピング施設がつくられるという計画が持ち上がり、ある日、住民への説明会が行なわれる。巧をはじめとする住民たちは、コロナ禍の補助金を政府から得て計画したという、芸能事務所から来た社員・高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)の説明に納得しない。町を囲う森や水源への汚染が懸念される計画をめぐり、巧たちと、高橋と黛は交流していく。

やはり、まず気になったのは、「自然豊かな土地」への、観光としてのグランピング施設の設置についてだ。「グラマラス(魅力的、ワクワクさせる)」と「キャンピング」を組み合わせたグランピングは、自分でキャンプ用品やテントを持って行かなくても、ホテル並みのサービス付きでアウトドア体験ができるものだ。特に、密閉・密集・密接を避け、人と人との距離を取るよう求められたコロナ禍に入った2020年から、旅行ニーズに応えるかたちで市場を拡大していったそうだ。

この映画に興味をそそられるのは、まだまだ一般には広がっていないが、近年注目されているというグランピングをめぐる話であると同時に、その企画を主導するのが、観光が本業ではない芸能事務所だという点だ。

「グランピング場の説明会の場面は、(制作のリサーチをしていた山梨・長野の県境にある町で)実際にあったと聞いて、参考にしました。その話も、実際にエンターテインメント系の企業が入っていたそうで、この映画でも芸能事務所の計画という設定にしました。本当にありそうな話どころか、現実にある話です。

なぜ芸能事務所がそんなことをしなきゃいけないか? ということを想像していくと、結局かれらは本業ではコロナ禍を生き抜くことが難しかったから、もらえる助成金を使ってなんとか転がしていこう……と、物語ではそういうことにしたんです。実際の事例についてはわかりません」(濱口竜介)

濱口竜介(はまぐち りゅうすけ)
2008年、東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作『PASSION』が国内外の映画祭で高い評価を得る。その後も317分の長編映画『ハッピーアワー』(2015)が多くの国際映画祭で主要賞を受賞、『偶然と想像』(2021)で『ベルリン国際映画祭』銀熊賞(審査員グラランプリ)、『ドライブ・マイ・カー』(2021)で『第74回カンヌ国際映画祭』脚本賞など4冠、『第94回アカデミー賞』国際長編映画賞を受賞。地域やジャンルをまたいだ精力的な活動を続けている。

この映画は、グランピング施設と水挽町を、単に「都市/地方・自然」を対比するモチーフとしては扱わない。「都会から来る客層のためのリゾート施設を、都会の業者が計画し、自然を汚している」というような批判のために使われていない。実際、水挽町に代々住んでいるという巧の語りにおいても、「ここにいる人たちはみんなよそ者」だという話がある。

例えばわたしも、高知県出身だがもうそこで暮らしていたよりも長い年数のあいだ東京に暮らしているし、両親はそれぞれ地元を離れている。きっと誰もが、ほんの数世代を遡れば、いまの日本に限らず、さまざまな国や地域から来た者が一族にいるだろう。そんなふうに、この映画でも「土地の者/そうじゃない者」とはっきり分け切らない。

『悪は存在しない』場面カット © 2023 NEOPA / Fictive

さらに、「ここからが自然/ここからが都市(文明)」という分け切れなさも、巧の家にあるピアノ、チェンバロに使われる鳥の羽根、自然の湧き水を使って提供されるうどん、といったモチーフからもうかがえる。そのあたりの配置がとてもおもしろい。

「おっしゃっていただいたような要素がちりばめられていて、そこから色々な解釈ができるように、ある程度はなっていると思います。ただ、そういった要素はリサーチの結果、実際そうだったということが大きいんですよね。自然や地方と、対比されてる都市みたいなものは、意外と(それぞれ)濁っている。

グランピング説明会のなかでも、 ごくシンプルに反対してる住民っていうのは、じつはそんなにいないんです。計画をちゃんとしてほしいと(会社側に)言っている。主人公の巧が言ってるのも『計画がまともだったらちゃんと話せる』ということです。

こういうある種の融和的な態度っていうのは、もともとリサーチで知った現実の説明会でも、住民側が持っていた態度だったようです。現実っていうのは、 我々が思ってるほどはっきりと分かれているわけではなくて、グラデーションのなかにあって、そこで物事が起きている」(濱口竜介)

グランピング事業を主導する芸能事務所だけでなく、コロナ禍で経営が厳しくなった中小企業への国からの補助金の話題が、作中に出てくる。そこからわたしは映画と補助金について連想した。

コロナ禍の初期に、映画や演劇といった「人が密に集まる場所」での文化・芸術に対して、「自粛」というかたちで「人と人との距離を取るべき」と自分たちで監視するようなムードがつくられ、映画館や演劇の劇場が避けられるような傾向があった一方で、国からの支援がないという問題があった。

そんななかで、濱口さんと深田晃司さんが発起人となり、文化を支える場であるミニシアターを支援するクラウドファンディング「ミニシアター・エイド基金」も立ち上がった。また活動持続のために、これまでの日本の映画産業構造では寄付や助成金に頼る面も大きく、収益化や事業性を見直す議論が起きた。

国からの後回しや一般市民からの過小評価があり、公的支援が受けられないなかで、映画産業内の人たちを中心に改善しようという動きが高まったことと、この映画が地続きに見えた。

「単純に、映画や、その中で描かれていることは全部、自分自身の暮らしとは地続きなんだと思います。そして、日本の文化・芸術と、作中で描かれている状況もまた地続きであるというのは、脚本執筆前のリサーチを通して感じてました。

ただ、それを自分のなかでものすごく意識して、順序だてて、因果関係があるものとしてつくっていたかというと、そうではない。けれど、自分にとっては、自分たちの暮らしのなかで『やっている行為』の何がしかが転じてこういう事態が起きている、とは思っていました」(濱口竜介)

『悪は存在しない』場面カット © 2023 NEOPA / Fictive

ちょうどこのインタビューをした時期に、わたしは新宿のバーで短期間のアルバイトをしていた。そこでの売り上げのほとんどは海外からの観光客により、欧米からの来客、特に白人の観光客が多いという印象があった。冬という時期もあり、「東京に着いて、そこから北海道に行って、また東京に戻ってきて、これから白馬(長野)にスキーに行く」という話を、別の日の、別の人たちから何度か聞いたこともあった。それで、この映画で海外からの旅行客について描かれてもいないのに、グランピングの話の向こうに、国や自治体のインバウンド政策をわたしは見ていた。

また、観光産業において、その土地、モノやコトに対して、神話的な物語やイメージが付随されることによって、消費欲求が掻き立てられるのではないか、とも考えていた。作中、説明会で流されるグランピング施設の紹介動画から、映画のなかの現実としての山中を花が歩く様子に切り替わると、「自然」や「地方」を観光資源とする客体化のための、ストーリーに仕立てられた広報という虚構=神話化の力が、現実に溶け出していくように見える。

『悪は存在しない』場面カット © 2023 NEOPA / Fictive

グランピング事業を主導するのが芸能事務所ということもあって、作中での描写にとどまらず、インバウンド政策によって訪れる海外からの観光客や、白人中心的な社会構造にまでこの映画の視野が広がっているのではないか、とわたしは勝手に読み取った。

「難しいですね……でも、この映画の背景に、欧米とか白人中心主義みたいなものまで見出すのは、やっぱり見過ぎだとは思います。そんなところにまで持ってかなきゃいけない話ではないというか。

これは本当に我々の話だと思います。 何かよそに、それこそ『悪の原因』があるっていうような話ではない。『自然」とか『地方』と見ている、そう捉えているものと、我々が都市部で普段やってることとはさほど切り離されてるわけじゃなくて、我々の生活の一つひとつの振る舞いが全部つながって、これらの出来事は起きている。なので、ここでの問題含みのグランピングの誘致と我々の暮らしはそんなに変わらないんじゃないですか? むしろそれこそが我々の生活ではないですか? っていう疑念からこの映画はつくられています」(濱口竜介)

花が鹿と向き合う、対峙するという場面がある。グランピング施設と鹿とその水飲み場の関係についてのエピソードもあるが、それらは、そこで共存する……みたいな物言いすらも適当じゃないと思われるほど、そんなに簡単なことではないというひとつの象徴に見えた。ほかにも、花が訪れた牛の厩舎には、山のように堆積した糞尿が隣接していて臭いは煙のように立ち込めている。都会では排されているそういったものと、生活は隣り合わせであるはずだという示唆に見える。

ある登場人物が、水挽町の自然やその生活の一端にふれたときに好意的に捉えるエピソードがあるが、作品全体としては、「地方」や「自然」を「単に美しいもの」としては描いていない。

「ものすごく自然たっぷりに見えるようなところでも、じつはでっかい道のすぐ隣だったりだとか、そういう感じの場所ではあるので、おっしゃっているようないろんな要素のグラデーションみたいなものは、もともとあの土地にあるものだと思うんですよね。自分もたぶん、実際にその土地に行って、そうだと発見した。

先ほど話した説明会での住民たちの反応や態度に、『そういうもんなんだな』って思ったみたいに、(頭のなかで)概念として捉えていることと、実際に行って、見てみたこととでは違う部分が大きくて、垣根はあまりないと理解ができました」

「現実にあるようなことを拾い上げていったときに、共存というよりは、 いろんな要素が思った以上に境界なしに混合しているというのが実際なんだと思うんですよ。そもそも、はっきりと分け切れてるときってどこか嘘っぽいですよね。何か明言できるときっていうのは、何か見ないようにしているものがあるんじゃないでしょうか。

そういう、リサーチしたときに実際に見て、受けた感覚がある程度そのまま入っているっていうのがいちばん大きいです。何もほのめかしていない、とまで言ったら言い過ぎかもしれません。けど、ほとんどは現実にそこにあるものを撮ることで出来上がっています。そこにあるのは何の象徴でもない。確かにそこにあるもの、というのが捉えるべき第一のものだと思います。それが言語化可能なものと不可能なものを同時に含んでいるからです」(濱口竜介)

高橋が「もう芸能の仕事を辞めて、施設の管理人になるか」と言い出すシーンがある。そのシーンを試写会で観ていたときに、観客から笑いがあがったが、わたしはけっこう残酷なシーンだと思っていた。 なぜなら、わたしたち観客、特に試写会に来るような「業界人」はまさに、文化・芸術を、芸能とも関わりの深い視覚芸術・娯楽としての映画を消費している。

わたしはそう考えるから、自分がこの映画のオープニングを「美しい」と感じてしまうとき、単にそれだけで終えられなかったし、この映画の鑑賞体験は、その視点はどこから来るものなのか? と、かたちを変えて突きつけられるようなものとなった。美しさや荘厳さが感じられる一方で、おもしろい・おかしいと見られる場面もあり、そのギャップを感じられる劇場ならではの体験含め、かなり揺さぶられたのだった。このわたしの鑑賞体験のように、観客一人ひとりの価値観、経験によって、この映画の見え方や突きつけられる問いかけがさまざまになり得るように思う。

「誰にでも関わりがある話をつくったつもりではあるので、 特定の『こういう問題意識を持った人』に見てほしいっていうことは一切なくて、誰でも観てほしいと思っています」(濱口竜介)

わたしがこの映画でいちばん好きな場面のひとつで、最も感情を揺さぶられたシーンが、後半に出てくるぎこちない水汲みのシーンだ。それだけでなく、映画で描かれている小川、野草の描写は、わたしの記憶のなかの幼いころから歩いた小川や、山中で採れたキノコや山草が呼び起こされた。同時に、自分がそこに住めるか? というと疑問を抱く。そういう曖昧な感情や微妙な場面が映画には刻まれている。

その象徴として、誰かの血が滴るカットが挿入されるが、わたしがそれを「◯◯が手を切って血が滴る場面で……」と言うと、濱口さんは、「そこで手を切ったのは××です」と言ってから「いや、すいません。こっちはそう思って撮ってただけで、そう解釈することは可能なので」と付け加えた。

もちろん、実際に映っていないものを、「実際に映っていた」と説明するのは行き過ぎだが、映っているものからならば解釈を許容する態度だと思った。

「究極的には、どうとでも感じられるように撮っているということなんだと思うんですよ。だから、笑うこともできるし、すごく残酷に痛々しいものにも見える、と。僕がこの作品をつくるうえでやったことは、そういう『どっちとも言えない』という視座を丁寧に構築していくということだったんじゃないかと思います。

だから、おっしゃってくれた『笑えなかった』っていう感想も、じつのところはけっこううれしい。自分も笑うこともあるけど、笑えないなと思うこともあります」(濱口竜介)

『悪は存在しない』場面カット © 2023 NEOPA / Fictive