2024年02月15日 11:01 弁護士ドットコム
能登半島地震から間もなく1カ月半が経とうとしている。主要道路の被害が大きく、被災した現地に気軽にアクセスすることが難しいため、石川県ではボランティアなどの受け入れに対して慎重な姿勢を貫いているが、1月下旬から一般ボランティアの受け入れ可能な地域を徐々に拡大し、まだまだ人数に制限はあるが全国から人が集まりつつある。そんな中、発災直後から被災地の活動を支えているのは、DMAT(災害派遣医療チーム)などの専門スタッフや、全国の自治体から派遣された「行政マン」たちである。(フリーランス編集者・渡部真)
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総務省の「応急対策職員派遣制度」では、大規模災害などが起きた際、ただちに都道府県知事会と政令指定都市市長会を通じて、全国の市町村から多くの自治体職員が派遣されることとなっており、能登半島地震でも、早いケースでは発災2日後の1月3日から職員が派遣されている。
2011年に起きた東日本大震災の被災自治体からも職員たちが派遣され、避難所の運営や被害状況の調査などを担っている。
2月2日、石川県能登町の能登町立鵜川小学校に設置された避難所を訪れると、宮城県気仙沼市から派遣された市職員2人が避難所支援をおこなっていた。応急職員派遣制度で派遣された職員は、6日間ほど現地で業務を担い、次に派遣された職員たちに引き継いでいく。
派遣された職員が長期にわたることで負担が大きくならないよう、1クールを1週間程度に抑え、各自治体が交代して継続的な支援をしていく形だ。鵜川小学校の避難所に派遣された気仙沼市の職員もこの日が最終日で、宮城県山元町の職員への引き継ぎ作業をおこなっていた。
「少しでもお役に立てればと思って来ました。避難所に届く支援物資の受け入れや、その管理などをお手伝いしてきました。もっぱら力仕事ですね」
気仙沼市震災復興・企画部 地域づくり推進課の中村浩司係長は、物資の仕分け作業のやり方や、被災した地元の方に物資を配布する際の注意点などを山元町職員に伝えながら答えてくれた。
宮城県によると、同県からは1クールごとに合計で24人の自治体職員が派遣され、避難所支援、物資支援、家屋の被害認定調査などをおこなっている。2月5日現在、東日本大震災による津波被災地からも、気仙沼市と山元町のほか、仙台市、多賀城市、七ヶ浜町、松島市、石巻市、南三陸町などから派遣している。
同じく東日本大震災で津波被害の大きかった岩手県からも、1クールごとに県職員5人、市町村職員5人ずつ派遣されており、津波被災自治体の釜石市、山田町、陸前高田市、久慈市、野田村、普代村の職員たちが、家屋の被害認定調査などをおこなっている。
両県とも、このほかに各中央省庁からの依頼によって専門職員も派遣して、津波被災地に限らず、13年前の大規模な被災経験を活かした支援活動にあたっている。
中村さんと同じく鵜川小学校の避難所に派遣された気仙沼市地域協働係の齋藤孝成主事は、東日本大震災の発災当時、小学校5年生だった。
「自分も震災のときに避難所で生活していました。あのときも、食事から何から何まで、全国のご支援をいただいて元気をもらったんです。今度は、少しでも自分が能登町や被災されたみなさんに元気を届けられるように、1週間、お手伝いさせてもらいました」
能登町の被害の全容は今も不明だが、地震の影響で数多くの住宅が倒壊し、沿岸の一部には津波被害もある。
鵜川地区では地震による家屋の倒壊はあったものの、幸いなことに死者は出なかった。避難所の責任者、一谷正孝さんによると、東日本大震災のあと、津波ハザードマップの見直しがあり、津波による防災の意識は地域全体で高くなっていたという。東日本大震災の教訓が活かされた。
「数年前からですが、毎年1回、津波を想定した避難訓練をして、高台避難や避難所開設の訓練を繰り返してきたんですよ。だから、地震があって、地域のみなさんはすぐに高台に避難しました。(津波想定から外れている鵜川小学校の)避難所もすぐに開いて、みなさんを受け入れることができた」
前述した通り、能登半島の地形や道路の被災状況が影響して、この震災では復旧活動などで人手不足が生じている。2月に入りようやく一般の個人ボランティアの受け入れを開始した能登町でも、1日の受け入れ人数を数十人程度に制限しており、まだ十分に人手不足が解消したとは言えない状況だ。
東日本大震災の被災地からも、ボランティアに行こうという人たちからの問い合わせが、石川県や各自治体に届いているという。
一谷さんは「お陰様で全国からの支援もいただいて、物資は十分に届いています。こうして災害派遣で来てくれた人たちや、個人でボランティアに来てくれた人たちの手が、本当に助かってますよ」と感謝を口にした。
鵜川小学校で取材している間にも「私たちは、今日で活動期間が終わり、次のグループに引き継ぎますね」「お世話になりました」「こちらこそ、みなさんに元気をもらいました」といった会話が聞こえてくる。
「まだまだご苦労されることが多いと思いますが、我々がそうだったように、少しでも前進していくことを信じて復旧・復興を進めていってほしい」
中村さんはこう期待を込めて、気仙沼市へと戻って行った。