Text by 大石始
Text by 山元翔一
Text by 渡邉隼
マヒトゥ・ザ・ピーポーの初監督作品『i ai』が劇場公開となった。マヒトが監督のみならず、脚本や劇中音楽まで手がけた本作は、赤い色彩に彩られた異形の青春映画といえるだろう。撮影を担当したのは、劇映画初挑戦となる写真家の佐内正史。佐内のカメラを通じ、明石の海や神戸の繁華街がビビッドに映し出されていることもまた、この映画を特別なものにしている。
本作のステートメントでマヒトはこう書いている。
写真や映像は加工され、目元の皺はPhotoshopで修正されて画像へと変換されていく。これはピッチの修正と共に声や音の尊厳を奪っている音楽も同じだ。表現メディアのほとんどが、生き物の持つ曖昧な揺れや混乱を許さず、暗黙のうちに共犯者となり美を冒涜している。 - 映画『i ai』オフィシャルサイト掲載「statement マヒトゥ・ザ・ピーポーから、みなさんへのお願い。」より引用ここに表明されているように、『i ai』の根底に流れているのは、あらゆるノイズが除去され、わずかな揺れを含んだ表現さえ許さない現状への危惧とフラストレーションだ。
壊れゆく社会のなかで他者と関わりながらどのような表現を生み出すことができるのだろうか。GEZANの近作や『全感覚祭』にもあったそうした問いは、本作『i ai』でも投げかけられている。マヒトと佐内の対話のなかから、その答えを探っていく。
―マヒトさんと佐内さんが初めて接点を持ったのはいつだったのでしょうか。
マヒト:『ひかりぼっち』(2020年、イースト・プレス刊)っていうエッセイ集を出したとき、写真をお願いしたのが最初です。自分のエッセイって暮らしに寄り添うようなものでもなく、日々感じているある種のサイケデリックな感覚をエッセイという形に翻訳しているところがあって、佐内さんの写真にも「フレームの外側の匂い」が入っている。それで撮影をお願いしたいなと思いました。初めて会ったのは俺の部屋だと思う。
―佐内さんはマヒトさんに対してどういう印象を持っていましたか。
佐内:なんというか……ベアーズ(※)みたいな感じかな(笑)。
マヒト:ざっくり言えば当たってますよね(笑)。
佐内:話をもらってから初めてGEZANを聴いたんだけど、最初に出てきたのは「懐かしさ」という感覚。自分の写真もよく「懐かしい」って言われることがあって、懐かしさって何だろう、難しいなと思っていて。GEZANも決して古い表現をしているわけじゃないんだけど、懐かしさがあるんですよね。
左から:佐内正史、マヒトゥ・ザ・ピーポー
―過去の表現をなぞったものにノスタルジーを感じるのではなく、もう少し根源的な感覚ということでしょうか。
佐内:そうですね。もっと土みたいなもの、もっと遠くの懐かしさかもしれない。
マヒト:「懐かしい」っていうと過去の時間のことと思いがちだけど、じつは時間の問題ではないと思うんですよ。自分もよく使う言葉だけど、未来のほうが懐かしく感じる瞬間もあるし、過去と言われる時間のなかに未来としか言いようのないひらめきみたいなものもあるし。時間と関係ないところにある感覚の話なんだろうね。
―佐内さんがマヒトさんの自宅を訪れたときのことは覚えていますか?
マヒト:自己紹介のあと、佐内さんが突然自作の詩を読み出したんですよ。「ちょっと詩を読むわ」みたいな感じで。すごく新鮮なカットインで、俺はその横でアコギをポロンと弾いたりして。
普通、仲よくなるためのプロセスってあるじゃないですか。でも、佐内さんの場合は角度が新しかったんです。流れ星みたいな感じというか。そのあと、佐内さんが「ちょっと走ろうか」と言い出して。そうやって撮影したのが『ひかりぼっち』の表紙になってる写真です。
佐内正史が撮影したマヒトゥ・ザ・ピーポー『ひかりぼっち』書影(詳細を見る)
―佐内さんはなぜ詩を読んだのでしょうか。
佐内:うん、なんか……読みましたね(笑)。マヒトの部屋の光のせいかもしれないし、人と陽だまりっていうのかな。そうしたらギター弾いてくれて。なんか……いま話を聞くと恥ずかしいじゃない? 詩を読んで走ったわけで。そのころから青春な感じだった。そうしたほうがいいような気がしたんですよ。
―詩を読むこともまたコミュニケーションみたいな感覚だった?
佐内:そうです。小学校のころ誰かと友達になろうと思ったら、そんな感じだったと思うんですよ。普通だったらさ、撮影して「バイバイ、お疲れ様でした」という仕事上だけの付き合いになるかもしれないし。そういう写真じゃないものを撮りたかったんでしょうね。
マヒト:よくわかりますね。俺も子どものころ転校が多かったので、どのグループのやつらと仲よくなりたいか考える癖がついちゃって。下からじりじり歩み寄っても埒が明かないんで、学校の一番荒くれたやつと早いタイミングで喧嘩とかして、関係性をギュッと埋めたりしてた。そのころは歌ったり楽器もできないから、とりあえず喧嘩かな、と(笑)。
―とりあえず喧嘩(笑)。
マヒト:全然強くないんですけど、それしかアプローチの方法がなくて。だから、佐内さんの話はよくわかります。
マヒトゥ・ザ・ピーポー
2009年 バンドGEZANを大阪にて結成。作詞作曲をおこないボーカルとして音楽活動開始。国内外のアーティストをリリースするレーベル「十三月」を運営、『全感覚祭』を主催。映画『i ai』では初監督、脚本、音楽を担当、2024年3月よりPARCO配給にて全国上映。
―結果、その『ひかりぼっち』のセッションから関係が密になっていったわけですね。
マヒト:そうですね。『i ai』のクラウドファンディングを立ち上げるにあたって、ビジュアル撮影を佐内さんにお願いしたんですよ。防火服を着て炎に包まれてる写真を木更津で撮ったんですけど、防火服のスペアがあるわけでもないし、夕方から夜にかけての限られた時間で撮影するしかなくて。でも、佐内さんはフィルムで撮ったんです。
普段は水谷太郎っていうフォトグラファーに写真を撮ってもらうことが多いんですけど、その撮影には太郎さんたちもムービーで来てもらっていて。太郎さんが言ってたのは「この条件でフィルムで撮影するのは怖くて俺はできない」と。
―デジカメならともかく、失敗するリスクがあるフィルムで撮るのは怖い、ということですか。
マヒト:そうそう。しかも、そのときの佐内さんの撮り方がすごかった。撮影って英語で「shooting」と言うけれど、本当にピストルを撃つような写真の撮り方なんですよ。腰をぐっと下げて、バシーン! ガシャーン! と撃つような撮り方で。デジカメだったらひたすら連写ですよ。でも、佐内さんはカメラで撃ち抜くように撮っていた。その姿にも興奮しました。
佐内:どこにピントを合わせるかってことだと思うんですけど、デジタルで撮っちゃダメなんだなとは思って。フィルムで撮るということは、「情報」を撮るのではなくて、目に見えないものを撮ろうということでもあるわけ。これから起こることにピント合わせなきゃ、と。まだわからなくて見えないものを撮影しようと思っていましたね。
佐内正史の写真を用いた映画『i ai』ティザーポスター
―そのビジュアル撮影が『i ai』につながっていくわけですが、どういう経緯で佐内さんは『i ai』の撮影をすることになったんですか。
佐内:映画も「わからなくて見えないもの」にフォーカスを合わせなきゃいけないんだけど、それは自分がやらなきゃいけないんじゃないかと思っていました。
マヒト:それで電話をくれたんですよね。
佐内:ビジュアルの撮影をしてから1か月後もその感覚が残ってて、「あれ、やんなきゃいけないかな」と思って。映画を撮ったこともないけど、「俺、やる」って。
マヒト:「おおー!」と思いましたね、そのときは。
―その時点で佐内さんは今回の脚本は読んでいたんですか。
マヒト:それが読んでないんですよ(笑)。
佐内:変な話なんですけども、脚本を読んで撮るってちょっと違うなと思って、撮影中も途中までは読まなかったんですね。
―えっ、実際の撮影でも?
マヒト:そうそう(笑)。
佐内:読もうとはしたんですけど、ちょっと意味がわからなくて(笑)。それで、脚本を擬音化していったんですよね。ウィーン、ブーン、ポッとかね。そうやって擬音化していくと撮るものがわかってきて。あるいは詩にしたり。
佐内正史(さない まさふみ)
日本の写真家。1997年、写真集『生きている』でデビュー。2003年写真集『MAP』で『木村伊兵衛写真賞』を受賞。2008年に独自レーベル「対照」を立ち上げて写真集を発表し続けている。
―擬音や詩にすることで翻訳し、理解しようとした?
佐内:そうですね。そうすることで動きを感じようとしたんでしょうね。
マヒト:美術の佐々木(尚)さんなんかは脚本に惹かれて参加してくれたんですけど、佐内さんはそういうところじゃないんですよ。
佐内:そもそも脚本を読んでいないので(笑)。
―じゃあ、撮影前にふたりでイメージのすり合わせはどうやっていったんですか。
マヒト:佐内さんの事務所で映画研究会みたいなことを何回かしましたよね。相米慎二監督の『台風クラブ』(1985年)とかを見たり。ただ、撮り方の勉強をしたわけでもなくて。
コマーシャルをつなぎあわせただけみたいな映画もあるし、ミュージックビデオを引き伸ばしただけのものも多いじゃないですか。自分たちがどう撮るかという前に、どういうものを映画と呼びたいのか、その一点を確認したかったんですよ。
佐内:だから、勉強じゃないよね。作品もそんなに見てないしね。
マヒト:ふたつだけかな。『台風クラブ』とアッバス・キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』(1987年)だけ。
―どちらも名作です。
マヒト:あとね、佐内さんの事務所で写真を選んでいるとき、佐内さんが大林宣彦監督のトレーラーを流したことがあったんですよ。俺は今回の映画をはじめるにあたって、「十三月」のチームには大林監督のことを話していたんです。大林監督の作品みたいにトゥーマッチなぐらい自分のイメージを詰め込んだもので映画はいいんじゃないかと。レスしていくのではなく増やしていくことで自分を無化していけるから。
マヒト:たとえ「そこそこ上手に撮れてたね」という映画をつくっても何も嬉しくないし、そんなの映画を勉強したほかの人がやればいいし。自分には自分のやるべきものがあるはずで、それが溢れているという意味で大林監督の名前を挙げてたんですよ。
そんなことを何も話していない佐内さんが突然大林監督のトレーラーを流したので、佐内さんは何かをキャッチしてると思ったんです。そのあとに佐内さんから電話があったので、もうこれはこのストーリー以外ないでしょう。川が流れはじめてると思いました。
佐内:撮影中も大林監督のことは考えていました。映画の撮影が終わると毎日橋をわたって帰るんですけど、帰るときに上を見上げて「大林さん、映画撮ってますよ!」と心のなかで叫んでましたね。
―それは佐内さんが目指すものとして大林監督の作品があったということなんでしょうか。
佐内:そういうわけではないんですけど、大林監督の作品にすごく映画を感じてたんですね。小さいころから見てるし、映画館からの帰り道にそのことで頭がいっぱいになるような映画っていうんですか。
―自分の暮らしに映画が侵食してきちゃうような感じというか。
佐内:そうですね。
マヒト:大林監督の作品って、どのシーンも作品を成立させるための「道具」になってない感じがするんですよね。ちゃんと愛が詰まってる。
佐内:念のため「これも撮っておこう」というカットがないんですよね。撮りたいものを撮っている。『i ai』にしても、あとから見返すと撮影したカットほとんどがいいんですよ。
マヒト:ほとんどがワンテイクだしね。
―撮影の現場はどんな感じだったんですか。
マヒト:現場に入ってからずっと話していたのは「映画をまっすぐ撮ろう」ということだけなんですよね。それに対してプロデューサーは映画として見やすくするためにアドバイスをくれるんですけど、佐内さんがあいだに入ってくれたんです。
たとえば、プロデューサーは「監督、これ絶対に逆側からも撮っておいたほうがいいですよ。そのほうが編集が楽になるんで」と言うわけですよ、それが役割だから。でも、普通の映画をつくる気もないし、いらないっすよ、と。プロデューサーとそういうやりとりをしていたら佐内さんが入ってきて、「これはマヒト監督の作品だから! はい、撤収!」って(笑)。
佐内:「普通はこうやります」というカットを撮っていくと、相米さんや大林さんの作品にあるような映画のロマンがなくなっちゃうんじゃないかと思って。だから、そういうカットが全然ないんですよ。映画に感動するのは説明的な部分ではないと思うので。ま、それは何でもそうかな。音楽でも写真でも。
マヒト:映画に対してまっすぐ向き合えるよう佐内さんが守ってくれたんですよ。映画みたいにたくさんの人たちが関わり、お金も絡んでくるもののなかに入っていくことの無防備さみたいなことを俺の立ち振る舞いから感じ取っていたのかもしれない。自分はそういうふうに感じましたね。
佐内:マヒト監督がやりたいこと、この映画が行きたい場所に向かうためにどうしたらいいんだろうということは考えてました。
マヒト:あと、音楽や映画にドキドキしていた中学生や高校生の自分で撮らなきゃダメだとは思ってました。さっきちょうどメイキングのMVがアップされたんですけど、あらためて見てもとても映画の現場とは思えない(笑)。こんな楽しそうな現場はないんじゃないかとさえ思った。
―じゃあ、現場はかなりワイワイとした感じだった?
マヒト:それだけじゃないですけどね。撮影終わったあと、佐内さんと飲みながらいろんな話をしましたけど、表現に何かを残すのって「楽しい」という表層的なレベルのことだけじゃなくて。そんな簡単に深淵に触れられるはずもないんですよ。楽しい現場にいることと同じだけの葛藤と厳しさもあった。その両軸を高速で点滅させるイメージ。
―なるほど。
マヒト:だから、佐内さんも「優しい人」っていうイメージはないですね。優しさと同じぐらい厳しさがある。
佐内:たしかに現場はやばかったですね。俺もマヒトも壊れた顔をしていた。赤ちゃんみたいな顔というか(笑)。劇中に出てくる麻婆豆腐を出すお店で撮影後にマヒトと麻婆を食べたんだけど、最初は「うますぎる!」ってガツガツ食べてたものの、そのあと疲労でひと口も食べられなくなっちゃった。
マヒト:深いところに落ちちゃったのかな。
ヒー兄(森山未來)とコウ(富田健太郎) 映画『i ai』より ©STUDIO BLUE
佐内:あの日は夕焼けが撮れなくてね。でも、麻婆豆腐屋で撮影していたら、店内に夕焼けの写真が飾ってあって。
マヒト:「やっと夕焼けが出た!」ってみんなで喜んだ(笑)。
佐内:あのときは嬉しかったね。写真の夕焼けでみんなぶち上がってた。
マヒト:佐内さんも『i ai』の撮影のあと、何か月かiPhoneで写真を撮ってましたもんね。Instagramの質感が普段と違うなと思ってメッセージをしてみたら、「いまちょっと強い光を見れなくて、iPhoneで撮ってる」という返信が返ってきて(笑)。
佐内:なんだかね……光っちゃって、このへんが(と額を指す)。
マヒト:佐内さんがまず率先して発光してた気がする。それがどんどん伝染していったんじゃないかな。ドキュメントの部分とファンタジーの部分が曖昧になってきちゃって。霊性のフタを緩めて俺も佐内さんも現場入りしてるっていうこともあるけど、それが役者にも漏れてたと思うし、なかなかそれを戻すのが大変で。
―マヒトさんは映画のステートメントのなかでこんなことを書いています。「写真や映像は加工され、目元の皺はPhotoshopで修正されて画像へと変換されていく。これはピッチの修正と共に声や音の尊厳を奪っている音楽も同じだ。表現メディアのほとんどが、生き物の持つ曖昧な揺れや混乱を許さず、暗黙のうちに共犯者となり美を冒涜している。今日も広告として作り上げられた画像が世界を飛び回り、視力を悪くした人がいいねを押している。正直うんざりだ」と。
マヒト:そんなことまで言ってるんだね(笑)。
―「生き物の持つ曖昧な揺れや混乱をどう表現するか」というポイントは、近年のGEZANがやってることともつながるんじゃないかと思うんですね。今回の映画では時に極端なクローズアップが入りますが、寄りのカットにその姿勢が見えると思ったんですよ。
マヒト:クローズアップに関しては「ちょうどいい寄り」よりももう一歩寄ろうと話した覚えはあって。ちょうどいい距離って、だいたい定まってると思うんですよ。それが1センチずれるだけでボタンのかけあわせが変わって、歪さが浮かび上がってくる。
るり姉(さとうほなみ) 映画『i ai』より ©STUDIO BLUE
マヒト:役者さんやモデルさんって自分の顔をつくるのが上手いけど、それがほどける瞬間って絶対あるわけですよね。一番ちょうどいいオンタイムのひとつ前かひとつ後ろにずらすことで、それが撮れる。それは佐内さんが写真で挑戦してきたことのひとつでもあると思っていて。
佐内:「ここで撮りたいな」というところからもう一歩バイーンと寄ってみると、撮りたいものじゃなくなるんですよ。そこがやっぱり可能性だと思う。一歩寄ると自分の世界じゃなくなって、外側の世界になっていく。自分にとっての「ちょうどいい距離感」が崩れていくんです。そこに明るさがあると思う。映画というのは自分の世界を撮るのではなく、外に出かけることなんじゃないかな。
―なるほど。クローズアップも意識的にもう一歩踏み込んでいるわけですね。
佐内:うん、寄ってますね。カメラを構えておいて、「じゃあ本番いきます」という声がかかったらガン! と寄っちゃうんですよ。そうすると、自分のフレーミングの外側にいく。僕にとっての撮影というのは自分のなかのものを撮るのではなくて、人や風景との出会いを撮るものなんですよ。
ヒー兄の弟・キラ(堀家一希)とコウ 映画『i ai』より ©STUDIO BLUE
佐内:アップにすると、かえって無限の世界に入っていく感じがするんですよね。遺影なんかもそう。余計な情報が入っていなくて、その人物だけがアップになっている。ただ、アップにすることで無限の世界を撮ろうとしているわけではないんです。あえて撮ろうとすると、ちょっと汚らしいものになってしまう。
―「汚らしいもの」というのは作為的なものということでしょうか。
佐内:人間の狭い頭のなかで考えたものっていうんですか。そういうものってどうも汚いんです、僕にとっては。だいたい僕もマヒトも全部初めてやることだからね。
マヒト:勉強するのだけはやめようと思ってたけどね。どう撮るのかというメソッドなんて現場でやってるうちにいやでも学んじゃうわけじゃないですか。誰かが発明したカットを同じように撮るにしても、自分でひらめいた感覚で撮りたかった。役者や風景が何かの目的のための道具にされるのは嫌だったし、自分はできるだけそういうものと触れずにいたかったんですよ。
―「映画とはこういうものだ」というメソッドを知る前のピュアな状態をいかに守っていくか、そこも作品づくりのうえで重要だったわけですね。
マヒト:そうですね。俺ね、三宅唱監督とコーヒーを飲みながら話をしたことがあって。「役者なんて大変な場面もいっぱいあるんだから、映画を撮ってるときぐらい幸せでいてほしいんだよね」みたいなことを言ってたんですよ。普段戦ってんだから、どんな役をやるにしても幸福な状態でいてほしい、と。
―素敵な言葉ですね。
マヒト:今回にしても役者さんは大変だったと思いますよ。普段のドラマや映画の現場とは違い、1から100まで説明があるわけではなかったから。佐内さんは自分のイメージの外側に出ることと、そこにある明るさについて話していたけれど、霊性みたいなものだとも思うんですよ。役者の内側で起こってる変化を誘い出すために演出があるとも思うし。
編集:役者や風景を「道具」として扱わない姿勢であったり、既存の映画づくりにおけるメソッドに絡め取られない制作のスタンス、そしてこの映画に注ぎ込まれた霊性は、マヒトさんが観客や社会に提示しようとしているものとどんな関係があるのでしょうか。
マヒト:それは間違いなく関係ありますよね。みんな生きてるだけで混乱しているわけだけど、そのことに気づかせないような仕組みが周到に存在しているわけじゃないですか。そういうものを揺さぶるためには映画自体が歪んでいないといけない。揺れていないと、映画自体が教訓とか啓蒙みたいなものになってしまう。それは表現でも何でもないですよね。
野生や霊性っていうのは資本主義を潤滑に回すうえではもう不都合なわけですよ。映画はそういうフィルターを破壊して、裸よりもむき出しのその人自身に返すものだと思う。
編集:マヒトさんのステートメントにあった写真のレタッチや、歌声のピッチ補正も含め、作品づくりにおいてノイズや揺れを取り除いたり、余分なものを綺麗にトリミングして整頓したりということは、表現を研ぎ澄ませていくためには重要な作業ですよね。でも『i ai』はそうではない別の何かに、たとえば極端なクローズアップによってとらえようとした何かに重要性や価値を見いだしている。『i ai』には、マヒトさんの表現の現状に対する違和感や不満があって、ある種そこに抗おうとする意思もあったのでしょうか。
マヒト:違和感はずっとあるけどね。でも、最近映画に関する違和感ばかり話してるのも嫌になってきて。現状に戦ってる監督はいっぱいいますからね。ビクトル・エリセ(※)とかもそうだしさ。
自分にとって得があるのか損になるのか、そういうコミュニケーションばかりになるのはすごく怖いことじゃないですか。裏を返せば、自分が不便な存在になったときには平気で切られる、ということなわけで、そういうことは絶対返ってきますからね。そこはメディアも共犯者だと思うし、損得とは関係のないところからの批評性も失われてきましたよね。
以前、灰野敬二さんがやってたサンヘドリンというバンドが『満場一致は無効』(2005年)というタイトルのアルバムを出してて、俺のなかにその言葉がすごく残ってるんです。それぐらい社会は危うい道を進んでいると思うし、『i ai』はそうした現状に対してすごく無防備な形で抗ってる。ただ、この映画はアートの映画ってわけではないんですよね。かといって青春映画って呼ぶには私的な表現も多いし……宣伝は苦労してると思います。
佐内:アート映画でも青春映画でもなくて、生きものみたいな映画なのかもしれない。大林さんの映画みたいにフレームに収まらないところがあって、意味がわからない。何この映画? っていう。それが上映されるっていうのは不思議なことですよ。
―佐内さんは映画という表現方法だからこそできることとは何だと思いますか。
佐内:映画って監督というリーダーがいるものじゃないですか。自分は普段少人数で撮影しているので、そこが違いますよね。集団でやる表現だからこそ生まれるものがあると思うし、映画のチームってひとつの社会だとも思うんですよ。俺もマヒトも社会性がないので……(笑)。
マヒト:何年か前に石岡瑛子さんの展覧会に行ったんですけど、石岡瑛子さんのインタビューが天の声みたいに流れてくるんですよ。そこで「自分の世界に閉じこもってできることをやってても、表現として飛べない」みたいなことを言っていて。
ちょうど映画を撮る前だったので、その言葉がとても印象に残ったんですよ。佐内さんが言うように、そのころ社会との関わりについて考えることが多くて。人とどう関わっていけばいいんだろう、誰かに手渡していくことでしかできない表現の形があるんじゃないか、そういうことを考えているときに石岡瑛子さんの言葉に触れたんですよ。
―自分の世界から踏み出し、社会や他者と関わりながらどのような表現を生み出すことができるのか。
マヒト:「いまの時代は最悪だよ」とか言おうと思えば簡単なんですけど、できることはまだまだある。それってすごい希望で、もうちょっと人間がんばろうかなという感じはしてますけどね。まだ希望はあるなって。
―試写会場で観ていて、やっぱり映画って特別な体験だなと思いました。今回の映画も見終わったあと、世界が変わったような感覚があったんですよ。
マヒト:映画ってイメージみたいなものがその人の身体のなかに入っていくわけじゃないですか。何日かしたらある程度薄まったりするけれど、確実に一度血管を通り、身体のなかに残留思念みたいな形で残っていく。それが後々何かしらのきっかけで花が咲くこともあると思うんですよ。この映画もそういうウイルス的なところがあるのかもしれないですよね。
やりたいけどね、次の映画も。あらゆる方向から時間というものに関わって、時間というものを超えたい。永遠を追い越したい。それは本気で思ってます。