'23年10月に母を亡くした邦子さん。「渡辺徹さんや笑福亭笑瓶さん、KANさんとの別れも。ここ最近はさよならを言うことが多いよね」自宅には手すりをつけ、エンディングノートに大切なことを書き込むなど、自身の老いや終活にも思いをはせる日々だという―。
体重は17kgも減り、痩せ細ってわずか28kgに
10月18日に長い介護の末、母・昭子さんを看取ったばかりの山田邦子さん。
「先日、兄と弟、私の3きょうだいが集まって、納骨してきたのよ。そのお墓には約20年前に急死した父が入ってるんだけど今思えば、母が墓を決めて役所の手続きもしてくれた。今回は当然、その母がいないわけ。8歳下の弟は『お母さんがいないとわからないよ~』なんてオロオロして(笑)」
亡くなる少し前から昏睡状態だった昭子さん。邦子さんがロケから戻り、羽田空港に着いたタイミングでほっとしたように息を引き取った。
「弟が『ねえやんが羽田着いたよ』って耳元で言ったそうなんです。亡くなったあと、弟は大号泣。私も悲しくないわけがないですし、後悔がまったくないわけではないですが、母はもう十分によく頑張ってましたから。その生きざまで最期までたくさんのことを教えてくれました」
昭子さんが弱ってきたのは5年くらい前のことだった。
「同居する弟が母の面倒を見てくれていたんですが、2人とも体調を崩したことを黙っていたんです。ケガをしたあと動かなくなったのがよくなかったのかも」
昭子さんの体重は17kgも減り、痩せ細ってわずか28kgになっていた。
「以前から、母の生前整理を私が手伝っていたんです。まだ母が意思表示できるうちに化粧品やアクセサリーの一つひとつまで『いる・いらない』の仕分けをすることができたのはよかったです」
もともと余計なモノを持たない性分だったことも幸いした。しかし、介護が必要になったときどうしたいか、葬儀の仕方などの母の意思はわかっていなかったという。
生きる目標を持てなくなって母は「死にたい」と
「弟は母の回復を信じていて24時間つきっきりで一生懸命、世話をしていたけど素人ではうまくいかなくて。私もできる限り通って、出すぎて垂れてしまう母の唾液をストローで吸ってあげたり、口の中に手を入れて拭いてあげたり。
家族だけではもう限界。生きる目標を持てなくなって母は私に『死にたい』って言うこともあったので、これはプロに頼らなくてはと、介護認定を受けさせたんだけど」
介護士にケアをしてもらうと、家族全員の調子が戻った。
「母の体重がみるみる増えてきたんです。おしゃれだった母もちょっと小汚くなってたのが、介護のプロの手が入ったとたん、すごくきれいになったの。やっぱりケアマネさんに相談して正解でした」
要介護2から5へと上がった際は、回復を信じた弟の意向もあって、リハビリができる病院に母を入れたが、「意思疎通もできなかったし、もうそこまで頑張れる状態ではなかった」と話す。
「終のすみかとなったのは、サービス付き高齢者向け住宅。環境も整っていて、医療と介護のプロがいて素晴らしかったですね。私が死ぬときはココに入りたいと思うぐらい(笑)。もちろん本人の好みもあると思うから一度、見学に行って決めるべきですよ。
もっと早く母を入居させてあげれば、穏やかに過ごせたのかな……。まあ介護に正解はないと思うけどね」
短大生時代“面白い素人”としてテレビで頭角を現した邦子さん。実は中高短大一貫のお嬢様学校出身でテレビ出演するなどとんでもないという環境だった。
「父のすすめで建設会社に就職も決まっており、父親は猛反対。デビュー後1年ぐらいは口もききませんでした」
しかし、小学6年の娘に、「おまえは目つきが悪いから」と整形を進めた母は違った。
「母はいつも自由で遠慮がなくて(笑)。目つきの悪さで私が将来、苦労すると思ったみたい。母は私と違って美人だったから、仕事なんてする必要がなかった人。若いころはモデルとして雑誌の表紙になったり、会社の受付嬢になってすぐ結婚して……。それでも本人は働きたかったのかも。『やってみなさい、女は度胸よ!』と応援してくれました」
母が亡くなるまでの姿を見て、準備の大事さを痛感
また、昭子さんは文化服装学院卒業の腕を活かし、娘の華やかなステージ衣装を魔法のように縫い上げた。邦子さんも裁縫は得意だが、母の足元にも及ばないのだとか。
加えて、娘の収入を「ほかの人に任せると心配だわ」と言い出し、個人事務所を立ち上げた。
「私はお金に無頓着だったから、もしかしたら母には使い込まれていたかもね(笑)。今は弟が後をついで事務所の社長をやってくれています」
邦子さんが30代になるとだんだんと母と娘、2人の関係も変わっていく。
「母は友人も多かったんですが、その友人が娘と旅をしているのが羨ましかったんでしょうね。でも、『仕事ばかりで一緒に旅行する時間もない、家族で過ごす時間がない』と嘆くので、ハワイ旅行に連れていったこともあります」
47歳の邦子さんに乳がんが見つかったときも、昭子さんに話すと大騒ぎしたり、空回りされても困るため、知らせなかったのだとか。そして、メディアに情報が出るころには、治療も終盤、記事が掲載される前に自分で伝えることができた。実に孝行娘である。
昭子さんの葬儀では、自らマイクを握り、川中美幸さんと献歌をした邦子さん。葬儀のあとも、母の休眠口座を整理したり、やることは山積みだったと話す。
「連絡してほしい人のメモを残していたり、母は終活ができていたほうだと思うんです。私には子どももいないし、母が亡くなるまでの姿を見て、もっと早く、細かい点まで準備をしておかなくちゃ、と思うようになりました」
弟に迷惑はかけたくないという強い思いもうかがえる。
「葬儀だけではなく、その前に介護生活をどう過ごしたいか、医療の力をどこまで借りるかも大切ですよね。まだ夫婦とも脚は悪くないけれど、自宅の階段に手すりをつけてもらったんです」
がんサバイバーだからこそ、命のありがたみや人との関わりを大切に
すでに弁護士に相談し、遺言など公正証書としても残している。
「自分の資産を知る上でも、40歳ぐらいからやっておくといいと思います。私の場合、弟にはいくら残すのかとか、そのときどきで変わるのでちょくちょく変更しますよ」
また、「会いたい人には、会えるときに会ってください」と邦子さんは力説する。
「最近では番組で共演して仲が良かった(渡辺)徹ちゃんや(笑福亭)笑瓶ちゃん、KANちゃんが亡くなったのはショックでしたね。時間をつくって会っておけばよかったと後悔しています。
先日、夢の中で徹ちゃんがみんなにいたずらして笑わせてくれたんだけど、(榊原)郁恵ちゃんに連絡したら、その日が命日だったのよ。うれしかったけど、私より郁恵ちゃんの夢に出てあげてほしかったなぁ」
自分ががんサバイバーだからこそ、命のありがたみや人との関わりを大切にしながら生きてきた邦子さん。垣根を越えて若手芸人の活躍の場をつくることや、名取のひとりとして長唄をもっと一般の人にも広めたいなど、まだまだやりたいことは尽きない。
「いろんな人の助けがあって今の私がいる。だからできる限り周囲に返していきたいの」
最後に、旦那さまのことを聞くと「未亡人になりたい」とギョッとさせ、「でも夫は毎日、ラジオ体操をやって元気なの。きっと長生きするんでしょうね」と、邦ちゃん流の愛情表現を見せてくれた
取材・文/オフィス三銃士 撮影/佐藤ヤスヒコ
やまだ・くにこ◎'80年代に『オレたちひょうきん族』『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』などの伝説的番組に出演し、人気を博す。'20年にYouTubeチャンネル『山田邦子クニチャンネル』を開設。長唄杵勝会の名取、スイカを使った化粧品ブランド『クニコスメ』の開発などマルチに活躍中。