都市部に暮らす限り、逃れられないのが「隣人ガチャ」。騒音やマナーの悪さなども様々あるが、都内在住30代の男性は学生時代、隣家から漂ってくる「いい匂い」をめぐって忘れられない思い出があるという。いったい何があったのか話を聞いてみた。(取材・文:広中務)
初めての一人暮らしで取り組んだ自炊
地方から上京した男性が、学生時代を過ごしたのは、都内の西武線沿線の街だった。
初めての一人暮らしで、多くの人がぶち当たるのは「食事をどうするか」問題だが、男性もそうだった。
「最初は、自炊を頑張ろうと意気込んでいたんですが、無理でした。毎日、凝った料理をするのは面倒ですし、上手にできるわけもないから失敗することも多くて……」
当時は今のように、YouTubeに料理動画が大量にアップされている時代でもなかった。料理スキルがなくても再現可能な一人向けのレシピにたどり着くのは、かなり大変だっただろう。いまだと検索で一発だが。
それに加えて、狭いアパートではキッチンも広くないし、段取りをちゃんと考えて調理しなければならなくて、難易度は高めになる。1月ほど経つと、男性は次第に料理らしい料理をしなくなっていって……。
「炊飯器でご飯を炊く程度しかしなくなりました。主食は納豆ご飯。たまにコンビニ弁当や牛丼でアクセントをつけてました。当時は、お腹いっぱいになれば、なんでもよかったので」
そんな絵に描いたような侘びしい食生活を送っていた男子学生だったが、2年生になった春頃、その生活を脅かす、とんでもない「刺客」が現れた。それが隣家から漂ってくる「匂い」である。
換気扇が運んでくる、あまりにもいい匂い
「自分の住んでいた部屋は角部屋なんですが、片方の窓が隣のアパートの換気扇と猫の額ほどの隙間を挟んで向かい合っている形でした。なので、空き部屋だったところに、誰か入ったなというのは、物音とかでわかりました」
隣家の引っ越し自体は気にも留めなかった男性だったが、この新たな住人によって、男性の生活環境は大きく変わった。
「ご飯時になると換気扇が回って、料理の匂い。それも、めっちゃ美味しそうな匂いが漂ってくるようになったんです」
男性の住んでいたアパートは当時で築30年くらいの物件で、まあ風通しが良かった。匂いも隙間から入り込み放題だったそうだ。
「最初は味噌汁の匂いぐらいだったんですが、次第に様々な美味しそうな匂いがするようになったんです」
隣人も引っ越しの片付けが終わり、だんだん料理をする体制が整ってきたのだろう。ひもじい食生活を送っていた男性にとって、家庭的で美味しそうな料理の匂いというのは、何よりも強烈なものだった。
男性によれば「週に三度は美味しそうな匂いが漂ってきた」という。中華風、カレー、魚を焼く匂い。かすかに聞こえる炒める音とかも「とにかく、美味しそうだった」と男性はいう。いや、かなりきついだろ。
「質より量で、ご飯ばっかり食べる生活をしていたから、めっちゃ侘びしくなりましたよね。漫画みたいに窓を開けて匂いを嗅ぎながら、ご飯をかきこむというのもやってみましたけど……」
そのうち、男性は次第に好き勝手な妄想を膨らませてしまうようになったそうだ。
「こんなに丁寧に料理しているし、もしかしたら、家庭的なタイプの女性が住んでいるのかな、とか、想像をしてたんですよ」
若さとひもじさと人恋しさの複合技だ。ただ、膨らむ妄想の一方で、都心では隣人と交流するチャンスなんて生まれようもない。しばらくはやきもきする生活を送っていたが、そのうち隣人が男性だということが判明し、男性の恋は幻のままに潰えたのであった。チーン。
ちなみにその後、匂いで食欲を刺激される生活は、大学卒業までずっと続いたそうだ。