Text by 岩見旦
Text by 寺西ジャジューカ
今年の大晦日に開催される『第74回NHK紅白歌合戦』に、クイーン+アダム・ランバートが特別企画で出場すると発表された。また、えらい大物の「隠し玉」を出してきたものである。今回、クイーン+アダム・ランバートに白羽の矢が立った理由は3つ思い浮かぶ。
まず、今年はクイーンのデビュー50周年である。記念すべき周年が理由づけとなり、ビッグアーティストを呼び寄せようとNHKが考えたとしてもおかしくはない。2つ目は、来年2月にクイーン+アダム・ランバートが来日し、4都市5公演のドームツアーを敢行すること。紅白出場を来日公演の営業代わりにするという算段もあるのでは? と、勘ぐってしまうのだ。
クイーン+アダム・ランバート Photo by Xavier Vila ©Miracle Productions LLP
さて、最も大事なのは3つ目の理由だ。今年の『NHK紅白歌合戦』のテーマは「ボーダレス-超えてつながる大みそか-」。もちろん、これは性差のボーダーを超えるという意味も含まれているだろう。いまだ紅白の組分けは継続中だが、「紅組司会」「白組司会」と組別の司会者を設けるシステムは廃止されている。そのコンセプトに則り、「ダイバーシティ枠」としてクイーンは適任と判断されたのかもしれない。
このような時代の流れのシンボルとしてクイーンが選ばれる風潮を、率直に言って筆者は歓迎していない。この思いには、確固たる根拠がある。生前、フレディ・マーキュリーは一度も自分が同性愛者であると明かしたことがなかったからだ。
フレディ・マーキュリー
現在、フレディが同性愛者とみなされているのは、彼の最後のボーイフレンドであるジム・ハットンが執筆した回顧録『フレディ・マーキュリーと私』が一つの大きな要因だ。すでにフレディは亡くなっていたものの、この本の出版はいわゆるアウティングに該当する。
フレディのセクシャリティは周知の事実だったかもしれない。だが、彼は自分のプライバシーを守ることに大きな力を注いでいた。
ここで、あらためて名曲“ボヘミアン・ラプソディ”に注目したい。この曲の主人公は<ママ、人を殺してしまった>と告白しながら<まだ人生は始まったばかりなのに/ときどき、生まれてこなければ良かったのにとさえ思う>と苦悩も吐露している。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』で字幕監修を務めた音楽評論家の増田勇一氏は、以下の解釈を提示した。
「この曲で彼が殺したのは、外ならぬファルーク=バルサラ(=フレディの本名)なのだとぼくは考えている。イギリス生まれの白人ではないという出自を隠し、類いまれな才能の持ち主であるにもかかわらずコンプレックスめいたものを抱えながら、セクシャリティの部分での苦悩も抱えていたファルーク。その彼が自分自身のそれまでを消し去り、フレディ・マーキュリーという新たな名のもとに生きていくことを決意したことによって、この楽曲と歌詞は生まれ得たのだと思う」(『BURRN!』2019年1月号より)
ファルークはフレディ・マーキュリーというキャラクターを演じてきた。クイーンというバンドの今の立ち位置が、本意であるのか否かは知る由もない。
これだけのアーティストが一堂に会する『紅白歌合戦』である。この顔ぶれの中に、クイーンのフォロワーらしきミュージシャンはいないのだろうか?
クイーンに影響を受けたアーティストについて考えると、その答えにはすぐに行き着く。クイーンからインスパイアされ、音楽性をクイーンに寄せようとすると、亜流……つまり、二番煎じになるのが関の山なのだ。オリジナリティが独特すぎて、単なるコピーになりかねない。すかんちのように確信犯的な手段を選ぶのが最善なのかもしれない。
クイーン
ミュージシャンに限らず、ファンはフレディからどんな影響を受け、取り込んできたか? それは、なにより「他人からどう思われようとも、自分を信じて生きる」という考え方だったはずだ。フレディは、このように発言している。
「ぼくらは素晴らしく薄っぺらだ。ぼくらの歌はビックの剃刀みたいなものでね。大量消費と使い捨て用に作られているんだよ」
クイーンがデビューした1970年代は、ロックミュージシャンのつくる音楽、そして生き方から学ぶことで人生を変えようとするリスナーが数多くいた。ミュージシャンにとって、思想とアティチュードは必須項目だった。
しかし、それらがクイーンには驚くほど欠けていた。自らのアイドル性を否定せず、ケバケバしいルックスで厚塗りなメロディを追求していたクイーンは、英国の評論家筋から顰蹙を買った。『メロディメイカー』誌から「クイーンがイギリスで成功したら帽子でもなんでも食べてやる」と叩かれたのは有名な話だ。
しかし、フレディは自分が笑われていると知りながら我が道を貫いた。フレディには、こんな語録がある。
「ぼくらの音楽は紛れもない現実逃避だと思っている。お客さんは会場にやってきて、演奏を聴いて、個人的な問題をしばらく忘れて、それでおしまい」
現代のロックミュージシャンは、啓蒙的なメッセージを発信するタイプばかりではない。時間の経過によって主義主張は古くなることもあるだろうが、娯楽をひたすらに追求したフレディの世界観は依然、いまも有効である。
「ボーダレス-超えてつながる大みそか-」という今年の紅白が掲げたテーマは「性差のボーダーを超える」という文脈よりも「他人にどう思われようとも、自分を信じて生きる」というフレディの生き方に当てはめたほうがクイーンらしいと思う。
クイーン
クイーン+アダム・ランバートは、紅白で“Don't Stop Me Now”を披露することになっている。今年、イギリスのオーディション番組『ブリテンズ・ゴット・タレント』で、とにかく明るい安村がこの曲を使い、ネタを披露したことでも知られる。また、2020年の紅白では、クイーンとYOSHIKIが“ENDLESS RAIN”でコラボしたこともあり、もしかしたら他の出演者と共演する展開もあるのかもしれない。ただ、このような演出は本当にやめてほしい。
じつは、このあたりが明かされていないのだ。イギリスからの中継なのか、NHKホールにやってくるのか(1990年末の紅白にてシンディ・ローパーは実際に来日)。
記事冒頭で「なぜ、今年の紅白にクイーン?」と疑問を呈したが、クイーンとNHKの相性はいい。日本が洋楽至上主義だった1970年代、特に「御三家」としてロックファン層を一気に拡大したのがクイーン、エアロスミス、キッスの3大バンドだった。
日本におけるキッスの人気が爆発したのは、NHKの音楽番組『ヤング・ミュージック・ショー』が来日公演を放送したからだし、当然、同番組ではクイーンも紹介されている。「御三家」が日本で大人気になったのは、NHKと音楽誌『ミュージック・ライフ』による影響が大きく、そういう意味でNHKは昔からこういうことを結構やっている。
なかでもクイーンは、京都の神社を訪れてけん玉で遊ぶ姿がグラビア展開されるなど、おおいに親日家ぶりを発揮していたものだ。今回の出場は、当時の貴重なフィルムを交えながら、インタビューとパフォーマンスの映像を流すというかたちに落ち着くと予想する。
クイーン+アダム・ランバート Photo by Brojan Hohnjec (c)Miracle Productions LLP
最後に、筆者がクイーン+アダム・ランバート出場に期待値を上げているかというと、じつはそうでもない。正直、フレディが亡くなった時点で自分のなかでクイーンは一旦「済んで」しまっており、そこからの活動はあくまでボーナストラックというか、どうしても本気になれないのだ。
アダム・ランバートが素晴らしいのは知っているが、それはあくまで別物。1992年に行なわれた『フレディ・マーキュリー追悼コンサート』にて「フレディが憑依した!?」と思うほどのパフォーマンスを見せたジョージ・マイケルもこの世にはいない。美空ひばりのようにフレディのAIを登場させてみては? なんて妄想も浮かんだが、それは現実的ではないだろう。メンバー以上にファンのほうが過去への思い入れは強いのだから、困ったものである。