トップへ

『魔女の宅急便』から『リトル・マーメイド』『水星の魔女』まで──「魔女像」の変遷が映し出すもの

2024年03月22日 12:10  CINRA.NET

CINRA.NET

写真
Text by 今川彩香
Text by 近藤銀河

現代において、さまざまな文脈を持つ「魔女」という存在。かつては魔女狩りとして女性を罰する口実として使われた歴史から、フェミニズム運動では象徴のように語られることもある。アニメや映画など物語で描かれる「魔女」は、現代社会における女性はじめマイノリティへの視線とも重なる部分があるのではないだろうか。魔女に向けられる憧れや恐れはどんな意味を持つのか? 典型的な悪役魔女にある背景とは? ──『魔女の宅急便』をはじめ、『マレフィセント』『アナと雪の女王』などのディズニー作品、『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』『機動戦士ガンダム 水星の魔女』などの作品から、美術史家でアーティストの近藤銀河が映画やアニメのなかの魔女像について考える。

魔女と聞いて、あなたはどんなイメージを持つだろうか。荒地に棲む恐ろしい魔女。人を喰う魔女。優しい僻地の魔女。社会に溶け込み人々の役に立つ魔女。家父長制を呪う魔女。

魔女のイメージはあなたが触れてきた創作や、出会ってきた人々、考えてきた物事によって異なるかもしれない。

ただいずれにしても、魔女は大きな力を持つようだ。魔女は他の人ができない技を持ち、知識を持つ。

魔女とはなんだろうか。『キャリバンと魔女―資本主義に抗する女性の身体』(小田原琳、後藤あゆみ訳、以文社、2017年)の中で研究者のシルヴィア・フェデリーチは魔女狩りを封建制から資本主義へと移行する時期に西洋で行なわれたものだと位置付ける。子どもを産み育む女性という像から外れた人々を、魔女として罰することで、女性とされる人々の身体を労働力を産み育てるために国家に奉仕させようとしたのが、魔女狩りであったのだ。

『キャリバンと魔女―資本主義に抗する女性の身体』(著=シルヴィア・フェデリーチ/訳=小田原琳、後藤あゆみ/以文社)

知識を持ち身体を管理する女性、あるいは資産があったり、再生産労働に入らなかったり、そうした人々を罰するための口実が魔女だった。そして彼女たちは国家が恐れるような、大きな力を持っていた。

魔女はその意味でイメージの中の、制度の中の幻影でもある。そこでは生まれ持った身体の機能がその人の本質であるとみなされ、その架空の本質から外れた人々は、魔女と勝手に規定され罰される。魔女とはそのようにジェンダーという役割を本質化し、身体と結びつけるための幻でもあった。

こうした魔女のイメージを、私たちは童話の中にたくさん見てきた。そうした物語に出てくる魔女たちは、王や王の娘に呪いをかけ、子を産めなくさせたり、殺したりし、子どもをさらい、あるいは恋の仲を引き裂いていく。

ディズニー映画でもこうした魔女は描かれてきた。『眠れる森の美女』(1959年)のマレフィセントはその代表例だろう。マレフィセントは王の娘に呪いをかけ、王族の家系を終わらせる。そこには子どもを産み育む女性という押し付けに逆らった女性たちが、魔女と呼ばれたことの痕跡がある。

また一方で魔女たちのイメージは、抑圧された女性や力ある女性としてフェミニストたちのシンボルになることもあった。1960年代後半、「W.I.T.C.H」はウォール・ストリートを占拠し、資本主義に対する抗議を行なったフェミニズム運動で、その名前はWomen’s International Terrorist Conspiracy from Hell(地獄からやってきた女たちの国際テロリスト陰謀団)の頭文字をとったものだという。実際にほうきやとんがり帽子など、魔女っぽい服を着て抗議した彼女たちの活動はユーモラスなものでもあった。

現代において魔女として宗教活動を行なう人たちも、フェミニズム的な運動を行なうことが少なくない。魔女がイメージとしての魔女から、儀式を行ない、組織を持つ、一種の宗教活動としての魔女という実態を持っていくなかで、魔女たちは次第に社会運動にも参加していく。スターホーク(※)が提示した反核運動に参加するような魔女像はその代表例だし、Instagramなどでフェミニズムと魔女を掛け合わせた活動を行なう若い世代も増えている。

魔女とは押し付けられたレッテルであり、その歴史を踏まえた名乗りでもあるのだ。

近年の映画などのメディアでも、魔女の像は少しずつ変化してきている。先述したマレフィセントも彼女を主役にした映画『マレフィセント』(ロバート・ストロンバーグ監督、2014年)がつくられ、かつての呪うべき魔女としての像から大幅に再構築されたマレフィセント像が提示された。そこではマレフィセントは王権によって攻撃され、傷つけられた存在であり、また自身が呪ったはずのオーロラとのあいだに深いつながりを育み、真実の愛をもたらす役割を担う。魔女のマレフィセントが資源を収奪される側として描かれるのも、大きな変更点だ。

『マレフィセント2』 ©Disney

大ヒットした映画『アナと雪の女王』(クリス・バック、ジェニファー・リー監督、2013年)もそうした映画の一つだろう。アンデルセンの『雪の女王』(1844年)をベースにしたとされるこの映画では、かつての若い男女の仲を切り裂く孤独な女王は、女性同士の絆や女性の独立性を描く物語の主人公として再想像された。

どちらの作品でも原作では家族の再生産を断ち切る存在であった女性が、女性間の深い愛情に支えられる存在として描き直されているのは興味深い。女性の友情や愛情も、現代的な魔女像の重要な要素の一つだ。

また日本では『魔女の宅急便』(宮崎駿、1898年)を始め、『おジャ魔女どれみ』(1999年)など社会の中に溶け込んでいたり、日常の近くにある存在としての魔女がアニメーションで描かれてきた。そこでは若い女性が主人公となり、魔女を目指す過程で人間的な成長を遂げていく。こうした魔女は掟に従わなければならない点で厳しくもあるが、成長や成熟と結び付けられ、憧れとともに眼差されもする。

© 1989 Eiko Kadono/Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, N

しかしここ数年、創作の中で悪役としての魔女があらためて増えているように思える。『魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之監督、2011年)で魔女が魔法少女の成り果てる先として描かれたのは、その幾分か早い変化の先ぶれだったのかもしれない。

マーベル・シネマティック・ユニバースの『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』(サム・ライミ監督、2022年)で活躍するヴィラン(悪役)はスカーレット・ウィッチと呼ばれる女性で、その名の通り彼女は魔女でもある。

彼女はもともとワンダとしてヒーローたちとともに戦っていたのだが、ドラマシリーズ『ワンダヴィジョン』(ジャック・シェイファー、2021年)で、魔力で生み出した自身の子どもたちを失ってしまう。それを受けて『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』では、ワンダは恐るべき魔女スカーレット・ウィッチとなり、彼女は並行世界の自分が育てている子どもを奪い去り自分のものにしようと試みる。スカーレット・ウィッチはそのために次元と次元のあいだのつながりを壊し、次元を守ろうとするヒーローたちを次々に血祭りにあげていく。

彼女は他者の家族を破壊しようとする点で、クラシカルな魔女たちと共通するところがある。子どもをさらう魔女というのもある種の類型の一つだし、子どもを亡くしたことで社会規範から外れていく母親、というのもありふれた表現だ。彼女を演じるエリザベス・オルセンの演技は見事だけど、スカーレット・ウィッチの魔女像は従来の悪役としての魔女像から大きく外れないものだった。

『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』©︎Marvel Studios 2022

ディズニーの実写版『リトル・マーメイド』(ロブ・マーシャル監督、2023年)も魔女の描写という点では古典的な描写を見直すことなく、そのまま受け継いだ作品だ。魔女のアースラは王族を追放され、王権を手に入れるべく策謀を巡らせ、王トリトンの娘アリエルに契約を持ちかけるが、最終的には彼女の陰謀は破綻し「魔女め!」と罵られる。

アースラがゲイたちから生まれた女性装のカルチャー、ドラァグ・クイーンの引用をしていることを考えると、この保守性にはかなりたじろいてしまう。原作となるアニメ版のアースラは1980年代に活躍したドラァグ・クイーンのディヴァインをモデルにしているとされるし、実写版でアースラ役を演じたメリッサ・マッカシーもインタビューでドラァグ・クイーンを演技の参考にしたと語っている。アースラの魔女性とは、そうした性別規範や異性愛規範から逸脱した文化を参照することからも来ている。

その魔女像は魅力的でもあるが、実写版においてもアースラがヴィランとして終わることで、結果的には魔女への恐れと侮蔑のイメージがゲイやトランスジェンダーのイメージに対する恐れとも結びつき続ける結果になってしまっている。女性への差別は、ゲイやトランスジェンダーへの差別とも重なり続けてきた。セクシュアルマイノリティのイメージを引き継ぐ魔女が物語の中で罰を受けるのはとても象徴的に見えてしまう。

『リトル・マーメイド』の魔女はそのような差別の重なりを観客に思い起こさせる。

これらの魔女たちの描かれ方は、奪われてしまった何かを求める女性を罰しているようでもあり、恐れているかのようでもある。彼女たちは家制度の犠牲者としても語られるが、同時に彼女たちは自身の性格のために愚かな手法をとったともされる。物語の中では彼女たちの怒りの原因にはあまり目が向けられず、彼女たちの性格やその手段のおぞましさにだけ焦点があてられる。

こうした恐ろしく愚かしい魔女像と、植民地主義や家父長制の犠牲者でありそれに反抗するものとしての魔女像を組み合わせたのが、『機動戦士ガンダム 水星の魔女』(小林寛監督、2022~2023年)だ。

『水星の魔女』での魔女とは男性中心の資本主義社会によって禁じられた技術を用いる女性たちのことでもある。彼女たちは往々にしてテロリストとなり、悪役として立ち現れるが『水星の魔女』は彼女たちが搾取されてきた様子やその怒りの正当性も描き出す。

ただ『水星の魔女』で示されるのも、犠牲にされた人が加害者になり「魔女め!」と罵られる様だ。家制度や男性中心の社会で犠牲になった人々が力を求め、怒りを露わにするときに、規範を逸脱した魔女として恐れられ貶められる。

近年の作品で描かれるそうした魔女には、どうしても現実の社会における女性に向けられる批判を思い起こさずにはいられない。

魔女を描くこれらの作品は女性差別に口をつぐみながら、表面的な平等を描き、魔女を恐れる。それは再び進展し始めたフェミニズムに対するバックラッシュの一端でもあるのかもしれない。

魔女は規範から外れ、社会の中で自身が望みえないものを希求し、そのために規制された力を用い、「魔女め!」と罵られる。でも私はこれらの作品の魔女を、嫌いにはなれない。

女性に対する侮りが横行する世界の中で魔女として恐れられるのは、本来マイノリティが持つ力を思い出させもする。『マレフィセント』や『アナと雪の女王』で最終的に王権に絆される魔女たちより、スカーレット・ウィッチやアースラのような魔女の方が魅惑的にも思える瞬間がある。

私はむしろ、恐れよ! と言いたいのだ。フェミニズムは社会を変えていくし、セクシュアルマイノリティも社会を変えていく。それはとても大きな力で、同時にその力を持った人たちは『魔女の宅急便』の魔女のように社会に溶け込んでいるし、あなたの隣にもいるし、あなた自身かもしれない。創作が示す魔女への恐れは、そうした存在の力を思い出させる。

ただその喜びは両義的な、あえて引き受けざるをえない喜びでもある。

© 1989 Eiko Kadono/Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, N

恐れは、危うい。魔女狩りが示すように恐れと差別は同じコインの裏表であり、組織的な差別は常に恐れとともにあるからだ。

魔女への恐れは資本主義が感じる、女性や、マイノリティたちへの恐れでもある。今の社会は、彼女、彼ら、彼人らを抑圧し続けてきた。魔女は、資本主義に逆らう人々に付与される「魔女」という差別の構造でもあるが、同時にその構造に反差別に契機を見出すような名乗りでもある。

そして抑圧的な立場に立たされる魔女とされたりする人や魔女を名乗る人々にとって、魔女への恐れは力の証明でもあるが、その恐れは差別でもある。魔女はこの二重の恐れによって引き裂かれてきた。現在のメディアでの魔女像の分裂は、この苦しみをあらためて実感させられる。

ここで最後に柚木麻子の小説『マリはすてきじゃない魔女』(2024年、エトセトラブックス)を紹介したい。この小説は、ここまで書いてきたようなさまざまな魔女たちと、魔女たちに願いを託してきた人々の有り様を、ひとまとめに描く作品だ。

舞台となるのは、すてきな魔女と人間たちがともに暮らす社会だ。そこにはレズビアンの魔女や、魔女になりたいトランスジェンダーが登場し、マイノリティの戦いの歴史と魔女の歴史が重ねられる。魔女は人間に認められるよう努力をしたが、人間のためにがんばるすてきな魔女像に同化しなかった魔女は、恐れられ排斥されている。それはマイノリティがマジョリティにとって良きマイノリティになるように求められてきたことを思い出させる。

『マリはすてきじゃない魔女』(著・文=柚木麻子/イラスト=坂口友佳子/エトセトラブックス)

小説の主人公マリは、そんななかで自分のために魔法を使い、人々を驚かせる魔女の子どもだ。マリの姿勢は、人に認められたり、試練を受けて良い人間に成長する魔女の息苦しさを思い出させる。マリはやがて社会から恐れられる「すてきじゃない魔女」と出会い仲良くなり、やがて二人はすてきな魔女しか受け入れない社会を変えていく。

そこには恐れられる魔女の持つ力と、魔女を恐れる社会の差別性がともに描かれ、そのうえで同化するだけではない魔女の受容が語られていく。恐ろしい魔女も、フェミニストとしての魔女も、間違える魔女も、社会に同化する魔女も、全部受け止める。

『マリはすてきじゃない魔女』では、それはキャラクターたちが個々に抱えるマイノリティ性と抑圧──トランスジェンダーであったり、レズビアンであったり──の存在や歴史を描くことで実現されていた。それぞれ個別に異なる抑圧の状況と、共通する抑圧への抵抗のシンボルとしての魔女の姿だ。そんな単数ではない複数の魔女たちの姿を、もっといろいろなところで見かけたい。