2024年01月04日 10:31 弁護士ドットコム
「正規・非正規を問わず、外国の人たちが入管の気まぐれな裁量によって、翻弄されてゆく。この実態は入管、外国の人たち、そして日本という国にとっても何一つ良いことはありません」
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元入管職員の木下洋一さんはそう話す。大学卒業後、法務省の外局である公安調査庁に入り、2001年に法務省出入国管理局(入管)へ異動。2019年春に退職するまで18年間、入国審査官として、現場で外国の人たちと接してきた。
仕事を続ける中で抱いた入管行政への疑問について考えようと、「入管行政における裁量」を研究テーマに大学院に社会人入学して、法学修士の学位を取得した木下さんは「私の中では入管の問題=裁量の問題なんです」と語る。
入管を退職後、外から入管の制度改革を提言してきた木下さんが、昨年刊行したのが『入管ブラックボックス 漂流する入管行政・翻弄される外国人』(合同出版)だ。
入管職員としての18年間の経験をもとに、具体的かつ実感の伴う言葉で、入管をめぐる問題をわかりやすく記した本書について、木下さんに聞いた。
――入管について執筆を依頼されたとき、まずはどう思いましたか?
入管はなくてはならない組織ですが、「裁量の大きさ」に起因するさまざまな問題を抱えています。それを広く知ってほしいという思いがあったので、退職後さまざまな媒体を介して発言する機会をいただけたのはありがたいことでした。ただ、本当に伝えたいことが伝わらなかったり、誤解を招くこともあったので、自分の言葉で伝える機会をいただけたことは、素直にうれしかったですね。
――公安調査庁から異動した直後の気持ちや、その後、大きくなっていく入管への違和感が、率直に記されています。
個人的な感情を書くのは、裸を見せるようなもので、抵抗もありましたが、ノンキャリ職員で入管行政を俯瞰で見る立場にいたわけではない自分が、何を語ることができるかをまず考えました。私にできるのは、現場で何が、どのように起きていているか、目の当たりにしたことについて、どう感じ、どう考えたかということを率直に語ることではないか。それを明らかにせずに、入管の裁量がどうだと語っても、説得力がないと思ったんです。
――入管が抱える諸問題について、外の人が指摘するのと、中の人が指摘するのでは、意味合いが違います。
本を書くうえでは一口に「入管」と言っても、それが何を指しているか、という点に留意しました。たとえば「入管問題」と言うとき、それは人の問題なのか、組織の問題なのか、制度の問題なのか。多くの人は一括りにしていますが、この3つは分けて考えるべきだと思います。一緒くたにして感情的に入管叩きをしても、問題の本質は見えてきませんし、建設的な議論になりません。
――入管の問題の根底にあるのは、広大な裁量だと木下さんは繰り返しています。
裁量の大きさそれ自体より、その広大な裁量がコントロールされず、無規律であることが問題なのです。この制度的無規律性こそ、まさに私にとっての「入管問題=裁量問題」なのです。審査にはある程度の基準はあるものの、その基準が地方局ごとに違う。無規律な裁量が恣意性を帯び、不公平感がつきまとうのは必然です。
行政において、誰が最終責任を負うかはとても大切なことです。入管行政では、法務大臣の権限が地方の入管局長に委任されて、地方入管局長の名義で、処分が下されます。そのため、地方の局長ごとのキャラクターが出て、ローカルルールができてしまうのです。
在留特別許可(在特)に限らず、正規滞在者の在留資格についても、おしなべてローカルルールが用いられます。それが法の趣旨や人権的な観点から妥当なものなのか疑問を感じても、これだけ大きな裁量が認められていると、検証することもできません。
――同じケースでも、ところが変わると判断が変わるのですか?
地方局に最終判断が委ねられているため、同じようなケースでも東京入管では不許可、大阪入管では許可みたいなことが当たり前のように起きているのです。外国の人を入れるか否かは国家の裁量であるとしても、地方局ごとのローカルルールが幅をきかせ、同じようなケースでも局によって判断が違う。裁量判断に統一性がなく、恣意的で一貫性がない。要するに、不公平なのです。それは、職員当時の自分にとってはしんどいことでもありました。
――木下さんのように感じている同僚もいたのでしょうか?
誰もが多かれ少なかれ仕事に対して疑問を感じていたと思います。上司が変われば判断が変わる。法による行政ではなく、人による行政に違和感や不公平感を覚えるけれど、生きていくために自分を閉ざす。あえて出世の道は選ばない……。同僚がそんなふうに考えているのだと思うことはありました。巷で言われるほど、入管職員は人権感覚のないわけではないし、多くの職員は釈然としない思いを抱えながら仕事をしていると思います。
――難民申請についても、多くの識者が不透明性を指摘しています。
私は難民審査に直接関わっていないので具体的なことは語れませんが、一部の参与員への偏りが指摘されたものの、難民申請には外部有識者である参与員の関与があり、法務大臣に対して不服申し立てができます。ですので、手続的側面に限っていえば、他の入管手続に比べ、まだ透明性はあると言えるかもしれません。一方で、難民申請以外の入管手続は不服申し立てができず、入管の処分に文句があるなら裁判を起こせ、と言われます。
だけど、訴訟を提起できる人がどれだけいるでしょうか。それに提起したところで、入管にとってありがたいマクリーン判決(*)によって、ほぼはね返されてしまう。裁判所は入管の味方をしているわけではなくても、法律が入管に広大な裁量権を認めている以上、余程のことがない限り違法判決は書けない。そうなると、入管は「自分たちの判断は正しい。間違っていない」となってしまう。これは構造上の欠陥だと思います。
――今の入管制度は、時代に合っていないと感じます。
そうですね。これからの時代、透明感の向上が不可欠です。密室行政とは決別しなければなりません。入管行政がブラックボックスになるのは、第三者のコミットがなく、入管だけですべてをおこない、何をしているか、外部から見る人がいないからです。自分たちが下した判断が、本当に公平・公正であるのか、妥当であるのか、誰からもチェックされない。間違いを指摘してくれる第三者が存在しないのですから、入管が「裸の王様」になるのは必然なのです。
――今回の入管法改正を、木下さんはどう見ていますか?
今回の法改正は、収容と難民に関する部分が中心で、ほかはあまり手をつけられていませんが、改善点として、在特が申請制になったことが挙げられます。これまで在特は法務大臣が退去強制手続の最終局面で、恩恵的かつ一方的に付与している感じでしたが、法的枠組みが整備されたのはよかったと思います。また、不許可の場合、申請者に理由を通知することが明記されました。実際、どこまで実施されるか懸念はあるにせよ、この2つが条文に明記されたことは、入管の裁量をコントロールする手段としては前進だったと思います。
その一方で、入管の裁量をさらに大きくしようとしているのでは、と懸念しているのが、改正入管法50条5項です。
改正入管法50条5項:法務大臣は、在留特別許可をするかどうかの判断に当たっては当該外国人について、在留を希望する理由、家族関係、素行、本邦に入国することになった経緯、本邦に在留している期間、その間の法的地位、退去強制の理由になった事実及び人道上の配慮の必要性を考慮するほか、内外の情勢及び本邦における不法滞在者に与える影響その他の事情を考慮するものとする。
何の指針もなく在特の判断はできないわけで、これまでも在留を希望する理由や家族関係、在留期間などといったものは、改めて条文に明記されるまでもなく、いわずもがなでした。しかし、「内外の情勢」や「不法滞在者に与える影響」を、入管はどう判断するのでしょうか。結局は個人的な主観や価値観に頼らざるをえないのではないか。さらに、「不法滞在者」はこれまでの法律用語にはなかった言葉で、これを持ち出したことにも驚きました。入管が「影響が大きい」と主観的に判断すれば、在特を与えない。これは裁量をさらに大きくしようという意思の表れではないかと危惧しています。
――本書では、修正案が幻に終わって一番ホッとしているのは、入管ではないかと記しています。
特に収容期限を原則6カ月とするといった内容が盛り込まれていた2021年の修正案が通っていたら、入管は真っ青だったと思います。私が不思議だったのは、反対運動で使われた「改悪」という言葉です。「改悪」というと、さも現行法が「善」かのような印象を与えますが、少なからぬ方が収容施設内で亡くなっている、あるいは廃人のようになっている。これは現行入管法の下で起きたことで、現行法に問題があるのは明らかです。
難民の送還停止効の例外はたしかに大きな論点でした。難民でなくても繰り返し難民申請でき、その間は例外なく送還がストップしてしまう現行システムは健全ではないものの、実際に3回目以上の難民申請で認定された人がいるのですから、そこは慎重に考えてやらなければいけません。
国連難民高等弁務官(UNHCR)が指摘するように、第三者機関のコミットは不可欠です。送還停止効の例外と第三者機関の設置はセットで考えるべきですし、そこは積み残した部分だと思います。
――最終的に与党の提出案がそのまま通ったことを考えると、修正案に合意したあと協議するという選択もあったのでは、とも思いました。
そうですね。国会では党利党略が優先され、妥協点をさぐるという姿勢を感じることはできませんでした。入管法改正議論は、私が退職した年の2019年の6月に大村入国管理センターで餓死者が出たことから始まっています。その後も、スリランカ女性のウィシュマさんが亡くなるなど、悲しい事件が起きたことが、支援者や熱心な弁護士の方々による抗議行動で周知になり、反対運動が盛り上がりました。
それまで世間から目を向けられず、いわばやりたい放題だった入管が世間の厳しい視線に晒されたことは意義があったと思います。ただ、デモや反対運動には、異論や妥協を一切ゆるさない空気を感じました。
――たしかにそういう空気はありました。
SNS上では、反対派は反対派同士で集まり、盛り上がって入管を攻撃する。それと同じように、外国の人を日本に入れたくない人も集まって、「入れるな、帰れ」と声をあげる。過激な投稿でお互いを非難するばかりで対話もない。これではせっかく入管に関心を向けるようになった人たちも、ひいてしまうのではないか。一連の騒動は、エコーチェンバー現象の極みだと感じました。
入管の問題は、今後の日本社会を考えるうえで本当に大切な話です。だからこそ、もっと自由に、フランクに話し合えるようになったほうがいいと思いますね。
――少子化など、外国の人たちをどう受け入れるかは、今後の重要課題の一つです。
繰り返しになりますが、支援者や熱心な弁護士の方々が入管の問題を鋭く指摘し、あぶり出したことで、世間の入管への関心が高まったことは良かったと思います。ただ、改正案に「反対か、賛成か」と選択を迫り、廃案一択以外、異論をゆるさないというタイトな運動になると、そうでない人はなかなかコミットできなくなってしまいますし、幅広い議論もできません。だから、私はこの本を「入管っていろいろ言われているけど、実際どうなっているんだろう」と素朴な疑問を感じている人たちに向けて書きました。
――想定読者は大学生、と話していましたね。
入管を辞めてから、いろいろな大学のゲストスピーカーに招かれたり、大学生等から話を聞きたいとアプローチがあったり、多くの若者と接する機会がありました。みなピュアでまじめで、なによりも柔軟な思考を持っています。「報道やネットなどで言われていることは、果たして本当なのだろうか」という彼ら彼女たちの素朴な疑問こそ、現状を変える原動力ですし、わかりやすく伝える、という意味でも、大学生を念頭において執筆を進めました。
入管法が外国の人たちに優しくなくて、行政サイドの味方を許してしまうのは、法のたてつけがそうなっているからです。入管法は終戦直後の混乱時、朝鮮半島出身者をいかに効率よく管理し、迅速かつ効率的に半島に還すことができるように入管に大きな裁量権を与えました。
当時の吉田茂首相は、戦後の食糧難を理由に「原則としてすべての朝鮮人を本国に送還すべき」と、マッカーサー連合国軍総司令官に書簡を送っていますが、その排外的発想が入管行政の根底に今でも流れていると感じます。朝鮮半島出身者の効率的管理や送還のため、行政に大きな権限を与え、不服申し立ても認めない。第三者機関も設置しない。現行システムは戦後の混乱期の歪んだ管理政策をずっと引きずっているのです。
――当時と今では、世界の情勢は変わっています。
だからこそ現実に即した法改正、制度改革が必要なんです。正規・非正規を問わず外国の人たちが入管の無規律で恣意的な裁量によって、とことん翻弄されている。入管という一行政機関の決定が絶対的で、不服の申立ては許されない。この実態は入管、外国の人たち、そして日本の国益にとっても何一つ良いことはありません。
入管行政は、透明化、可視化、そしてローカルルールではなく、普遍的な基準に基づいた平等原則のもとにあるべきです。
少なからぬ外国の人たちの中には、自分たちは平等に扱われていないという意識があるはずです。ブラックボックスの部分がなくならないままでは、入管に生殺与奪権を握られている彼ら彼女らの不満はくすぶり続けます。そこが改善されない限り、入管の問題は終らないと私は思います。(取材・文/塚田恭子)
(*)マクリーン判決……外国人に対して、在留期間の更新を不許可とした処分は、裁量権を逸脱する違法なものかどうかが争われた事件。最高裁は、外国人に対する憲法の基本的人権の保障は、国の裁量を拘束するまでの保障を含むものではないと判断した。
【プロフィール】木下洋一/きのした・よういち
1964年神奈川県出身。1989年4月、公安調査庁に入庁。2001年、入国管理局(現・出入国在留管理庁)に異動し、入国審査官として入管行政に関わる。2019年3月、社会人入学した大学院の修了と同時に入管を退職。現在、都内の行政書士事務所に勤務し、外国人の在留資格の取得等をサポートしている。