2024年01月04日 18:11 弁護士ドットコム
1月1日の能登半島地震で震度5強を観測した新潟県佐渡市は四方を海に囲まれ、直後に津波警報が出された。筆者は、義実家のある佐渡市で家族とともに年末年始を過ごし、大きな揺れを経験した。幸いなことに大きな被害こそなかったが、幼い子どもを連れていることで肝を冷やした。(弁護士ドットコムニュース編集部・塚田賢慎)
【関連記事:「16歳の私が、性欲の対象にされるなんて」 高校時代の性被害、断れなかった理由】
義実家の一軒家は、新潟市側に近い両津エリアにある。
0歳~2歳までの娘、姪、甥らとともに家族が年始の再会を喜び合う中、揺れは二度あった。一度目は正月気分で危機感もなく、誰もこたつやイスから立ち上がらず。
二度目の緊急警報が鳴り響くのとほぼ同時に大きく襲った横揺れで、誰かが「あ!あ!あ!」と叫ぶ声を記憶している。
大人は子どもたちを抱えてテーブルの下に逃げ込んだ。
揺れが収まると、手近にあった哺乳瓶などを車に詰め込み、オムツ姿だった子どもに「大丈夫」と語りかけながらズボンをはかせ、頭を守るニット帽をかぶせると、数台の車に分乗して近くの高台へ。
高台から湖を挟み海までは約2キロメートルほどの距離がある。同じように逃げてきた人の中には、スマホで誰かに何か叫んでいる女性もいた。
筆者のスマホのカメラロールをさかのぼると、1月1日午後4時8分までは家族が笑い合っているが、次の午後4時21分と記録されている写真からは、高台の上から海の方角を撮影したことがわかる。
「元旦の夜はすき焼き」と屈託のない会話をしていたのに、まさかこんなことになるとは。
地震の発生は午後4時10分とされ、およそ10分間で家族全員が避難できたことになる。ただ、体感では、その倍以上の時間に感じた。
佐渡市の発表によると、島内の一部で断水などが発生。世界文化遺産の登録を目指す「佐渡島の金山」も被害があった。「西三川砂金山」の道路で崩落などがあったという。
とはいえ、1日午後7時半時点で2100人いた避難者も、3日正午過ぎには0人になった。
高台から義実家の自宅に戻ると、倒れた寝室のテレビが映らなくなっていたほか、風呂の湯が茶色く濁るなどの影響はあり、いつもは車庫に「前向き駐車」している乗用車を、すぐ発進できるように出入り口に向けて、再度の緊急時に備えて物資を載せた。
小さな余震は続いていたが、車も1月3日にはまた「前向き」になるとともに、すぐ日常が戻ったようで、誰もケガなどしなかったのは本当に幸いだったが、それよりも家族の精神的なショックのほうが心配された。
2歳の子は「おうち、うごく?」「地震こわいね」と尋ねたり、1月1日と2日は夜泣きするようになった。「地震怖い」は4日になっても続いており、早く安心させてあげたい。
地震の直後はテレビ各局も報道特番に切り替え、さらに羽田空港の飛行機事故も発生し、居間のテレビを安心してつけられなくなったことから、テレビに映す番組のほとんどをYouTubeやサブスクの子ども向け番組に固定した。
東京へのUターンも少々心配ではあった。移動には、佐渡市から新潟市までのフェリーと、新潟駅から東京駅までの新幹線を乗り継ぐ。フェリーは津波警報(注意報)の間は運休だったことから解除までは「島を出られないこともあるのか」と不安だった。
しかし、フェリーは津波注意報の解除とともに2日午前から運行を再開。一部区間で運行を見合わせていた上越新幹線も同日午後には動き出した。
筆者は本来は3日に自由席で東京に帰る予定としていたが、ダイヤ乱れの影響で人が殺到することを予想し、4日昼の指定席を予約した。NHKが3日午後の一部自由席の乗車率は「200%」だったと報じた。デッキが立ち客によって満員になった様子をテレビで見て、やはり子連れで3日に帰るのは無謀だったと胸を撫で下ろす。
余談だが、フェリー乗り場に向かう1月4日朝には、二重にかかる虹を見た。佐渡には虹が多いと言われているが、おかげで不安が少し紛れた。12月30日にも島の近くで虹がかかるのを船内から目撃したことを思い出す。
こと新潟駅前だけ見回せば、震災の傷跡は見当たらないが、新潟市西区で液状化があったほか、軽傷者も出ている。
当日はフェリー→バス→新幹線の交通機関に遅れもなく、スムーズな移動に終わり、前日までの心配は杞憂に終わった。
新潟を出て、東京駅に着くと、地震の影響など嘘のように混乱のない日常があった。
今回の地震で、家や大切な人を失った人の立場を考えれば、何時に移動できるだの、新幹線が動かないだのといった心配事は本当に瑣末なことかもしれない。
X(旧Twitter)を開くと、地震に関係のない話題も目に入ってくる。本当に求めている人に必要な情報が届いてほしいと考え、生存率が大幅に下がるとされる発生72時間のうちは、Xでの無用無益な発信も控えた。