Text by 山口こすも
Text by 生駒奨
Text by 白鳥菜都
柔らかく、誠実な光を感じさせる短歌が102首。
歌人・伊藤紺の第3歌集『気がする朝』(ナナロク社)が刊行された。掲載歌のうち、半分以上が今作のための書き下ろし作品だ。2022年以降につくられた短歌が多く、伊藤の「いま」を映し出す歌集となった。
「短歌ブーム」が謳われて久しい2024年、伊藤は自身の作風とともに短歌を「ブーム」から「シーン」へと押し上げようとしているように見える。自身にとっても、短歌界全体にとっても重要作となるであろう『気がする朝』について、伊藤の声を記録すべくインタビューを敢行した。
─最新作『気がする朝』の出版おめでとうございます。今作は、どんなきっかけでつくられた本ですか?
伊藤:これまでわたしが出した歌集2冊は、どちらも自分一人で内容を決めたものでした。「つぎに歌集をつくるなら編集さんと一緒にやりたい」と考えていて、ナナロク社さんに自分から持ち込んだんです。
伊藤紺(いとう こん)
歌人。1993年東京都生まれ。著書に歌集『気がする朝』(ナナロク社)、『肌に流れる透明な気持ち』、『満ちる腕』(ともに短歌研究社)など。デザイナー・脇田あすかとの展示作品『Relay』ほか、NEWoMan新宿での特別展示、俳優・萌歌の写真展『かぜとわたしはうつろう』への短歌提供など活躍の場を広げる。
伊藤:一般的に歌集は歌の内容まで編集さんが手を入れてくれることってあまりないんです。でも、ナナロク社の村井さん(※)は、歌とじっくり向き合ってくださりそうな印象があって、ご相談しました。
結果として、今作をつくったことでやっと歌人としてのスタート地点に立てたような気がしています。初めて編集さんと一緒につくって、時間をかけてまとめて。歌集を出すのは3冊目ですが、これが第一歌集のような気持ちもどこかにあります。クオリティ面でももちろん、いままでで一番良いものができたと思っています。
―村井さんとのやりとりで印象的だったことはありますか?
伊藤:歌の並びを決める際に勉強になることが多かったですね。たとえば、<長い長い人生のおみやげにあなたと青春してみたかった>という歌があるのですが、村井さんが「これは恋愛の歌がまとまっているページじゃない位置に入れたほうがいい」って言ってくれて。おじいちゃんやひいおじいちゃんについて書いた歌をまとめたページの近くに入れたのですが、位置によって全然読後感が変わるなと思いました。
あとは、あとがきについてのやりとりも面白かったです。じつはあとがきとして提出した原稿が2回ボツになっているんですよ。あとがきってボツになることあるんだと思いました(笑)。でも、村井さんが、「生活の中、たとえば暮らしているワンルームの部屋にも朝がくる。そのなんとも言えない予感に満ちたものがこの歌集には漂っていて、そのことの小さな案内板としてのあとがきが良い」と言ってくださって、いまのものになりました。あらためて読むと、最初に自分が書いたものにならなくて本当に良かったなと思います。
─『気がする朝』というタイトルにはどんな想いが込められていますか?
伊藤:このタイトルは<この人じゃないけどべつにどの人でもないような気がしている朝だ>という歌からとりました。じつはギリギリまでタイトルが決まらなくて。村井さんが「タイトルは向こうからやってくるので、大きく構えて待ってましょう」と言ってくれて、安心して放っておいたら全然やってこなくて(笑)。もうひとつ別案もいただいていたのですが、「それよりは、これだな」と思い切って決めました。
当初は少し弱いような気がして「これでいいのかな」という思いもありましたが、時間が経つにつれ、このタイトルの良さを実感できるようになってきて。いまではお気に入りのタイトルです。明るい予感もするけれど、不穏な感じもする。何が起こるかわからないけれど、大切なのは「いま、その気がしていること」かなと思って、最終的にはこのタイトル以外ないなと思えるくらいしっくりきています。
─装丁のデザインも、優しいイエローに光のような線が入っていて素敵ですね。前作に続き、デザイナーの脇田あすかさんが装丁を担当されたそうですね。
歌集『気がする朝』。ブックデザインはアートディレクター・デザイナーの脇田あすかが担当した。脇田は伊藤の過去作『肌に流れる透明な気持ち』『満ちる腕』(いずれも短歌研究社)も手がけている。
伊藤:そうなんです。でもナナロク社さんでは、作家は装丁に関わらないというのがルールで、わたしはまったく脇田さんとはお話していないんですよ。それなのに、こんなにぴったりのイメージで出来上がってきたので、脇田さんと村井さんは天才だと思いました。
このイエローは、サターンイエローという蛍光インクに白インクを混ぜた特色です。毎回その特色を職人さんが調合してつくってくださるので、重版していくと色が微妙にゆらぐ可能性もあるようです。
─歌集の中身や個別の歌について聞かせてください。まず、全体を通して共通するテーマはあるのでしょうか?
伊藤:明確にテーマというものは考えませんでした。でも、共通点を挙げるとしたら、全部自分の本心100%で書けたことだと思います。
これまでもわたしは感情について歌を書いてきたのですが、感情には2パターンがあるなと考えています。ひとつはどこから来たのかもわからず湧いてくる本当の感情。もうひとつは本当の感情をちゃんと自分で理解できていないときに出てくる副作用のような感情。たとえば、本当はただの嫉妬なのに、いつの間にか意味もなく相手を憎しんでいたりする。その憎しみで歌を書いても実際にはそこまで憎しみをもっていないので、良い歌にはならないんです。
本当の感情は、たとえどんなにくだらなく思える色恋の嫉妬であっても、海や山や自然のように奥深くて、良い歌に繋がります。いままで、このふたつの感情が自分のなかで区別がついていなくて、過去作を見ると「これって本当に思ってたことかな?」と感じることもあって。その点、『気がする朝』は100%本当の感情だけで書けたと思っています。
─本当の感情かどうかはどうやって見分けるのですか?
伊藤:250首くらいあったなかから選んだので、比べながら見分けることができたんだと思います。省いた歌に多かったのは、ちょっとベタベタとした歌。
たまに、「伊藤さんは恋愛の歌人」と言われることがあって。確かにこれまで恋愛の歌をたくさん書いてきましたし、「君」や「あなた」という言葉が入っていて恋愛の歌に見えるものも多いんですよね。でも、恋愛の歌ってメンタルが良好ではないときに生まれてくると、副作用の感情が入ってベタベタしちゃうことが多いので、今回はあまり入れなかったんです。
それに、「恋愛の歌人」と言われることに自分ではあまりしっくりきていなくて。これは最近気づいたんですけど、わたしが歌を書くにあたって大事なのは、恋愛かどうかに限らず「切実さ」があることなんですよね。
誰かにとっては些細なことでも、自分にとって大きくて大切な感情。もう少し若いときは、恋愛のなかに切実さがいっぱいあったのかもしれないけれど、ここ1年くらいは別のところに切実さを感じることが増えました。結果的に、恋愛以外の歌の割合が多くなったのかもしれません。
─確かに、今作は恋愛ではない歌、たとえば人生や死を感じさせる歌が多い印象も受けました。
伊藤:本の制作期間に入って1か月後ぐらいに、おじいちゃんが亡くなったんです。91歳まで生きて、天寿を全うしたので、悲しいけれど綺麗な気持ちを同時にもらった感じがして、そのときにたくさん歌を書いたんですよね。それらの歌の多くは48ページから60ページに載っていて、わたしと村井さんは「旅行編」と呼んでいます。いつもとはちょっと違う新鮮な気持ちで書けた歌が多くて思い入れがありますね。
とくに気に入っているのが<複雑な星に見惚れているうちに100年程度の人生の終わり>という歌。おじいちゃんは大学で英仏文学を学んで、辞書の編集者をやっていた人でした。2020年ごろから「また学ぶぞ」と語学の本を読み始めたそうで。10代から学んで、仕事にもして、まだ勉強したいということに驚き、尊敬しました。
歌の冒頭にある「複雑な星」は、おじいちゃんにとっての英語や言語をイメージしました。自分も短歌や言葉のような「複雑な星」に見惚れているうちに死ねたらいいなという想いが、この歌になったんです。
─なるほど。「旅行編」以外にもおじいちゃん・ひいおじいちゃんの歌が出てくるので印象的だったのですが、そんな出来事があったのですね。そのほかに、<ほとんどの願いは別のかたちで叶いほとんどの人はそれで幸せ>のような、願いや祈りのような歌も多いように感じました。
伊藤:そうですね。<したいことたくさんあるけどわたしって「したいね」「したいね」でいいみたい>という歌も近いかもしれません。
挙げてくださった<ほとんどの願いは別のかたちで叶いほとんどの人はそれで幸せ>は、自分も含め、別のかたちでは叶いようのない願いを持っている人への慰めを込めてつくりました。「願い」って、実体を掴むのが意外と難しい。たとえば「バンドで売れたい」「コピーライターになりたい」という願いには、良い作品をつくりたい、有名になりたい、イケてる仕事をしたい、金銭面での心配を捨てたい、メンタルの安定を確保したいという願いが混合している場合があると思います。それをうまく分解して、バンドで売れなくてもコピーライターにならなくても、就職したり結婚したりして幸せに暮らしている人って周りにたくさんいて。それは素敵なことですよね。
ただ、そうではなくて「自分にとって最高の作品をつくりたい」とか「自分の活動を長く続けていきたい」というこれ以上分解できない願いに出合った人は、別のかたちでは幸せになり得ない。その願いのために頑張っている周りの人や自分を思い、慰めとして書いた歌です。
─そのほかに、伊藤さんご自身が『気がする朝』のなかでとくにお気に入りの歌はありますか?
伊藤:全部気に入っているのですが、あえて挙げるとしたら、巻頭歌<このところ鏡に出会うたびそっと髪の長さに満足してる>と巻末歌<扇風機の前に座って今日きみにほめられたこと思い出してる>ですかね。
伊藤:この入りと終わりはすごく気に入っていて。いわゆる「人生」とか「必ず」とか強い言葉が出てくる歌ではなくて、かなり「何気ないもの」を、最初と最後に選びました。もちろん、自分にとっては大きな出来事なんですけどね。
こういうことって、よく「日常のなかの些細な出来事」のように言われるけれど、わたしにとって紛れもない真実だし、心が動く大きなことです。
一般的に、短歌は大きすぎること、多くの人が共通して抱える感情やできごとを書くとあまり良い歌にならないと言われます。個人的でささやかな出来事を扱ったほうが良いと。でも、わたしはちょっと変なのか、自分にとってものすごく大きくてどうしようもできないくらいの感情を書いているのに、他人にとってそれはちっぽけなこと、ということがよくあります。だから、この感覚のずれがちょうどよくて、わたしは短歌に向いているのかなと思います(笑)。
─なるほど。日常で感じる「切実さ」や「本当の感情」を、伊藤さんのフィルターを通して素直に描くことが、「伊藤さんらしい短歌」につながっているのですね。普段の生活以外で、インスピレーションの源にしているものはありますか?
伊藤:最近は仲宗根幸市さんの『南海の歌と民俗ー沖縄民謡へのいざないー』(おきなわ文庫)という本に影響を受けました。沖縄の島々にある民謡の歌詞や背景を紹介した本です。民謡ってある地域で自然発生的に生まれた歌ですよね。みんなのなかに広がる同じ気持ちを、誰かが突然歌にしたことで、さらに広がり、何年も何年も続いていく。そこには短歌で大切にしたいものと近いものがあるように感じています。
みんなと同じ気持ちを歌いたいということではないのですが、民謡は過酷な労働環境や格差、別れ、悲しみなど、そういったもののなかで生まれる「切実さ」を歌い継いでいるものだと思います。だから、民謡を聞くと、「ああ、そうか、歌ってこれが起源だった」とシンプルな自分に戻ってこられるような感覚があります。わたしは「自分の短歌は詩ではない」と考えているので、よりそう感じるのかもしれません。
─短歌と詩の違いはどういうところに強く感じられるのでしょうか?
伊藤:基本的に詩とは、それまでは言い表せなかった、あるいは言い表そうとも思わなかったものごとを、言葉で突破していく表現だと考えています。たとえば「温かい家庭」という言葉も、いまでは普通だけれど「家庭」に対して温度を表す形容詞をつけるのは本来普通じゃない。
短歌も広義には詩なので、「新しい表現を見つけてくる」という側面も大いにあります。たとえば歌人の木下龍也さんは「きらきら光る」という使い古された表現で7音も使ってしまうのはもったいない、どうせなら聞いたことがない表現にしよう(*1)というようなことをおっしゃっています。それはわたしも初心者の方の歌を見せていただくとすごく思いますね。
ただ、韻律が決まっている短歌は「歌の力」を借りることができて、それが詩との違いだと思います。メロディも声もないけれど、57577という名作の型のなかで、言葉がひとつの歌になる瞬間があって、そうすると必ずしも新しいことを言わなくてもいい。言葉とリズム、音程がぴったりと唯一無二のかたちで切実に寄り添うとき、言葉が辞書的な意味から解放されて、自由に鳴り出します。
もちろん詩にもリズムや音があるので、似たような働きはありますが、短歌のそれはすごくわかりやすく、どんな短歌にも感じられるものだと思います。
─最後に、伊藤さんの今後の展望や目標を教えてください。
伊藤:本が出たばかりで、まだ全然具体的には考えられていません。でも、いちばんはこの先も短歌を続けていくことです。わたしはいま、短歌をやめたら何も残っていないんですよ。エッセイとか書けたらいいんですけど、まだ全然上手く書けなくて。だから、とにかく短歌で良いものをつくりたいですね。
短歌は、世間的にも少しずつ広がってきて、いまが踏ん張りどころな気がしています。今後も歌人がそれぞれ本当につくりたいものをつくっていけたら、もっと良くなっていくんじゃないかと思います。
今作をきっかけに、これまでになかったようなご依頼もちょこちょこいただいていて、とても嬉しく思っています。2024年、どんな暮らしになっちゃうんだろうと不安はありつつも歌人としての腕を磨き続けていきたいです。