古典や漢文は人生の役に立たないのか、というテーマの論争は、ネット上で繰り返し起きている。直近だと2月、カンニング竹山が『ドーナツトーク』(TBS系)で「いまだ古典が役に立ったなと思ったことが1回もない」と発言したことをきっかけに盛り上がった。ただ、個人的には古典・漢文が役にたっていると思うし、日本語を使う仕事をしているなら、みんなそうではないのか。ためしに周囲にいるライターや編集者たちに聞いてみた(文:昼間たかし)
「勉強していたときは完全な無駄だと思っていたが……」
筆者は別に古典に詳しいわけではないのだが、それでも古典や漢文の知識が役立つ場面に何度も遭遇した。ライター稼業では、様々な人と会話をすることになるが、学校で習うレベルの古典文学は幅広い年代で「共通の話題」となってくれる。雑談をしているうちに『源氏物語』や平安時代に話題が及ぶことはあるし、たとえば相手が「源氏物語の末摘花のように~」などと説明してくれたとき「誰だっけ」だと困るのだ。
役立つのは、何も教養としてだけではない。とある編集者は「勉強していたときは完全な無駄だと思っていたが、古典や漢文の文法知識は日常生活で、意外と役立つ」と話す。
「古典の授業で学んだ文法知識が、現代文の読解、作成や翻訳にも応用できています。古典の授業で『まったく理解できない日本語』に立ち向かったことで、文法の重要さに気づけました。たとえば古典だと、二重敬語が使われていれば、主語が省略されていても動作主体が皇族だとわかりますよね。外国語でも何かが省略されているとき、文章の他のパーツを手がかりに解釈することがよくあるので、こういう手法が役立っています。あと、敬語を使うときも役立ちますよ」
さらに、あるライターからは、こんな話も。
「毎日、文章を書いているとどうしても自分の癖で書いてしまい、バリエーションがなくなってしまいます。他人の文章を参考にして工夫をするのは当然ですが、ちょっとだけ古典的な言い回しを取り入れたりするのも重要だと思っています」
しかし、古風な言い回しを探そうと『現代語古語類語辞典』(三省堂)をめくっても、古典の教養がまったくなければ、理解も活用も難しいだろう。
さらに、別の人からは、こんな意見もあった。
「いわゆる意識高い系の人は、“アテンドする”とか“エビデンスは?”とか、なにかとカタカナ語を使いたがりますよね。もし日本人が古典や漢文を捨ててしまっていたら、現代日本語は、そんな言葉ばかりになっていたかもしれません」
実際、今の日本語には、江戸時代以降に作られた「和製漢語」が数多く混じっている。
たとえば、「解剖、盲腸、軟骨、十二指腸、神経」といった言葉は江戸時代に、西洋から入ってきた医学用語を取り入れるときに、日本人が作った言葉だ。また、「酸素や窒素、水素」といった言葉も、オランダ語の文献をもとに江戸時代の日本人が考案したものだ。
明治時代になると、多くの知識が西洋から流れ込んできて、さらに多くの「和製漢語」が生まれた。文明、文化、観念、福祉、哲学、喜劇、郵便、美学、科学、野球、革命などは、いずれも明治時代に生まれた言葉である。「シビライゼーション」とか「ウェルフェア」は、元の英語を知らなければ意味不明だが、「文明」や「福祉」は、文や明、福や祉がもつそれぞれの漢字から、なんとなくその意味がつかめる。
日本語の表現がもとになった「和製漢語」もある。陳力衛・成城大学教授の論文『和製漢語と日本語』によれば、いまでは誰でも使っている「心配」は「心を配る」から生まれたし、「立腹」も「腹が立つ」という表現から考案された。同じように「おしはかる」が「推量」になり、「ひきゐる」が「引率」になり、「許しをめんずる」が「免許」になったという。
こうした表現は、当時の日本語を作り出していた人たちが古典や漢文の知識を共有していなければ、生まれなかっただろう。もし、当時の日本人が古典や漢文を学んでいなかったら、今頃は「サイエンスをラーンしてる」「ベースボールしようぜ」なんて会話する社会になっていたかもしれない。
ようは、普通に日本社会を生きて、日本語を使ってコミュニケーションをしているだけでも、知らず知らずのうちに古典・漢文の知識が活かされているのだ。そういった面も含めれば、「国語」として教えられていることにはそれなりの意義がありそうだ。つまり、日本社会のバイブスがいい意味でヤバいと思ってるなら、古典や漢文はマストハブなのだ。どうだろう、アグリーしてもらえるだろうか?