「生活保護費1日1000円」や「ハンコ1944本」などの衝撃的な事実が次々に明らかになっている、群馬県桐生市の生活保護行政。桐生市の生活保護率は2011年をピークに異常としか思えないほどにその数を減らし、却下・取下げ件数の多さも注目されている。果たして、なにがあるのか。生活困窮者の支援活動を行う『つくろい東京ファンド』の小林美穂子氏が語る。
「生活保護費1日1000円」「生活保護費全額不支給」「DV被害者に保護決定後も不支給」「ハンコ無断押印」「預かったハンコ1944本」などなど、叩けばきりなくホコリが出てくる群馬県桐生市の生活保護にまつわるすさまじい実態は、その後もとどまることを知らない。
最近では業務委託をしていない民間団体に受給者の金銭管理を委託し、若い受給者に長期間2週間14,000円のみ支給していたケースも発覚した。
あまりに前代未聞な桐生市福祉課の不適切・違法対応は、世間に衝撃を与え続けている。
これらの問題に対し、桐生市は昨年12月27日に市職員で構成される「内部調査チーム」を設置。3か月に渡って不適切・違法対応を調査する予定だ。そして2024年1月には第三者委員会を設置すると記者会見で述べた。第三者委員会から調査依頼があれば、同チームが調査して報告するとのことだが、内部チームによる調査で果たして事実が明らかになるのだろうか。
昨年11月に「生活保護費一日千円」の報道が出たあとに、筆者が書いた記事(【独自】「支給額は1日1000円」は、まるで嫌がらせ!生活保護は罰なのか? 憲法・生活保護法を無視した運用を重ねる群馬県桐生市の深い闇)を読んで、「救われた思いです」と連絡をくれた桐生市在住の方からお話を伺うことができた。
父は改造した石油ストーブで米を炊いていた
めぐみさん(仮名)が父親の異変に気付いたのは2015年、今から9年前の夏のことである。市営住宅で一人暮らしをしていた父親が生活困窮してしまい、心配したご近所さんが福祉事務所に連絡。その後、父親も単独で福祉事務所に相談に行った。
そんなある日、結婚して出産、育児の真っ最中だっためぐみさんに、福祉事務所から電話がかかってくる。
「お父さんが電話もライフラインも止められて生命の危機です。一度見に行ってください」
めぐみさんが父の住む市営住宅を訪ねると、ライフラインはすべて止まっていた。その部屋で父親は石油ストーブの燃焼筒を取り外し、そこに外から拾ってきた木屑を入れ、マッチで火をつけて米を炊いていた。
乳幼児を抱えて働けず、結婚したばかりの夫の収入も家族三人が暮らすだけで精一杯だったため、めぐみさんが桐生市市役所の福祉課に電話をかけ、父親の状況を説明すると、対応した職員は「家族で支え合え」「実家があるなら実家に戻れ」の一点張り。
父親はついに市営住宅の家賃を払えなくなり、部屋を引き払い、叔母(父の妹)が住む実家に引っ越すことになった。
ところが、兄妹は昔から関係が良くなかったため、父は妹が暮らす母屋に入ることができず、隣接した廃工場に住むことになった。そこには窓もなく、お風呂もなく、トイレも汲み取り式で、古すぎて汲み取り車も来ない。当然エアコンもないその廃工場で、父親は椅子を並べてその上で寝ていた。桐生の夏は過酷だ。
その劣悪な生活環境を保護課の職員は見ているが、それでも生活保護の申請には至らない。この頃、めぐみさんは町で偶然見かけた父親が、路上生活者のような姿になっていることにショックを受けている。
生活保護の申請書をください!
父親の体調は悪化の一途を辿っていたが、保険証を持っていなかった。そこで、めぐみさんは無料低額診療を受け付ける病院に父親を連れて行き、検査を受けさせている。検査の結果、心不全を起こしていること、過去に外科手術をした足が二次感染を起こしていること、栄養失調状態にあることを指摘される。
この時、事態を重く見た病院のソーシャルワーカーが父親を連れて福祉事務所を二度訪ねている。それでも申請には至っていない。鉄壁の水際作戦が医療関係者すら阻む。
父親も命の瀬戸際にあったが、母屋で暮らす叔母も失職して生活困窮していた。そこでめぐみさんは父親と叔母を連れ、保護課を訪ねる。
「生活保護の申請をします。申請書をください。先日、病院で父は栄養失調と言われました。もう限界を越えています」
必死の思いでそう伝えると、職員は一枚の紙を持ってきた。申請書だと思ったそれは、家計簿をつけるための用紙で、それを差し出して職員は言い放った。
「これに1か月間、家計簿をつけてください」
どう考えても父は1か月持たなかった。数日後に改めて電話をした。
「じゃあ、これまでに書いた家計簿を見せてください」と言われ、福祉課に見せに行くと、「生活保護を受けている人で最低金額の人は1日800円で生活している。その人を見習って」と言われた。また、「ご家族が面倒見てお父さんのことを助けてください」とも返される。この時点でも、まだ生活保護の申請はできていない。
当時、唯一の働き手である夫の収入は15万円だった。にもかかわらず、めぐみさん家族と暮らすアパートに、なんと福祉課職員は2名でやってきた。そして夫の通帳を開示させられ、コピーまで取られ、「ほんとだ、15万だ。でも、20万近くもらってる月もあるじゃん。そういう月は1000円でも2000円でもいいからお父さんを支援してあげられるよね。家族なんでしょ?」と迫った。家賃を聞かれ、車のローンの残額を問いただされた。なぜ、家族がこんな目に遭わないといけないのだろうか。
ここに至るまでにめぐみさんのお父さんは何度、申請権を侵害されただろうか。度重なる水際(追い返し)に、その命は風前の灯火だった。
余命半年、二次感染を起こした足からウジ
めぐみさんの苦悩を見かねた友人が、仲道宗弘司法書士のことを教えてくれたことが転機となる。8月初旬、仲道氏が同行し、父と叔母はなぜか同一世帯という扱いで生活保護を受給することになった。ようやくである。世帯は分かれているのでその扱いはおかしいが、仲道氏もめぐみさんもとにかく父親の命を優先した。
「手術しなければ余命半年」と診断されていた父親はすぐに心臓の手術を受けることになったが、それまで劣悪な衛生環境で過ごしていたために足からはウジが湧いていた。仲道氏の介入がなければ、父親は命を落としていただろう。
命の瀬戸際にあった父親、そんな父親の弱る姿を目の当たりにしながら奔走しためぐみさんの心境はいかばかりだったか。胸が痛む。
保護が決定したという報せを受けて、めぐみさんが桐生市を訪れると、職員Iが「今回、なんでお父さんは生活保護になったかわかる?」と質問してきた。「頑張ってきたけど心臓も足も悪くなって仕事ができなくなったからです」と答えるめぐみさんを遮るように、「そうじゃないよねぇ。お父さんの社会性のなさだよねぇ!」ロビーの来庁者が振り返るような大声で言われて、「生活保護を受ける人が悪いんだみたいな感じで責められるのが悔しくてたまらなかった」とめぐみさんは当時を振り返る。
お父さんの代筆で保護辞退届けを書かされる
幸い、父親の手術は無事に成功し、退院後の住まいのことが問題となった。住まいとしてふさわしくない工場に戻るのは好ましくないため、医師からは施設入所を勧められていた。医師の提案は福祉課の担当職員にも伝わっていたようで、担当者から「めぐみさんは素人だから施設のこと、わからないでしょ。こっちが決めるから、決めたところに見学に行って来て」と言われる。
桐生市が見つけてきた施設は、なぜか桐生市からかなり離れた前橋市の施設だった。小さい子どももいる身として前橋まで通うのは大変だから、市内の施設を希望すると、「桐生市はどこもいっぱいだから」とにべもない。
これまでの桐生市の対応は、すべての局面で不適切か違法行為しかない。しかし、ここからが更にすごい。
9月17日、めぐみさんは前橋市の施設を見学に行くように言われる。桐生市の言い分はこうだ。
「先日、前橋市で生保を受けていた人が桐生市の施設に入ったから、交換条件みたいな感じで今度はお父さんが前橋市で生保の手続きして」そして口止めをされる。「桐生の人がこう言っていたって言わないで。『父が安定した生活を送るため』って話しておいて。じゃないとなすり付け合いみたいになっちゃうからさー」
そして、桐生市は自分たちの都合で父親を娘から遠ざけるだけでなく「一旦保護を廃止する」と言うのである。
「まずは自分たちの力で生活してみて、『やっぱりやっていけません』って前橋市で保護申請してくれる?」
通常、保護の実施機関から他地域に移る場合、「移管」という手続きが取られ、一日たりとも保護が途切れないようにするのだが、桐生市は施設入所の段取りと引き換えに、めぐみさんに代筆で保護の辞退届を書かせる。ところが……。
9月25日、めぐみさんは施設の見学に行き申込書を提出した。その翌日、施設から父親の介護認定手続きが為されていないことを知らされ、入所を断られてしまう。父親は保護も打ち切られ、行先すら失ってしまった。9月28日、めぐみさんは市に電話をし、施設入所を前提に辞退届を書かされたのだから辞退を撤回したいと申し出る。
あなたは桐生市を訴えたいの?
辞退を撤回したいと懇願するめぐみさんに桐生市は「施設側がどう考えているかはこっちにはわからない。施設のご案内をしただけであって、入れとは言っていないし、介護認定も進めていない」と全責任を放棄する発言をしている。そして、「お父さん、脳梗塞も見つかったみたいだから(介護)認定はやります」と取り繕いはしたものの、「辞退を撤回したところで保護費はもう出ないんだから意味がない」と意味不明な言葉を残している。
めぐみさんは慌てた。今月いっぱいで保護が切れてしまったら、認定を受けるまでの期間、病院代が払えない…。この件にも仲道氏が介入するのだが、桐生市側はあくまで「家族の同意のもと、辞退届は書かれた」とし、反論するめぐみさんに、「あなたは何がしたいの?桐生市を訴えたいの?そんなことしてプラスになることがあるの?」と責め立てた。この頃には、職員からの電話が鳴ると、めぐみさんの身体が震えるようになっていた。
10月、めぐみさんとお父さんは仲道氏同行のもと前橋市役所を訪れ、父親の住民票を移し、生活保護申請をした。その際に、前橋市の職員から前橋に申請することになった経緯を聞かれ、隠し通せるものでもないと思っためぐみさんが正直に話すと、あとで桐生市の職員から電話がかかってきて、「前橋に言っちゃったんだって?ダメって約束したじゃん!」とひどく怒られた。
父親は前橋市と渋川市の市境にある介護施設に入所した。若年性認知症を発症し、2年後に亡くなった。63歳だった。
結局、桐生市で生活保護を受給したのは3か月ほどの短い期間だったが、その間にめぐみさんが不当に受けた傷は深い。9年の時が経ち、「やっと話せるようになりました」と、桐生市とのやり取りをすべて記録したメモや書類を見せてくれた。それを読む限り、桐生市の対応はすべてのプロセスが不適切と違法行為のみで構成されていて、一つ一つ検証するには紙面がとても足りない。
めぐみさんの記録が裏付けるもの
桐生市の保護率は2011年をピークに急降下を始めていることがデータから見て取れる。そして異様なほどに多いのが、却下率と取下げ率だ。
2023年12月18日に桐生市役所3階で行われた桐生市市長の記者会見に筆者も参加した。そこでこう質問している。
「今回のケース、過去に北九州市で3年連続、餓死者や自殺者を出した『闇の北九州作戦』を思い出した。一人申請を受けたら、別の一人の生活保護を廃止にして保護件数をコントロールしていたことで起きた悲劇だ。桐生市ではたとえば桐生の施設によそから一人入ったから、こっちの一人を前橋市に送るというような形で件数コントロールはなかったか?そのようなコントロールにより保護率が減少したということはないか?」
質問に対し、小山福祉課長は「生活保護世帯数の目標数はありませんので、あくまでも自然現象と思っております」と答えた。また、保護率が急降下し始めたまさに2011年に保護課係長として配属された助川部長(2023年12月31日に異動)は「課長のお答えしたとおりで、数字等のコントロールをしたということは一切ございません」と断言した。
桐生市がめぐみさんの父親やご家族に対して行ったように、申請を何度も何度も撥ね返し、やむなく申請を受理したあとは、今度は家族を呼びつけたり、家にまで押しかけて執拗に扶養を迫ったりし、言葉の暴力で精神的にダメージを負わせ、口実を設けて受給者をできるだけ遠くへと追いやる。その際、移管はせずに辞退届を書かせる。
このような運用をしていれば、当然、保護率は下がっていくだろう。それを自然現象というのなら、その現象は職員による不適切対応、ハラスメント、違法対応の結果ではないだろうか。
桐生市では内部調査チームが結成され、今月には第三者による検証委員会の設立が予定されているが、めぐみさんのように過去のケースにもさかのぼって訴えを聞いてもらいたい。
内部調査チームの長である森山副市長に話を聞くため桐生市役所に電話したところ「お電話にお繋ぎできません」と言われてしまった。保護課の小山保護課長に確認すると、ケース記録の保存年数は5年であるため「すでに保護が廃止になっている人の記録はない」ということだった。
めぐみさんの思い、仲道司法書士の思い
「当時は自分の感情よりも、とにかく申請を通してもらわないと、という思いだけでした」と語るめぐみさんが、父親の命を守るために、心身ともにボロボロに削られながら桐生市福祉課と対峙した壮絶な3か月間。仔細に残した当時の記録は現在につながっている。
司法書士の仲道氏も「ありありと覚えていますよ」と当時を振り返る。乳飲み子を抱えためぐみさんが父親のために必死に動いていて、めぐみさんご自身が倒れてしまうのではないかと危惧したこと。そんなめぐみさんを福祉事務所職員が恫喝したり、騙したりしていたことを当時はにわかに信じられなかったこと。めぐみさんの生活や健康のためにも、とにかく父親を安心、安全な状態にするのを最優先したために、その後の追及をしなかったこと。
「悔やんでも悔やみきれない。あの時に訴訟を起こしていれば桐生市の福祉行政はここまで悪くならなかったかもしれないと思うと……」
9年前に残した強い悔恨が、今の仲道氏の活動の背を押している。
めぐみさんに本原稿を確認してもらうと、「父にもこの文章を読んでほしい。きっと救われる思いがするだろうな」と彼女はメールで返してくれた。桐生市に怒鳴られ、叱られていたお父様の尊厳を回復したい。祈りに似た強い思いを、筆者も抱いている。
小林美穂子(こばやしみほこ)1968年生まれ、『一般社団法人つくろい東京ファンド』のボランティア・スタッフ。路上での生活から支援を受けてアパート暮らしになった人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネイター。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで働き、通訳職、上海での学生生活を経てから生活困窮者支援の活動を始めた。『コロナ禍の東京を駆ける』(岩波書店/共著)『家なき人のとなりで見る社会』(岩波書店)を出版。