Text by 後藤美波
Text by 鈴木みのり
クリストファー・ノーラン監督作『オッペンハイマー』が最多13部門でノミネートしている今年の『アカデミー賞』。昨年は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が最多7部門を受賞し席巻したが、今年はどうなるのか。ここでは作品賞や監督賞、俳優賞といった今年の主要部門ノミネート作を中心に、作家の鈴木みのりが、性的マイノリティの作り手による作品や関連テーマを描いた注目作を紹介。『落下の解剖学』『哀れなるものたち』『アメリカン・フィクション』『ナイアド ~その決意は海を越える~』など8作品を取り上げる。
2024年3月10日(アメリカ・西海岸時間)に、ロサンゼルスで授賞式が開催される『第96回アカデミー賞』。その候補のなかに、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーといった性的マイノリティである俳優、監督、脚本家や、関連するテーマ、キャラクターの作品がこれまで以上に並んでいる。
すでに『第76回カンヌ国際映画祭』で最高賞のパルムドールを受賞した『落下の解剖学』は、作品賞のほか、ジュスティーヌ・トリエが監督賞、ザンドラ・ヒュラーが主演女優賞、トリエとアルチュール・アラリが脚本賞など5部門にノミネートされている。宣伝ではあまり強調されていないが、本作に登場する、女性でバイセクシュアルで稼得者という、伝統的な家族規範に挑戦するようなキャラクターに注目したい。
『落下の解剖学』ポスタービジュアル © 2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma
舞台はフランスの僻地の雪山にある山荘。その自宅で、主人公のサンドラ(ザンドラ・ヒュラー)は大学生の女性からインタビューを受けていた。サンドラは著名な作家だった。そこに50セント“P.I.M.P.”のインストゥルメンタルが流れる。サンドラは、また別の機会にとインタビューを切り上げ、夫のサミュエルが流す大音量の音楽に居心地の悪そうな学生を帰らせた。
その後、ふたりの11歳の子ども・ダニエルが飼い犬のスヌープとともに散歩から戻ったとき、誰かが血を流し、雪の上に横たわっていた。それは落下したサミュエルで、サンドラが駆けつけたときには息絶えていた。
捜査の結果、検察によってサンドラは起訴される。検察からの激しい追及によって、サンドラとサミュエルの関係、それぞれの仕事、山荘に移住した経緯などが法廷で暴かれていく。
一家の内実、特に一枚岩ではない夫婦の関係やその葛藤というテーマは、これまでの映画作品にも見られた。しかし本作は、歴史、ニュースやメディアでの表象、研究分野として、消去されたり不可視化されたりする傾向のあるバイセクシュアルの存在を物語に挿入する。
バイセクシュアルである人は、異性愛か同性愛かどちらかを選ぶのが「当然」とされる規範において、あくまでもそのどちらかに至るまでのプロセスにいると見なされやすい。つまりその偏見は、決断ができず、煮え切らない存在にかれらを固定化する。個別のアイデンティティや実態には敬意が払われないのだ。場合によっては、バイセクシュアルというだけで反感を買うというケースも少なくない。性的指向を「異性愛か同性愛か」という二元に安定化しようとする傾向が、こうした不可視化や反感を生む背景にある。
また、バイセクシュアルはモノガミー(一対一で、恋愛や結婚といった性愛的なパートナーシップを結ぶとされる規範的な概念)ではないと見なされ、モノガミーのバイセクシュアルであったとしても、誠実さを疑われ、否定されたり攻撃されたりすることもある(もちろんポリアモリー;互いの合意のもと、複数の人々と性/愛的な関係性を築く人であっても、それを理由に否定されるいわれはないはず)。この映画においても、その「疑い」が、性的マイノリティのアイデンティティや経験と結びつけられ、法廷での「真実の追求」のドラマと絡み合っていく。
「落下」というモチーフは、同じく作家でありながら執筆がはかどらず、妻のほうが稼ぎが多いという状態にある夫のサミュエルが、アーティストとしても稼得者としても男性性という規範に縛られ、そこから降りられないという葛藤とも通じる。そして、だからこそ妻にもジェンダー規範を要求してしまうのだ。しかし、作中で言及される女性のバイセクシュアリティは、決して規範に対する「自由」「先進性」「自己実現」といったものの象徴などではない。
『落下の解剖学』の大きな舞台のひとつである法廷といえば、現実の法的な議論というもの自体が、ジェンダーを二元の「男/女」を規範とする考えに依存している。そうした現実と同様に、作中のバイセクシュアリティは、物語の背景にある社会や法廷においても、そもそも消去されがちだ。だからこそ、この作品の「疑惑のドラマ」というフォーマットにおいて、セクシュアリティが「法廷で明らかにされていく『真実』」の重要な一点として機能する。
『落下の解剖学』でザンドラ・ヒュラーが演じる主人公サンドラ。ヒュラーは本作で『アカデミー賞』主演女優賞候補になっているほか、もう1本の出演作『関心領域』も作品賞など5部門にノミネートしている © 2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma
ただし、一家・夫婦やその周囲との関係性の「真実の暴露」という物語構造のなかに位置づけられ、「謎解き」の一部としてバイセクシュアリティが扱われているように見える点には注意が必要だと思う。日常生活で疑念を向けられたり、それが痛みとなったりするような、バイセクシュアルや同性愛への偏見や差別意識が巣食う社会構造は作中でわかりやすく問われるわけではない。その作品構造は、家族の疑惑のドラマや死をめぐるサスペンスというストーリーが優先され、性的マイノリティへの抑圧を生む異性愛主義(やシスジェンダー規範)の問題は棚上げしているようにも思える。
さらにこの作品は、言語をめぐる「語りにくさ」というテーマを経由している点も興味深い。ドイツ出身のサンドラは事情があってそこを去って、ロンドンで出会った夫と、その出身地であるフランスに移住することになり、ドイツ語ではなく英語とフランス語を日常的に駆使し、周囲との関係性を築こうとしている。このようなサンドラの一面と対比したとき、作中で扱われる女性のバイセクシュアリティと性的な欲望や親密さの希求は、非言語的なコミュニケーション=セックスが言語の隔たりによる歯痒さに煩わされずに済む象徴として位置づけられているのだろう。
非規範的ゆえに語りを信頼されない、話が通じにくいという点で、クィアな女性という面と、第一言語ではない言葉でのコミュニケーションが必要とされる地での生活者という面で、サンドラのアイデンティティ、経験、感情は絡み合う。語る困難に直面する移民のクィアな女性、というテーマは無視できない。
同じく作品賞をはじめ、主演男優/女優賞、脚本賞など7部門で候補になっている、ブラッドリー・クーパー製作・監督・脚本・主演の『マエストロ:その音楽と愛と』でも、バイセクシュアリティの表象がある。
世界的指揮者・作曲家のレナード・バーンスタイン(ブラッドリー・クーパー)は男性とも女性とも恋愛関係を持ち、そのことに、俳優でピアニストの妻フェリシア・モンテアレグレ・コーン・バーンスタイン(キャリー・マリガン)は悩んでいた。アーティストであり、パートナー以外との性愛関係に関心を持ち、稼得者であるバイセクシュアルの人物が描かれる点は『落下の解剖学』にも通じるが、こちらに登場するのは男性だ。
より伝統的な男性性に紐づけられた点は、おそらくヘテロセクシュアルで、シスジェンダー男性のクーパーが演じているという点と響き合い、賞を狙った典型的な「難役」に過ぎないようにも思える。
『マエストロ:その音楽と愛と』は、世界的な指揮者・作曲家のレナード・バーンスタインとその妻で俳優・ピアニストのフェリシア・モンテアレグレ・コーン・バーンスタインの生涯を描いた作品。Netflixで独占配信中
(特に性別移行をした)トランスジェンダーのキャラクターはトランスである俳優が演じるのが妥当という議論とは異なり、性に関するアインデンティティや生活が主題ではない場合、必ずしも性的マイノリティとして生きてきた経験が演技を支える骨子になるとは限らない。だから個別の作品によっては、同性愛などマイノリティの性的指向だと公表していない、ヘテロセクシュアルだろう俳優が同性愛やバイセクシュアルである人物を演じても、異論を唱えにくい。『落下の解剖学』に登場するバイセクシュアルの女性のキャラクターを演じた俳優も、マイノリティのセクシュアリティは公表していないようだが、物語自体の核はバイセクシュアリティの探求や経験ではなく、その没入的な繊細な演技に非はないとわたしは思う。
実際にこれまでも多くの異性愛でシスジェンダーと思われる俳優が、クィアなキャラクターを演じて『アカデミー賞』にノミネートされてきた。一方で、同性愛やバイセクシュアリティといった、マイノリティである性的指向を公表した俳優たちが、演技の技術の問題とは関わりのない理由によって、配役における公平なアクセスを得られずにいる様子もうかがえる。その現状を考慮すると、エレガントで無骨ながら、軽やかというレナード・バーンスタイン像を体現したクーパーの演技には目をみはるものがあったものの、主演賞への候補入りについて、「クィアなキャラクターを演じた俳優がオスカーの候補になった」と喜ばしいニュースとして捉えていいものか、疑問が残る。
『マエストロ』の終盤の、バイセクシュアルゆえの孤独と祝福が入り混じるようなクラブのシーンには、クィアであるわたしにとって、自己を投影できるようなすばらしい瞬間があった。
ブラッドリー・クーパーやザンドラ・ヒュラーのほかに、主演・助演賞候補のうち、20人中7人がクィアなキャラクターを演じている。
『ラスティン:ワシントンの「あの日」を作った男』のコールマン・ドミンゴ(主演男優賞)、『ナイアド ~その決意は海を越える~』のアネット・ベニング(主演女優賞)とジョディ・フォスター(助演女優賞)、『哀れなるものたち』のエマ・ストーン(主演女優賞)、『アメリカン・フィクション』のスターリング・K・ブラウン(助演男優賞)だ。また、『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』で主演女優賞の受賞が有力視されているリリー・グラッドストーンは、代名詞を、sheとともにジェンダーニュートラルなtheyも使っていて、自身をLGBTQコミュニティの一員と位置づけている。
なかでも、ドミンゴはゲイを、フォスターはレズビアンを公表しており、さらにそれぞれ自身と同じ性的アイデンティティを持つキャラクターを演じている点には特に注目したい。
2013年、64歳で約180キロのフロリダ海峡を泳いで横断したダイアナ・ナイアドの伝記物である『ナイアド』で、トレーナーとして伴走したボニー・ストールを演じたフォスターは、子役からの60年近いキャリアにおいて5度オスカー候補になっている。意外にも、フォスターがクィアなキャラクターを演じてオスカーにノミネートされるのは、今回が初めてだ。
物語の骨子は歴史をなぞるため、その「挑戦」の結果は明らかで、決して挑発的な作品ではない。しかし、タイトルロールを演じたアネット・ベニング(かつて『キッズ・オールライト』でレズビアンカップルの一人で医師の女性を演じ、同賞の候補になったこともある)とフォスターの存在そのものには強く惹きつけられる。この映画を推進する力は、加齢にともなう「実現不可能だ」という固定観念を覆そうとする映画の挑戦の物語と、ハリウッドにおける若さという規範的な価値への挑戦と重なって見える点だ。クィアという視座と政治的な態度が、若さと紐づけられやすい健常性やルッキズムに抗ってきた歴史と呼応する。
アネット・ベニングが主演女優賞、ジョディ・フォスターが助演女優賞にノミネートしている『ナイアド ~その決意は海を越える~』。Netflixで独占配信中
フォスターの存在は、加齢するクィアな女性像を映画を通して見せ続けてくれているという点で、特筆すべきものがある。『ナイアド』の中盤には、虐げられた女性の物語が登場する。そのストーリーラインは唐突に思えるものの、かつて、性暴力被害の告発や(『告発の行方』)、年長の暴力的な男性からのコントロールと過去のトラウマとの対峙(『羊たちの沈黙』)といった物語を、非同性愛の役柄を通して見せ、2度のアカデミー主演女優賞を獲得したフォスターという役者が媒介となるとき、その意味が拡張される。
シスジェンダーでヘテロセクシュアルの女性だけに限らず、クィアな女性たちのなかにも性暴力被害や虐待を経験した人々がいる、ということを『ナイアド』は示す。非規範的な人々が何かに挑戦し、成果を上げようとするという本作のモチーフは、そうしたマイノリティ中のマイノリティであるクィアな人々を後押しする力になり得るのではないか。社会にないものとされ、虐げられてきた人々には、生きる価値が、何かを成し遂げたり、野心を掲げたりする価値があるのだと。
また、ナイアドとストールは、映画においてはあくまでもフロリダ海峡横断を達成するためのパートナーで、ふたりのロマンスが物語に織り込まれない点も魅力のひとつだ。もちろん、ふたりが白人である点や、貧困層ではないといった特権性が作中で相対化されない、という欠点はあるものの。
コールマン・ドミンゴがタイトルロールを演じた『ラスティン』は、アメリカの公民権運動の象徴的な出来事のひとつ、1963年のワシントン大行進の組織化を、有名な演説を行なったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアではなく、立役者だった黒人のゲイであるバイヤード・ラスティンに光を当てる。
この映画もあくまでも伝記物であるため、ストーリーテリングに驚きはないが、「歴史上の人物」が異性愛の占有物ではないと示している。キングやジョン・ルイスによって先導された1965年のセルマの行進を描いた『グローリー/明日への行進』のような物語に──同作の監督エイヴァ・デュヴァーネイが、史実を元にしたドラマ『ボクらを見る目』にトランスジェンダーの物語を編み込み、クィアな人々をブラック・アメリカンの反差別の歴史のあいだに位置付けたように──クィアなキャラクターが登場し、さらにメインキャラクターとしてリードする可視化の価値は大きい。
コールマン・ドミンゴが主演男優賞にノミネートされた『ラスティン:ワシントンの「あの日」を作った男』はNetflixで独占配信中。オープリンゲイ男性の俳優がゲイのキャラクターを演じて『アカデミー賞』候補に選出されるのは、史上2人目だという
ただし、抑制的で、機微を描く力のあるドミンゴの卓越した演技力を考慮すれば、人種主義に抗う大文字の物語にとどまらず、そこに存在したクィアな歴史上の人物がマイノリティとして生きた、生活や仕事のなかでの祝福と抑圧の経験を描き、いかにクィアネスを探求したかという関心をもっと見たかった。監督のジョージ・C・ウルフ(タイトルロールがレズビアン肯定する歌を歌う、2020年の作品『マ・レイニーのブラックボトム』も監督)自身も、ゲイを公表しているブラックの男性であるから、そう期待してしまう。
『ナイアド』にしろ、「偉人」でない人であっても、物語る価値があるはず。これらの映画の歴史の先に、クィアな人々の個々の関係、葛藤、感情といったこまごまとした生活の実態が描かれることを期待している。
『アメリカン・フィクション』は、ブラックの中年男性で、気難しい作家であるセロニアス・“モンク”・エリソン(ジェフリー・ライト)を主人公に、そのゲイである兄として、スターリング・K・ブラウン演じる形成外科医のクリフが登場する。
クリフは、男性とセックスしているところを妻に見つかったことをきっかけに離婚し、経済的な困窮に喘ぎながら、カジュアルなセックスをし、薬物を大量に摂取している。ブラックの人々についての月並みな表現のパロディが物語の大きなテーマのひとつであるのと同様に、クィアな男性に向けられるステレオタイプや偏見のパロディの器が、クリフのキャラクターだ。
亡き父親、アルツハイマー中期段階にある母親の介護の中心にいる姉をはじめ、医師家庭のなかで文学作家となったモンクは自分を異端だと認識している。一方、クリフにとって、モンクは父親と同じ異性愛主義の家父長制側にいる対照的な存在、という認識だ。ただし、先入観や固定観念を問うこの作品のテーマと通じて、モンクとクリフは決してわかりやすく「仲違いしている」わけではなく、関係性は解決せず葛藤が残るが、後味は爽快でもある。
『アメリカン・フィクション』は、残念ながら日本ではAmazon Prime Videoのみでの配信にとどまり、劇場公開はされていない。しかし、ブラック・アメリカンに対する無自覚な、偏見や差別意識はもちろん、時に良かれと思って抱かれるステレオタイプをめぐり、創作、出版、そして批評における白人中心的な価値観に則った支配構造への批判的なまなざしが骨子にある、観る意義のある良質なコメディだ。
作品賞、監督賞など今年度最多2位のノミネート数となった『哀れなるものたち』では、主人公ベラ(エマ・ストーン)に移植された脳の「性別」が問われることも明かされることもなく(そもそも近年は、「脳の性分化」というコンセプト自体が疑問視されている)、またベラを「誕生」させたゴッドウィンは去勢された存在であり、クィアな示唆が散見する。
劇中で旅に出るベラは、経済的な困窮から娼館で働くことになる。それは、構造的にそのような営みをしなければ貧困層のマイノリティ女性は学びや労働の機会が得られない、という実際の現代社会の写し鏡のように見える(新たに創造される前/後のベラの経済的な出身階層は裕福だろう点には留保が必要だが)。とりわけ性的マイノリティである人々のなかには、自身のセクシュアリティやジェンダーが否定されたり貶められたりすることから、就学や就労の困難があり、性売買に従事するケースも少なくない。またベラは、そこで出会ったブラックの女性のトワネットとセクシュアルな接触を持つ。トワネットがベラに紹介する社会主義が「正解」ではないとは思うものの、そうした女性たち(あるいは女性に見える人々)がコミュニティを形成するというストーリーラインは、バイ/パンセクシュアリティやレズビアンのキャラクター、異性愛主義的ではない家族像が視野にある重要な示唆だ。
『哀れなるものたち』は、最多13部門の『オッペンハイマー』に次ぐ11部門にノミネート ©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
作品賞、脚色賞などの候補にあがった『バービー』では、バービーもケンも、「男性器」も「女性器」も持たないとはっきりと示した。変てこバービー役のケイト・マッキノンがレズビアンを、医者バービー役のハリ・ネフがトランスジェンダー女性を公表しており、キャスティングからも、この映画がクィアな視座を創作に持ち込んでいるのはまちがいない。
長編アニメ映画賞の候補となった『ニモーナ』では、中世騎士団の寓話を模した物語の主人公のひとりに同性愛の属性を持たせ、その主人公と、タイトルロールである変化の化身ニモーナをバディにする。それ自体が作品がめぐる伝統の見直しというテーマと呼応する。また、ドラァグクイーンとして有名なル・ポールや、『POSE/ポーズ』でスターとなったトランスでノンバイナリーのインディア・ムーアといった、クィアな人々が声優として登場している。
『アカデミー賞』のノミネートや受賞のためには、映画を観てもらい、広報で呼びかけるといったキャンペーンが重要だと言われている。また、演技部門での「評価」では、実在の人物を演じたり、強烈な美化やモンスター化といった誇張がされたりすると、気に入られる傾向も根強い。
そもそも就労面でシスジェンダーで異性愛の俳優と比して機会を得にくいクィアな俳優や作家たちが、異性愛規範が強固な業界で仕事を続けるために、虚飾的でもあるとはいえ権威にあやかろうとする例もあるかもしれない。一方で、賞レースに迎合するのが俳優としてのキャリアにおいて、果たして望ましいのか?
ただ、賞レースの盛り上がりを通じて、作品が観客に届きやすくなるのは事実だ。月並みな話になってしまうけれど、そうしてクィアな物語、クィアな人々の映画業界での活躍が、それを必要とする観客に届き、少しずつでも規範への抵抗が広がっていく歴史の過渡期にあるのが今年の『アカデミー賞』なのかもしれない。