Text by 西田香織
Text by 鈴木みのり
Text by 生田綾
瀬尾まいこの同名小説を原作とした三宅唱監督の最新作『夜明けのすべて』が、2月9日から公開される。朝ドラ『カムカムエヴリバディ』で共演したSixTONESの松村北斗、上白石萌音が主演を務める本作では、重いPMS(月経前症候群)を抱える藤沢さんと、パニック障害を持つ山添くんが同じ職場で働きながら、次第にお互いのことを知り、つながっていく様子が描かれる。第74回ベルリン国際映画祭【フォーラム部門】に正式出品が決定し、世界からも注目を集めている。
三宅監督は「ふたりが魅力的で、そして恋愛で解決する話ではないのがいい」と企画当初から考えていたという。大きなドラマこそないが、観た人の心をたしかに揺さぶるこの作品に秘められたものとはなんなのか。作家の鈴木みのりが、三宅監督へのインタビューを通じて綴る。
©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
雨の降る駅前で、月に一度のPMS(月経前症候群)で苦しむひとりの女性の姿。主人公のひとり藤沢さん(上白石萌音)のモノローグから始まるこの映画は、ドラマティックに思える様子と比して、藤沢さんを演じる上白石さんの声と共通して、とても淡々としている。
大きなドラマは起こらない。事件もなければ、恋愛の揺れ動きや駆け引きもない。だけどまったく飽きない。それはとても人が魅力的だからだ、と観終えてから思った。
もうひとりの主人公・山添くん(松村北斗)はパニック障害を抱えている。藤沢さんも山添くんもーーこの映画の人々は、身近な誰かのように親しみが持てるから、こう敬称付きで呼びたくなるーー、それぞれ元いた会社を辞め、町工場のような「栗田科学」に勤めている。
このように、社会的に排除されやすいマイノリティである要素があれば、わかりやすい悲しみや喜びのドラマに仕立て上げられかねないところ、この映画はふたりや、ふたりと周囲の人々の交流、そして生活をただ描写していく。そういう映画だ。
2021年度後期の朝の連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』(NHK)で恋仲と夫婦を演じたふたりで、いまとても注目されている若手の俳優が主演と聞くと、もっと派手なドラマを期待する人もいるかもしれない。しかしこの映画は地味だ。だけどたしかに画面のなかで何かが起きている。
「電車に乗れず家と会社の往復しかできない人(山添くん)と、人に会っていろいろ動くのはどうしても躊躇してしまう人(藤沢さん)の世界なので、その時点で行動範囲が狭い。ただ、いままでの監督作品でもやってきたことですが、たとえば、ある人がフっと見る、振り返る、ただ手を伸ばすだけでも、さも大事件が起きたかのようにドキドキできたりワクワクできたりするのも映画の面白さだと思うんです。これまでの経験から学んだものを駆使しつつ、普段の生活なら見過ごしてしまいそうな小さな物語を、どうすれば映画体験として「新鮮かつめちゃ面白いもの」にできるか? というのは工夫しました」
三宅唱(みやけ しょう)
1984年7月18日生まれ、北海道出身。一橋大学社会学部卒業、映画美学校フィクションコ ース初等科修了。監督作『ケイコ 目を澄ませて』(2022)が第72回ベルリン国際映画祭エンカウンターズ部門に正式出品され、また第77回毎日映画コンクールで日本映画大賞・監督賞他5部門などを受賞した。その他の監督作に、映画『Playback』(2012)、『THE COCKPIT』(2015)、『きみの鳥はうたえる』(2018)などがある。
自然主義的に撮られた映画の密度は、抜け感があるのに気になる要素が常にあるが、それはハラハラドキドキするような緊張感ではない。
「若い男女の俳優が主演」イコール「恋愛もの」となる映画の企画があふれているなかで、この映画が一切そういう要素を含んでいないところに、わたしはとても安心感を覚えた。
公式インタビューで松村北斗さんが言及する、会社で山添くんが藤沢さんと居合わせた際に、ブランケットを貸すというシーンがある。松村さんは「あの状況に男女が二人でいてブランケットを貸すって、必要以上に親密に見えてしまうんじゃないか。二人の間に恋愛的な何かを感じさせてはいけないし、山添くんの優しさみたいなのが出過ぎてもよくないし……」と語っているが、まさに、ロマンティックに見えるのをわざと避けてる、とも思えないほど、自然な振る舞いとして映っている。
「『恋愛未満』とか『恋愛以前』っていう関係や状態として捉えたいとまったく思ってなかったんです。避けるとも違って、普段の自分たちの生活で当たり前にあるように、性別に縛られないただの人間同士のやりとりを撮りたい。でも、口で言うのは簡単だけど、実際にそう見せるのは難しいかもと思っていたら、このふたり(上白石と松村)それぞれがしてきた役づくりや関係性づくりが、かなり足腰強くされていて、なんの心配もなかったですね。
物を渡すって、日々なんの意識もせずにやっていると思うんです。フィクションの中だと、つい前後のつながりから意味を持ってしまいがちだけど。うん、そうですね。あんまりそういうことを深く考えずに素直にやった。ふたりだからこそできるなにか……『空気』っていう言葉じゃない表現を使いたいですけど、そこにいるふたりを素直に撮りたいと思っていました。素直というか、二人がまさに前後なんか関係なく、つまり裏の気持ちや他の目的なんかなく、渡す必要があるから渡す、そういう気持ちよさがあったんだと思います」
予告編でも使われている、山添くんの家に藤沢さんが行ってふたりで話している様子も、本当に友達でしかないというか、性愛のニュアンスがなかった。
「男女の友情が成立するか? っていう、ま、どうでもいい話をする人がよくいますよね」
「うん」
「それって相手によるし、答えなんてないんで、僕はどうでもいいと思うんですよ」
「うん」
藤沢さんとこう話す山添くん(演じる松村さん)の関係性のつくり方には、対・藤沢さんに限らず、ただ隣にいる人に気遣うというトーンがある。性愛の感情が、欲望が、金銭的な利害関係があるから人に優しくする、ではなく、他意がないように見える。そのたたずまいにわたしは安心したのだろう。応じる藤沢さんの、どこか抜けた人物像をつくりあげた上白石さんも魅力的だ。
この人たちの一挙手一投足が気になる。画面のなかで生きているということ自体に関心が持て、気になって続きをずっと見ていたくなる。それはほかのキャラクターにも通じる。
「シナリオをつくっていくときに、これは藤沢さんと山添くんが中心の話なわけですけど、ふたりがどういう社会に生きてるか? ということをまず確認したんですね。この作品は社会の居場所の話でもあるので、人間関係図を大きく書いてみました。小説で登場する全員、例えば医者の存在なども同じサイズで等しく書いていって、あとは小説に直接出てこなくても『学校にはこういう友達がいそう』とか『この場所に行ったならこういう人に出会ってそう』とかを考えたりもして。小説にも、結局映画にも出てこない人もその図の中にはいて。
『こういう人がいるとその社会のある側面がより見える手がかりになる』、というのがありますよね。それで、かれらよりもっと若い世代を描くべきだろうと思ったから、(原作にはないけど)いてもおかしくないだろうということで、中学生の二人組が登場しました。
そういったオリジナルの、たまたま小説では浮上してこないだけでそこにいたんじゃないかと思う存在をつくりながら、真ん中にいる二人のことがよくわかっていった手応えもあります。これは映画化した人間のだいぶ勝手な言い分だと思うんですけど」
この映画は、仕事の現場が活き活きと見えるところも魅力的だった。映画オリジナルの中学生2人のキャラクターが出てきて、社員たちにインタビューするという構造が入ったことで、会社の様子がより観客側に伝わりやすくなった。外部の目として、観客側と映画の接点としても機能している。
「藤沢さんには『自分をどう見られたいか/見られたくないか』っていう葛藤が、山添くんには居場所探しが、主人公それぞれがどういう人間関係や社会のなかでそうなるのかが見えてくると思ったんですね。そうすると『何が問題になってるのか?』っていう問いが浮かび上がってきますよね。
山添くんは、拠りどころにしていた『ヨット部で活躍していて、立派な会社に行った』っていうところから、剥がされてしまった。ある種のエリートだった人間が、パニック障害でうまく働けなくなった。これまでの彼のセルフイメージを支えたものは、無自覚にというか特権的に持っていた男性性に支えられているし、彼の属していた社会階層はそれが強いから、周囲に理解してもらえそうにもない。そこから降りるのはつらいですよね。そこでもがこうとしてる、っていう像は小説に内在していたものです。僕自身も、『悩む』と言うとちょっと微妙な言い方なんですけど、彼の葛藤はわかりますよね。『男らしさ』を丁寧に問い直すような書籍などにも、色々とヒントをもらっていました」
山添くんの自宅にはエアロバイクがある。その小道具は、前半では「自分は何者かになれる」という山添くん像の象徴になっているとわたしには思えた。そしてその小道具は、あるとき登場する自転車という小道具と呼応して、後半からはその意味合いが変わってくる。
あるモチーフのイメージが映画の流れ、物語の中で変わっていくことで、こんなふうにまとめてしまうのは抵抗があるが、男性中心的な働き方から下りる象徴になっている。そういう物語は、メジャーな邦画ではじつはまだあまりない表現だ。
「この物語は、かれらの見えない内面だけではなくて、それこそ、ブランケットを渡すみたいな小さなことでもアクションするのをやめない、試行錯誤する人たちだから魅力的なんだというところを表現しようとしたんですよね。それと同時に、二人を見守る周りの人の存在、彼らが二人がどう見ているのかっていうアクションも重要になってくる」
序盤、ある会社でのシーンで藤沢さんは苛立つ。そのときの上白石さんの演技は、顔の微細な動きや佇まいを通して、後ろで起きている、イライラの原因になっているだろう出来事への、人の言動への関心の気配を画面に焼き付けている。その奥には同僚の平西さん(足立智充)がいて、取り乱した藤沢さんへの戸惑いと気遣いの微妙な心理がうかがえる。ささやかなショットだが、とても印象的だった。
またもうひとつ好きな社内のシーンがある。仕事の話をしている藤沢さんと山添くんが仕事の話をしており、社長の栗田(光石研)が同じ画面の隅に映り込んでいる様子だ。栗田がふたりにかすかに意識を払っているのがうかがえ、ちゃんと見てくれてる、と思えるのがわたしは好きだった。
「そういう『見守る』みたいな描写を、単独で寄って撮らずに同じ空間のなかで成立させる演出は、やってて楽しかったですね。栗田や、住川さん(久保田磨希)らほかの従業員があのふたりの会話をどう見てどう聞いてるのか、どう同じ場にいるのかっていうのは、シナリオに書けないレベルなので、撮影現場に入ってその空間でいっしょに立ち上げなきゃいけない。オフィスでふたりがどこに座ってて、どこに社長がいたらいちばん良いか? っていうことを考えるのは、悩みました。
僕がやろうとしたのは、小さな仕草とか、あるいは立ち位置とか座り位置を決定したり、雰囲気をつくったりです。ただ、今回はあんまり作為みたいなものが見えないようにしたかった。松村くんも言ってたんですが、これは『見せびらかす映画』じゃない。そのあたりはこの映画のテーマにも関わる点なので、いろんなものをお客さんが自然と発見してもらいたいですね。だから『たまたま撮ったら映ったんだ』って言いたい(笑)」
わたしは、男性的な働き方が中心になっている日本社会において、この映画が捉える人々のゆるやかな変化や関係の築き方は、非常に重要だと思った。公式パンフレットのインタビューで三宅さんが「働くことについての物語だといっても、現実的に解決すべき社会構造を批判すること等に映画の目的をすり替えずに、医学的にも解決が困難なレベルの不条理に直面しながらも人が共に過ごすときの歓びや愉しみを表現することこそが、この映画をみる面白さの根幹になると考えました」と言っているように、異なる人々が共に過ごす時間が光っている。
三宅さんに尋ねたところ「性別で狙ったわけじゃない」という答えだったが、女性のキャラクターたちがグッと踏み込んだ発言や選択をする、とわたしの目には見えた点も印象に残った。仕事のキャリア、育児、介護、遺族会、マッチングアプリ、ヨガクラスといったキーワードや場面が散りばめられ、それらは物語のなかでも解決するわけではないし、観客側に気づきやヒントを与えるということでもないが、ただ存在している、ただ話されるということの力強さがたしかにあった。
藤沢さんの友人・岩田真奈美(藤間爽子)
「一般的に、男性たちって『女の人たちってヨガやってんな~』ぐらいは知ってるけど、その理由まで考えるってことは少ないと思う。でもヨガの教室には、みんなそれぞれ目的は違うでしょうけど、何とかよりよく生きようとしてるっていう思いで集まってる。1つの場所には、目には見えないいろいろな物語があるのが楽しいなと思ってるし、そういうものを描きたいんです。
今回は、いままで自分が撮ってきた映画のなかでは一番登場人物が出て、同時に仕事をする俳優がいちばん多いんです。だから、画面内に同時に多くの人がいるのをどう楽しむか? っていうモチベーションはありました。
あとこの映画は、ざっくり言えば、世の中いろんな人がいて人それぞれ全然違うよね、っていう映画でもあるんですよね。例えばPMSがあって、パニック障害があって、そういう医学的な名前が与えられたからこそ救われる人もいるけど、症状や、悩みや生きづらさは人それぞれ全然違う。原因もトリガーも、付き合ってる年数も全然違う。瀬尾さんが書いた小説は、いろんな人がいるなかで世の中ができてるよねっていう、一見地味に思えるかもしれないけれどめちゃくちゃ広くて大きい社会を捉えようとしている。タイトルに『すべて』って書いてありますし! いろんな意味で広がりが感じられるような、大きな映画にしたいなと思ってました。
じつはロケーションの数も意外と多くて。いろんな人が出てくる、いろんな場所が出てくる、そこにいろいろな物語があるっていう」
場所といえば、藤沢さんと山添くんが勤める栗田科学の会社は、この映画の魅力を支えている立役者のひとつだとわたしは思う。
その空間は、室内の場所のバリエーションだけでなく、同じ部屋を同じような構図で撮っていても、外の光の入り方でかなり変わって見えた。場面場面で表情が変わり、最後まで宇宙のように存在してくれている。
藤沢さんたちが働く栗田科学の外観
「あのロケーションは、制作部がいろいろ探したなかでおもしろい物件に出会えた。会社という空間を撮るのが主人公ふたりと同じぐらい重要なことだったので、少しも妥協したくないなと思っていたので、幸運でしたね。あの空間を最大限生かすような制作部や美術部の働きがあって、この映画にとって本当に大切な場所になったなと思います。
僕らの意識の外には天気だとかコントロールできないものがあるし、体の内側にもコントロールできないものがある。その状態の変化によって、同じものも違って見えるよねっていうのは、『すべて』を撮ってくために必要なことなわけですよね。PMSが出てるときと出てないときという、全然違うかたちを見せることではじめて藤沢さんって人の『すべて』を想像できていくように、街も会社も、朝と夕方と夜では形が全然変わってくる。そういう作品のテーマに引っ張られて、いろんな光の環境の場所を取る必要があった。タイトルが持ってるテーマから具体化していった、ひとつの象徴があの会社だと思います」
この映画のなかには、夜の星や夜景といった、「夜」といえば連想される光だけでなく、さまざまな光がささやかに灯っているのも印象的だった。じつはあまり暗いシーンがなく、もちろん夜は昼より暗いが、どんな時でも映画全体につねに明るさがあると感じられた。
「コロナ禍のときは街が暗くなった時期もありましたよね? 2011年もそうでした。夜景って、そこで働いてる人、生活する人がいるから光ってると思うと、見え方が変わる。それから、星空に気づいた時に、こんな星あんの!? 宇宙ってこんな広いの!? ってあまりにも圧倒される感じもありますよね。俺らのこのちっぽけさなに? って感じることで絶望することも救われることもあるし。そういうのを、なんだろうな、信じがたいような広がりや大きさも捉えたいし、逆にものすごいミクロなサイズ、夜景の1つでしかない家の光も、等しく捉えたいなと思ってつくりました。にしても、今回の映画は、こういうぼくの作為について話すとつまらなくなるかもしれないから本当はこういうインタビューでもあんまり喋らずに、って思ってるんですけどね。だから全部忘れて映画を見て、自由に発見してほしい(笑)」