2023年12月26日 11:11 弁護士ドットコム
「どうして、呼び捨てにされて犯人扱いされなきゃいけないんだ」。1984年、そう憤った一人の男性が日本の報道に一石を投じた。
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現在、メディアは逮捕された人を「容疑者」という呼称で報じる。法律上の「被疑者」にあたる報道用語だが、その歴史は意外と浅く、多くの報道機関は1989年までは呼び捨てで報じるのが普通だった。
疑問を抱いたのが、業務上過失致死の疑いで書類送検(後に起訴猶予)された一人の男性だった。男性は1984年、「呼び捨てで報じられ、名誉を毀損された」として新聞3社を提訴する。敗訴したが、裁判が終わる頃には、呼び捨て報道はみられなくなっていた。提訴から約40年が経った今、報じられた側、そして報じた側はどう考えているのだろうか。(弁護士ドットコムニュース編集部・山口紗貴子)
三重県南東部の鳥羽市。この地で1984年1月9日、ゴミ収集車に巻き込まれた清掃会社の作業員2名が亡くなる事故が起きた。ゴミ収集車の鉄製のふたを開けて作業していたところ、突然ふたが落下し、2人の作業員が上半身をはさまれて即死する痛ましい事故だった。
事態が動いたのは、約3カ月後の4月20日。鳥羽警察署はこの日、作業員が働いていた会社の社長を業務上過失致死の疑いで書類送検したことを明らかにする。
朝日新聞は4月21日付の朝刊で次のように報じた。
見出し:社長を書類送検 鳥羽のごみ収集車作業員死亡事故
本文:〈鳥羽市内で今年一月、作業員二人がゴミ収集車の鉄製のふたにはさまれ、死亡した事故で、鳥羽署は二十日、二人が勤めていた(中略)ごみ収集兼運送会社「三陸」社長品野隆史(41)を業務上過失致死の疑いで津地検伊勢支部に書類送検した〉
〈ごみ収集車にはふたを支える安全棒が付いていたが、さびついて使えなかった。品野隆史はこれを知っていたのにごみ収集車の安全点検や修理を怠った疑い〉
現在の感覚でいえば、〈「三陸」社長品野隆史〉ではなく〈「三陸」の品野隆史社長〉、もしくは〈「三陸」社長の品野隆史容疑者〉と書いたはずだ。当時はこの事件に限らず、報道機関が呼び捨てで報じることが普通で、この事件だけを特別扱いしたわけではなかったという。
朝日新聞、毎日新聞、読売新聞(当時は中部読売)などが品野さんを呼び捨てで報道する中、中日新聞だけは「社長」との肩書きをつけた。
この慣習に憤ったのは、呼び捨てにされた当の品野隆史さん(81歳・伊勢市在住)である。事故の被害者の一人は、品野さんの親族でもあった。
品野さんは「今でも事故の原因は、ゴミ収集車の欠陥だと考えています。事故の3カ月後には福岡県久留米市で、翌年にも津市で同メーカーの同種の事故が起きていますが、新聞も警察も何故かメーカーに対する調査、捜査には至らず、結局、真相はわからないままです」と話す。
書類送検は品野さんにとって青天の霹靂だった。警察から話を聞かれることはあったものの、過失について捜査を受けているとは思わずにいたという。
「報道機関に呼び捨てにされ、何か自分が大きな犯罪でもしたかのような錯覚にとらわれました。書類送検時も私への取材はありませんでしたし、起訴猶予処分になったことも報道されなかった。どこも警察の言い分ばかりで私の主張すら聞かずに、呼び捨てで犯人扱いしてきたわけです。せめて私の言い分は聞かんと。言い分あるやろ? と聞いてくれたら、それでよろしいんや」
品野さんは呼び捨てで報じた新聞3社(朝日、毎日、中部読売)と三重県を相手取り、慰謝料1000万円を求めて津地方裁判所に提訴した。「呼び捨て訴訟」などとして当時、報道と人権に関わる人たちの注目を集めた裁判となる。
品野さんの代理人を務めた中村亀雄弁護士は『法学セミナー』(1988年1号)で、訴訟に至るやりとりを振り返っている。
〈私は品野さんに、新聞は面子を重んじ、まずほとんど訂正記事は出さない、ましてや警察発表の記事は、事実が間違っていても訂正しないのが大勢であることを伝え、この種の事件では事実自体は間違っていないのだから、訂正記事の掲載はまず絶望的であることを伝えた〉
〈品野さんは、「それでは何とか裁判はできないか、何としても腹が立つ、オレを送検する警察も警察だ、何が悪くて送検するのか、発表するのもけしからん、新聞社と警察を訴えてくれ、そして訴えたという記事がのれば名誉が回復する」と述べ、結局、提起したことを記者会見して発表することが、最も有効的な名誉回復の方法だということになった〉
品野さんも「裁判で勝つのが難しいことはわかっていた。でも名誉を傷つけられるのがイヤだったわけです。裁判に負けても、裁判の事実が知られることで私の名誉を回復したいと考え、提訴することを決めました」と言い、現在も裁判を起こしたことに後悔は一切ない。
では訴えられた被告側はどう受け止めたのだろうか。
朝日新聞で記事を書いたのは、伊勢支局鳥羽駐在の3年目記者、青木康晋さんだった。後に朝日新聞出版社長・会長(2012年~2022年)となる青木さんだが、当時は伊勢支局鳥羽駐在の若き記者として取材にあたった。
事故当時は発生から間もなく、青木さんも現場に入った。
「“警電”(“警戒電話”の略称。何か事件が発生していないか警察署に定期的に問い合わせる新聞記者用語)か、鳥羽署にいて聞いたのかは記憶にないのですが、事故発生から数十分後には現場についていたと思います。私が到着した時点で、ご遺体はありませんでしたが、現場にいた捜査員や鑑識から話を聞き取り、記事にしたのだろうと思います」(青木さん)
その場で、原稿をいわゆる“勧進帳”(締切間際のとき、実際には書かずにメモを見ながら頭の中で記事を組み立て、電話などを介して出先から記事を送ることを意味する新聞記者用語)で送り、当日の夕刊に間に合わせた。
「お2人が亡くなった現場を見て、痛ましいという気持ちでしたね。夕刊記事の見出しは〈ゴミ収集車が“殺人”〉でしたが、今だったら、“ゴミ収集車で2人死亡”が妥当でしょうね。これも時代だったのだろうと思います」(同)
3カ月後、鳥羽署が品野さんを書類送検したことを公表する。青木さんはここで〈「三陸」社長品野隆史(41)を業務上過失致死の疑いで津地検伊勢支部に書類送検した〉と書いた。
「個人的には、記者として、警察に同調しなければいけない、被疑者に容赦ない書き方をすることに疑問を抱くこともありました。当時もNHKや産経が敬称をつけるなどの取り組みを始めていた頃でしたが、私は当時、記者として悲惨な現場を目の当たりにし、被害者の無念さを思えば、呼び捨てに違和感はありませんでしたね」
品野さんの提訴は「寝耳に水で、裁判は正直驚きました。これで名誉毀損となり得るのか」と、驚いたという。
被告の新聞社は裁判で、報道は公益をはかる目的であり違法性がないと主張した。
代理人の中村亀雄弁護士によれば、裁判で被告側は「警察の発表した事実を正確に報道した以上過失がない」「被疑者の呼び捨ては数十年にわたる慣行であり、社会通念である」「匿名にすると逆に無関係の人々が疑われる弊害が生ずる」「公益をはかる目的だから違法性がない」などと主張したという。(出典:『法学セミナー』1988年01号)
一審の津地裁は1988年7月22日、「記事は捜査当局の公表に基づいており、名誉を毀損する内容ではない」として、訴えを棄却。
続く控訴審でも、名古屋高裁が1990年12月13日、一審判決を支持し、控訴を棄却した。
高裁の判決では「実名報道は本人にとって名誉ではないとしても、当時の実名原則の報道の実情からみて違法ではない。呼び捨て報道は慣行とは認められないが、被害者の心情や市民感情を無視できず、当時の社会通念として違法性があったとはいえない」とした。
1993年3月2日、最高裁第三小法廷は「報道に際し、実名により、かつ呼び捨ての形で表記した点に違法性は認められない、とした二審の判断は正当として是認できる」として、一審、二審判決を支持、上告棄却した。品野さんは敗訴となった。
結果をどう受け止めたのだろうか。原告の品野さんは「体制に応じた判決でしかない。慣例だからと惰性でやっている報道機関に“間違っているんや”と言って欲しかったですね」と今も悔しさが残るという。
一方の青木さんは伊勢支局鳥羽駐在を経て名古屋本社社会部、東京本社政治部に異動。最高裁の判決が確定したのは、政治部記者時代だった。政治家の自宅へ朝駆けする車の中で、朝刊を読んで知ったという。34歳になっていた。
「負けるとは思っていませんでしたが、ホッとしましたね。被告は会社ですが、自分の書いた記事で裁判になったのは長い記者生活であの一件だけですから」
いま振り返って、当時の呼び捨て報道について青木さんはどう考えているのだろうか。
「あの時の呼び捨て判断が間違っていたかと言われると、そうは思いません。事業主、経営者は労働安全衛生法に基づき、安全配慮義務を負っているわけで、私ものちに経営者になって責任を痛感しました。法令違反をした疑いがあるとして書類送検された時点で、記事にすることは当たり前だったと思います。呼び捨てにしたことも、報道の通念として当時は普通のことでした」
品野さんは裁判では負けたが、同時期に報道と人権問題への対応を協議してきた報道機関側も、徐々に呼び捨てをやめる方向に舵を切っていく。1984年にはNHKやフジ、産経新聞が呼び捨てをやめ、1989年秋からも多くの報道機関が事件・事故報道において原則として「容疑者」の呼称を付けるようになったのだ。
「私は事件記者ではなかったですが、最高裁の判断が示されるまでの約10年間、社会意識やメディアの犯罪報道に対する変化は大きかったように思いますね。それまでは警察に捕まった人は犯罪者という厳しい目で見ていたけれども、推定無罪の原則に立ち返ろうという機運になっていったんです」(青木さん)
専修大学ジャーナリズム学科の山田健太教授は「1980年代はワイドショーの開始や写真週刊誌の創刊などで、事件事故の報道が量的に拡大し、質的にも様々な問題が発生した時期でした」と指摘する。
「これを受け、80年代半ばから90年代にかけてはメディア側が自主規制、ある種の倫理向上のための様々な具体的施策を次々に打ち出した時期でもあったのです。その目に見える第1弾として、1984年にNHKやフジ、産経新聞が『呼称つき』報道を開始、1989年にその他の各報道機関も一斉に呼び捨てをやめて『容疑者』呼称を始めました。インパクトもあり一定の評価もされた一つの事例ですね。
法令用語では『被疑者』であるけれども『犯人ではない』と伝えるために、わざわざ『容疑者』という用語をメディアが新しく用意して作り出しました。当時は容疑者という呼称には、『私達は決して犯人視していませんよ』『単に容疑があるだけであって、決して怪しくありませんよ』という強い思いがありました」
こうして生まれた「容疑者」だが、原告の品野さんは今も納得していないという。
「なんで“容疑者”なんや、と。疑いがあるということやからね。マスコミだって警察の発表に基づいて、自分たちの推量で書いてますんや。判決が下りてから報じてもいいのではないですか」
呼び捨て報道訴訟から約40年、容疑者という表現に「犯人視していない」という意図を感じる読者や記者は少数派ではないだろうか。実名報道の是非や肩書き、呼称のあり方について、改めて考えていく必要があるはずだ。