Text by 後藤美波
Text by 生田綾
Text by Jun Tsuboike
小説家・柚木麻子による初の児童書『マリはすてきじゃない魔女』(エトセトラブックス)が刊行された。
主人公は、魔法の覚えが早く、大きなパワーを持つ魔女の女の子、マリ。マリが暮らす町には魔法を人間のために使い、人々の役に立つ「すてきな魔女」がたくさんいるが、マリがしたいことは少し違う。お腹いっぱいドーナツを食べるためにドーナツを巨大化させたり、みんなから注目されるために髪や目の色を気まぐれに変えてみたり……自分のためだけに、魔法を使うことだ。
怠け者で、いい子でもなくて、成長もしない。そんな「すてきじゃない魔女」を書きたかったと柚木は言う。本作の執筆に込めた思いを聞いた。
―『マリはすてきじゃない魔女』は柚木さんにとって初めての児童小説となりますが、まずは執筆された経緯と、魔女をテーマにされた理由を聞かせてください。
柚木:エトセトラブックスの松尾亜紀子さんと以前からお付き合いがあったんですが、子ども向けの本を1度書いてみないかというお話を2022年の夏ごろにいただきました。その瞬間から、絶対に魔女の話にしたいなと思いました。今年11月に角野栄子さん(代表作『魔女の宅急便』)の博物館「魔法の文学館」が開館しましたが、小さい頃からずっと角野さんの本を読んでいて、大好きでした。
魔女の児童小説を書くうえで絶対にやりたいと思ったのは、人を救わないこと、成長しないこと、あとは巨大化するのが好きなので、巨大化です。この3つをすごくやりたいなと思ったら松尾さんもすごくいいですねと。魔法がバレると効力がなくなってしまうとか、何日以内に何かをしないといけないとか、そういうのは全部やめていく方向にしました。
柚木麻子:1981年生まれ。大学を卒業したあと、お菓子をつくる会社で働きながら、小説を書きはじめる。2008年に「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞してデビュー。以後、女性同士の友情や関係性をテーマにした作品を書きつづける。2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞と、高校生が選ぶ高校生直木賞を受賞。ほかの小説に、「ランチのアッコちゃん」シリーズ(双葉文庫)、『本屋さんのダイアナ』『BUTTER』(どちらも新潮文庫)、『らんたん』(小学館)など。エッセイに『とりあえずお湯わかせ』(NHK出版)など。本書がはじめての児童小説。
―それはなぜでしょうか?
柚木:私は角野栄子さんの『魔女の宅急便』もすごく好きですし、ほかにも好きな魔女コンテンツはたくさんあって、魔法がバレたら魔界に帰らなきゃいけない……というような話もすごく好きです。ただ、自分の子どもが生まれたり社会のことを考えたりしたときに、ちょっと10代前半くらいの子どもに対して課せられているものがキツくないかなとも思うようになりました。だから、オーダーを受けたときに主人公のマリ自身は成長しないということがとっさにひらめいて、それを書いてみようかなと思ったんです。
―柚木さんは子どもの頃からさまざまな児童小説や物語に触れられてきたと思うんですが、いま、そのときはちょっと違った受け止め方をされるようになったと……。
柚木:そうですね。『小公女』(フランシス・ホジソン・バーネット作、1985年に日本でアニメ化)のような不遇の境遇に負けず頑張るみたいな話もすごく好きなんですけど、大人になって読むと、感情移入というより親はなんで遺産に関する書類を残しておかなかったんだろうとか、『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』(バージニア・リー・バートン作)でさえこんな無闇な労働をしているのだからたまに逃げたくなってもしょうがないだろう、ちゅうちゅうは悪くないんじゃないか? みたいに思うことが多々増えてきました。
欧米の児童文学には話の9割くらいパーティーをしているような話もたくさんあって、私が好きな『やかまし村の子どもたち』(アストリッド・リンドグレーン作)も、ほとんど一章がクリスマスの準備に充てられるんです。なにか波乱が起きたり大変な目にあったりするのではなくて、ただ子どもたちが楽しんでいるだけ。
特に北欧や英米の文学に対してそう感じることがあって、そこには子どもは守らなきゃいけない存在であり、楽しませなきゃいけない存在であり、子どもを性的に見たり搾取したりするのはありえないというような意識が影響しているのかと思うところもあり、そういった話が日本の話で読めたらいいなというのはちょっとあったと思います。
―少し話を戻して、先ほど角野栄子さんの『魔女の宅急便』を挙げていらっしゃいましたが、「魔女」を描いた日本の作品といえば、私は真っ先にジブリの『魔女の宅急便』のキキが思い浮かびます。「子どもに対して課せられているものが大きいのでは」という柚木さんの話を聞いて、たしかに『魔女宅』のキキはすごくいい子で、人々の役に立つために仕事を頑張っているキャラクターだなと思いました。
柚木:私もジブリ版の『魔女宅』は大好きで、何度観てもすごく良い作品ですし感動するんですが、どうしても引っかかってしまうのは、もし仮にキキがトンボを助けられなかったらどうなるのか、ということなんですよね。
終盤に起きた飛行船の事故で、キキはトンボを助けて人命救助をしたことでみんなから受け入れられますが、あんな空中でトンボを受けとめるなんてほぼ不可能だったんじゃないかと思います。そもそもキキはあの状況に巻き込まれただけで、トンボを助けられなかったとしても、何も落ち度はない。でも、もしキキがトンボを落としてしまっていたら、キキはものすごいヘイトを受けてしまう可能性があって、おそらくキキはあの街にいられなくなってしまい、最悪の未来が待っていたと思うんです。
角野さんの原作シリーズにもキキが不調を経験する場面があるんですが、ジブリの映画と少し違うのは、人を助けて人に受け入れられるという展開になるのではなく、キキは不調をただ受け入れるんです。そして、なんとなく不調との付き合い方みたいなものを学びます。里帰りをしたとき、飛ばないときに街を歩いていたら街ゆく人の目の高さが初めてわかって、魔女として大事な経験を積む。そのときに見えた景色が自分を成長させたということを、とても平易な言葉でキキが言って、お母さんが「あなたは大人になったのね」というようなことを口にする場面があるんです。そこが私はすごく好きなんですよね。
ジブリ版の批判をしたいわけではないのですが、そこだけどうしても気になってしまって……もしもキキがトンボを落としていたらどうなるのか。もしもキキが「いい子」じゃなくて、人の役にも立たず街も救っていなかったらどうなるんだろうということを、すごく考えながら『マリはすてきじゃない魔女』を書いていました。
―もしキキがトンボを助けられていなかったらという視点は、考えたことがなかったです。マリは、自分が食べたいからドーナツを大きくしたり、自分のためだけに魔法を使いたい魔女であんまり「いい子」ではないですよね。
柚木:マリは怠け者だし、成長しないし、町も救わない。話も1回で聞けない子です。ファンタジー小説って知性を試される場面があって、「あんたはすみれの谷に行ってエルフに会うんだよ、そこから先はお前の腕次第さ……」みたいな試練があったりすると思いますが、マリはそういうのは全然わからないので、そういった謎めいたやりとりも全部なしにしました。
―(笑)すごく素敵ですね。
ーマリのように自分のために魔法を使いたい魔女もいれば、人間の役に立って慕われるグウェンダリンや伝統的な魔女像に憧れるレイなど、多様なキャラクターが登場します。マリ以外の登場人物を描くうえで何か意識されたことはありましたか?
柚木:まず、子どもが大人を救う描写をなくしたいと思っていました。大人たちもそれぞれ問題を抱えているけど、それは大人間で解決できるといいなと。
マリのお母さんのグウェンダリンは、子どもを守ろうとするあまり毒に染まってしまうトキシックな親という設定にしました。グウェンダリンはママふたりでマリを育てていてすごく才能がありますが、大黒柱にならざるを得なくなると、そうなってしまう可能性があるかもしれない。
魔法が使えない魔女も1人出したいなと思って、それがマリのもう一人のお母さんであり、グウェンダリンのパートナーのユキさんでした。
自分のために魔法を使い、大きな野生なるパワーを持つマデリンという魔女と、もともとそういうパワーを持っていたけれど、人間とうまく共存するために自分の力をウォッシュしていった正反対のタイプのモモおばあさまも出てきます。まず大人のキャラクターから決めていって、マリたちの世代を考えていきました。
あの物語の舞台は、大きな戦争や大災害が何度か起きたあとの、ここではない少し先の未来の地球を想定しています。だからどこも多民族国家になっているし、資源を大切にしているし、暴力は絶対ダメで、性的マイノリティの権利も認められている。ずっと先の社会の話のつもりで書いているので、我々の社会が遅れていて向こうが進んでいるというふうに描きたいと思っていました。
ーママのお母さんであるグヴェンダリンとユキがレズビアンのパートナー同士だったり、レイがトランスジェンダーの女の子だったり、性的マイノリティが当たり前のように登場し、権利も保障されている社会になっているのも、すごく素敵だなと思いました。
柚木:子ども向けの作品だと、たとえば漫画の『こっちむいて!みい子』(おのえりこ作)にもトランスジェンダーの登場人物が出てきますよね。以前ベルリンの書店に行ったとき、ふたりのパパシリーズみたいに、性的マイノリティがごくごく自然に描かれる本がたくさん置いてあったんです。ふたりパパとたしかパーティーするとか、海に行くみたいな話で、絶対ダークエンドにはならないであろう、ハッピーなカラフルな装丁の児童文学でした。
そうした児童書がいっぱいある社会ってすごくいいなと思います。私はあくまで1冊しか書いていませんが、普通にセクシュアル・マイノリティが出てくる児童書が何種類もあったらいいなと思って、今回その一種類を提案させていただいたという感じです。
ー最近はSNSなどでトランスジェンダーへのヘイトや誤った言説が繰り返されていて、すごく深刻な状況にもなっているなかで、『マリはすてきじゃない魔女』ようなトランスジェンダーの女の子が出てくる児童小説が刊行されることは、すごく大事だと思いました。こうした状況について、何か感じられることがあればお聞きしたいです。
柚木:ハリウッドがトランスジェンダーをどう描いてきたかというNetflixのドキュメンタリー(『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』)を見て、すごく間違った表象をしているコンテンツを気づかず楽しんできたことを、私自身大反省しました。声を上げてくれた方たちが世の中にこうした情報を送り出してくれたから学んだわけですが、自分自身が差別に加担していたという反省と、一方で、『セックス・アンド・ザ・シティ』などの英語圏のエンターテインメント作品が大好きで、自分がそこにエンパワーメントされてきた部分があるのも事実で、その二つは絶対忘れないようにしなきゃいけないということをこの数年で感じるようになりました。
今回はセクシュアル・マイノリティについて言語哲学者の三木那由他さんに監修に入っていただいて、みなさんのお力を借りて書いているという状況ですが、勉強しつづけなきゃいけないなと思っています。私は学び始めたばかりで何も偉そうなことや結論めいたことは言えないんですが、一つだけ読者の方に言えるとしたら、当事者の方たちが発信したコンテンツがいまたくさんあって、手に取りやすくなっているので、1度本を読んでみたり、触れてみたりすることが大事なんじゃないかなと思います。
―『マリはすてきじゃない魔女』で描かれる魔女の歴史も印象的でした。人間から忌み嫌われていた魔女たちは生きるため人間に歩み寄ることを決めて、人間に受け入れられるために「人の役に立ち、すてきになる」ことを選びます。でも、人間にすり寄ることを拒んだ魔女とのあいだで対立が起きてしまったり……。少し前に「わきまえる女性」が議論にもなりましたが、魔女たちが「すてきになること」を求められている状況は、現実社会で女性など社会的弱者が受ける抑圧に重なる部分もありました。魔女の歴史を描くうえで、そこは意識されましたか?
柚木:文学賞などで選考委員をやらせていただくようになって感じるのが、書き手が興味を持っていないことを無理して書いていると、上手い下手は関係なく、一発でわかるんです。やっぱり児童文学とはいえど、私がいま気にしていることを書かないとすごく嘘っぽくなってしまうし、面白くなくなってしまう。子どもも一瞬で見抜くだろうと思います。
だから私がいま興味あることを書いたのですが、その一つが、先人の功績がなかなか語り継がれないという問題でした。これはエトセトラブックスの雑誌『エトセトラ』で山内マリコさんと田嶋陽子さん特集をやったときにひしひしと感じたことで、『らんたん』(恵泉女学園の創立者で女子教育に尽力した河井道がモデルの大河小説)を書いたときから考えていることです。先人がすごく頑張ってやったことが受け継がれず、むしろ否定されがちで、エンターテイメントで描かれる機会も少ない。
柚木:いまの価値観に照らし合わせて「完璧な人物」ではないと取り上げられなくて、やや面白みに欠ける人物であるとか、エリートだから市井の弱い女性の気持ちはわからないとか、そういったことがウィークポイントになってしまうんじゃないかと思っているんですが、それがすごく不思議なんです。だから私は結構モモおばあさまに肩入れをしていて、この人はこの人で大変だったんだよという気持ちでも書いていました。
あと、私もこういう作風の作家なので、ジェンダーやフェミニズムについて取材も受けるんですが、そこで求められるのって、「いい感じに話してほしい」ということなんですよね。エンタメの作家なんだからみんながクスッと笑える範囲でいい感じで話してほしいって。シスターフッドで性暴力を解決する方法を教えてくださいと言われたこともありますが、性暴力は犯罪なので、シスターフッドで寄り添えることはあっても、解決はできないですよね。男性も被害にあうし、社会全体で変えていかないといけない。
選書のコーナーで本当に良いと思った本を持っていくと、もう選書には呼ばれないといったことも経験して、そうやって数々の失敗を経た結果、『Y2K新書』(※)に拾われたんです。
―行き着いた果てが『Y2K新書』だったと……!
柚木:だからこれも『マリはすてきじゃない魔女』とつながってる問題で、やっぱり世間的には「すてき」じゃないと駄目なんです。フェミニズムも大事だし、ありのままでいることも闘うことも大事で、声を上げることも大事だけど、「素敵なサイズ」でやってほしいということなんです。これはマスメディアの問題だと思いますが、こうしたダブルスタンダードに私は思うところがたくさんあるので、それが『Y2K新書』に全部出ているんだと思います。ボツになった話がウケていて、若い方に特に面白いと言っていただけるのはすごく嬉しいなと思っています。
―私たち自身もですが、『Y2K新書』をはじめ、柚木さんの物語や発信に元気をもらっている人は本当にたくさんいると思います。田嶋陽子さん特集もそうですが、2000年代のテレビドラマなど、いま見ると描写に少し欠点があるかもしれないけれど、フェミニズムの視点で見るとこんなに良い作品があったということに光を当ててくださっていて、すごく発見があるし、素敵です。
柚木:いまの若い世代の人たちは生まれたときからSNSがあって、コンテンツを見なきゃ、摂取しなきゃという焦りみたいなものが我々の比ではなくて、大変ですよね。毎日コンテンツを追わなきゃ推し活さえできないというところからちょっと離れてみたいという話も結構耳にします。
私は昔のコンテンツの話ばかり延々しているので、ちょっとホッとするという人も多くて。最近宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』を読んで感動したので「『推し、燃ゆ』はすごいぞ」みたいなことを言っていて、「え、いま!?」という反応が返ってくるんですが、でもそれって全然悪くないじゃないですか。人によってコンテンツを摂取するタイミングっていつでもいいし、それによって古い人間になるとか、人を傷つけちゃうってことはないと思います。
自分にとっていいタイミングでコンテンツを楽しめばいいし、自分のタイミングで知りたいことを知るというのは、意外と鉱脈を発見するチャンスなんじゃないかなと思います。みんなハマっているしちょっと気になるけど自分は違うかも、と思うこと自体はコンテンツを否定することではない。自分のタイミングというものをすごく大事にするといいんじゃないかなと思います。