Text by 生駒奨
Text by 稲垣貴俊
Text by 加藤春日
いま、台湾映画がおもしろい。日本でもNetflix週間視聴ランキング1位になるなど注目を集めたホラー映画『呪詛』(2022年)、衝撃のバイオレンス描写で話題の『哭悲/THE SADNESS』(2022年)、岡田将生&清原果耶主演の日本版リメイクも製作された『1秒先の彼女』(2020年)など、さまざまなジャンルから数々の名作・力作が発表されているのだ。
そんな台湾映画界で、いまもっとも重要なクリエイターのひとりがギデンズ・コー(九把刀)である。長編監督デビュー作『あの頃、君を追いかけた』(2011年)は、興行収入4億2500万台湾ドル以上の大ヒットを記録し、台湾映画をそれ以前の低迷期から救ったともいわれる。同作は日本でもヒットし、2018年に山田裕貴&齋藤飛鳥共演のリメイク版が製作された。
クセのあるキャラクターたちが織りなすパワフルでエモーショナルなストーリーと、笑いを重視する作風は、自らを「スラムダンク世代」と呼ぶギデンズが、日本の漫画やカルチャーに大きな影響を受けてつくりあげたもの。日本ならば宮藤官九郎、アメリカならマーベル映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズのジェームズ・ガンにも通じるユニークなストーリーテリングが、幅広い観客の心をつかんでいる。
2023年12月22日(金)に公開される『赤い糸 輪廻のひみつ』は、そんなギデンズの魅力がぎゅっと詰まった一作だ。本国では『呪詛』やマーベル映画『エターナルズ』(2021年)をしのぐメガヒットとなった話題作で、台湾映画ファンにとっては待望の日本上陸。権利の都合上、残念ながら日本ではソフト化や配信の予定がないため、今回の劇場公開はきわめてレアな機会となる。
CINRAでは、2023年10月に『TAIWAN MOVIE WEEK(台湾映画週間)』のため来日したギデンズに単独インタビューを実施。翌11月の『第36回東京国際映画祭』でも取材を継続し、作品と創作の魅力や、現代台湾映画の独自性を聞いた。
ネット小説家として創作活動をはじめたギデンズは、その作家としてのスキルを武器に、変幻自在なジャンル映画のクリエイターとして登場した。初監督作『あの頃、君を追いかけた』は、自らの青春時代を綴った伝記的小説の映画化で、1990年代の台湾・彰化市を舞台に、高校生たちの甘酸っぱい恋とその顛末を描いたラブストーリーだ。
第2作『怪怪怪怪物!』(2017年)では、作風をダイナミックに変化させた学園ホラーに挑戦。いじめっ子の少年たちが、偶然出会った「怪物」におもしろ半分で恐ろしい拷問を加えてゆく物語は、人間の悪意と暴力の構造をえぐり出す衝撃的なテーマ性もあいまって、日本でもカルト的人気を博している。
そして『赤い糸 輪廻のひみつ』は、ギデンズが再び恋愛映画に回帰したファンタジックラブコメディだ。主人公の青年・シャオルンは、落雷事故によって命を落とし、冥界にて縁結びの神様である月下老人=「月老」となった。転生に必要な条件を満たすため、彼は相棒の少女・ピンキーと人々の縁を結んでゆくが、ある日、1頭の犬が現れたことで生前の記憶を取り戻す。それは初恋の相手、シャオミーとの果たされていない約束だった……。
「恋愛」「ホラー」「ファンタジー」といったジャンルそのものを、ギデンズの映画は軽やかに遊んでみせる。そんななかでも、本作は彼が「いままでにつくった映画で一番気に入っている」と豪語する一作だ。ポップかつダークな世界観、ピュアで切ない恋愛描写、ケレン味あふれる演出、突き抜けたユーモアなど、これまで培ってきた要素が絶妙にブレンドされている。
ギデンズ・コー(九把刀)
1978年生まれ、台湾・彰化出身。作家、脚本家、映画監督。愛犬家としても知られる。1999年からインターネット小説を発表し始め、ジャンルはラブストーリーやファンタジーからホラーに至るまで多岐にわたる。自伝的小説を自ら改編、監督した長編映画『あの頃、君を追いかけた』が大ヒットを記録。2013年には、製作総指揮を担当した保護犬の殺処分を巡るドキュメンタリー映画『十二夜(原題)』(YouTube 公開中)が話題となり、台湾社会に大きな影響を及ぼした。その他の監督作品に『怪怪怪怪物!』(2017年)など。監督3作目となる『赤い糸 輪廻のひみつ』では第24回『台北映画祭 最優秀監督賞』を受賞した。
―監督が、この『赤い糸~』を自身のキャリアで「一番気に入っている」という理由を教えてください。
ギデンズ:この映画には、「今回失敗したら、もう二度と映画を撮れないかも」と覚悟して臨みました。なぜなら、前作『怪怪怪怪物!』の興行収入が、『あの頃~』の約10分の1という散々な結果に終わったからです。『怪怪怪怪物!』は、僕自身が私生活のスキャンダルでバッシングを受けた当時の気持ちや、メディアに対する怒りを、「怪物」というテーマで思いきり表現した作品でした。しかし、数字は残酷でしたし、ファンの方々もすぐに離れてしまうことを学んだ。自分への罰が下ったのだと思いました。
その後、この『赤い糸~』を撮る機会に恵まれたわけですが、過去最高額の投資を得られたこともあり、今度こそ失敗は許されないと思いました。そこで今回は、自分の怒りを手放そう、むしろ愛をもって表現しなければいけないと考えたのです。
劇中で一番気に入っているのは、主人公のシャオルンが、とある人物にひざまずく場面。中華圏において、人の前にひざまずく行為は非常に重大で、そう簡単にできることではありません。しかし、誰かがそうしなければ事が収まらない……中華圏の映画でそんな展開はめったに見ませんし、僕も初めて描いたものです。この部分をきちんと表現できたのは、自分の心境に変化があったからだし、おかげで良い映画になったと自負しています。
―今回もご自身の小説が原作ですが、自ら作品を映画化するうえで気をつけていることはありますか?
ギデンズ:小説を映画にするときは、少なくとも30回、多ければ数百回にわたって脚本を書き直します。映像にふさわしいかたちでブラッシュアップする必要がありますし、参加してくれる方々や製作コストにも関わるので、細かく修正を重ねなければなりません。
自分ひとりで執筆するネット小説には、「責任を取らない自由」があると思います。読者を惹きつけるために伏線を残したり、あえてそれらを放置したりする。書きながら設定の矛盾を解消し、物語の辻褄を合わせるのが小説の醍醐味であり、また難しさなのです。しかし、それは自分ひとりの作業だから許されること。映画は共同作業である以上、展開の必然性も考え直しますし、物語の語り方にも違いが生じてきます。
ギデンズの描く登場人物は、いつもある意味で社会の多数派やメインストリームからはじき出されたアウトサイダーたちだ。そして、彼らはつねになんらかの後悔を背負っている。あの恋を成功させる道はあったはず、もっといい青春時代がありえたはず、自分の願いを叶えることもできたはず……。そんな不本意な経験を生きる人々を、ギデンズは肯定し、ときには彼らの逆襲まで描く。
日本で人気の台湾映画監督といえば、1980年代から90年代に活躍した『牯嶺街少年殺人事件』(1991年)のエドワード・ヤンや、『悲情城市』(1989年)のホウ・シャオシェンらが挙げられる。当時の社会問題や台湾人の日常をダイレクトかつシリアスに描いた「台湾ニューシネマ」を牽引した彼らと、ポップでカラフル、そして個人的なギデンズの作風は大きく異なるものだ。しかし不思議なことに、彼らのあいだには「台湾映画」としての共通点を見出すことができる。
―監督の作品には、不本意な人生を歩む者や、虐げられてきた者たちが登場し、ときに逆転を賭けた勝負に出ます。その姿が、台湾が歴史的に他国の統治を受けてきたこと、不本意な歴史のなかで自分たちの歴史や文化を形づくってきたことに、時折重なって見えるのです。
ギデンズ:たしかに。ご存知のとおり、台湾は悲しい歴史を歩んできました。台湾人たちは、その時代の統治者たちによって同化を図られ、間違った歴史認識を植えつけられたこともあったと個人的には認識しています。そして台湾では、そのようなテーマを扱った映画もたくさんつくられてきました。
しかし僕自身は、真正面からそういった映画を撮るのではなく、自分ならではの表現方法で、かつ台湾ならではの映画言語で作品をつくりたいと考えています。
ギデンズ:『赤い糸~』で冥界に長く閉じ込められている、グイトウチェン役のマー・ジーシアン(※1)は、台湾の原住民族(※2)であるセデック族やサキザヤ族にルーツのある方です。あまり強調してはいませんが、冥界の閻魔王を演じたのもセデック族出身のラカ・ウマウ(※3)。台湾にとって最初の住人は、やはり漢民族の人々ではなく原住民の人々なので、キャスティングにもそのことを反映したいと思いました。
また、次回作『功夫(原題)』の脚本では、中国語ではなく台湾語を多用しています。台湾の公用語は中国語ですが、それは蒋介石が中華民国の政府を台湾に移したあとに決まったもの。それ以前から台湾人が話してきた台湾語(台語)は公用語として認められず、それどころか無教養な人々の下品な言葉として扱われるようになりました。映画のなかでさえ、笑いを取るキャラクターが話す言葉として蔑まれてきたのです。
しかし、台湾語には台湾ならではの美しい響きがある。その美しさを、なんとか映画の表現として成立させたいと考えています。
―日本ではエドワード・ヤンやホウ・シャオシェンなど、台湾ニューシネマ時代の監督の人気が根強い一方、残念ながら、現代の目線で台湾の歴史や文化に取り組む作品が認知されにくい状況にあります。ご自身は、台湾ニューシネマの監督たちや、台湾の映画史をどのように意識していますか。
ギデンズ:エドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の想い出』(2000年)は大好きな映画です。ひとりの映画ファンとして、僕はいろいろなジャンルの映画が大好きなんですよ。しかし映画監督としては、巨額の投資を受けて映画を撮る以上、作品の振れ幅をやたらと大きく広げることはできません。そこで必要なのが「自分の作品をつくるのだ」という自覚です。
僕自身の強みであり、また弱みのひとつは、自分のオリジナリティを強く信じてきたこと。「オリジナルの作品なくして成功はありえない」とつねに考えてきました。もちろん、先輩方の作品は大好きです。しかし僕たちの世代は、先輩の影を感じさせない、そして先輩とは異なる、新たな映画シーンをつくっていると自負しています。
―先ほどおっしゃった「台湾ならではの映画言語」とは、監督にとってどのようなものですか?
ギデンズ:台湾の映画人を代表して、僕が「台湾ならではの映画言語とはこういうものだ!」と言い切るのはやはり抵抗がありますね(笑)。ただし日本や韓国と比べると、残酷な表現や恐ろしい演出がマイルドな点は「台味」(タイウェイ、台湾らしさの意)のひとつと言えるかもしれません。海外映画のほうが、よりエッジの効いた表現にチャレンジしていますよね。
ギデンズ:抽象的すぎるかもしれませんが、僕がもっとも「台味」を感じるのは、「啊(あ)?」という印象を受ける映画です。台湾人は驚いたときに「啊?」と言うのですが、そこには「何?」「えっ?」という、褒めも貶しもしない微妙なニュアンスがある。そんな、言葉にできない「啊?」の精神が「台味」だと思うのです。外国の方は、台湾人にいきなり「啊?」と言われると怒られたような気分になるそうですが……その感覚がなくなったら台湾通ですね(笑)。
個人的なモチベーションで創作に取り組み、自身のオリジナリティを追求するギデンズは、意外にも理論派ではなく、あくまでも感覚的に作品を手がけているらしい。いくつもの作品に共通する特徴について尋ねてみると、「恥ずかしながら自分では無自覚なので、作品の批評や感想を聞いて驚くことが多いんです」と答えてくれた。
たとえば持ち前のユーモアセンスを駆使し、いろいろな意味でギリギリの笑いを投入する一面は、エンターテイナーとしてのサービス精神の表れだろう。「おかしな人たちをどうしても登場させたくなる」というクセは、アウトサイダーを描き続けてきた作風に直結しているが、しばしば怒られることもあるという。
『赤い糸 輪廻のひみつ』に登場する「月老」たちは、それぞれが個性を発揮して劇中を彩る ©️2023 MACHI XCELSIOR STUDIOS ALL RIGHTS RESERVED.
―『赤い糸~』にはラブコメやアクション、ミステリー、オタク文化などさまざまな要素が詰まっており、まったくトーンが異なるシーンが調和しています。ご自身の作風やスタイルを、どのような意識でつくりあげてきましたか?
ギデンズ:自分のスタイルや方法論を特別に意識したことはないので、やはり無自覚な部分が大きいと思います。『あの頃~』をつくったときは、主人公たちが授業中にとんでもない行為をする場面に、「子どもが真似したらどうするんだ」とたくさんのお叱りをいただきました。内心は「こんなに下品でくだらないこと、誰がやるんだよ」と思っていましたが、どうやら本当に真似をした子たちがいて問題になったらしい。創作には細心の注意を払わなければいけないんだ……と思いましたが、じつは『赤い糸~』でもよく似た出来事がありました(笑)。
結局、僕はどんなものであれ、そんなふうに「描いてしまう」のだと思います。自分の考え方や精神状態が、どうにも隠しきれないまま作品に表れてしまう。男性キャラがいわゆるおバカな設定になりがちなのも、小さいころから「男性よりも女性のほうが賢いな」と思っていることの表れだと思います。
映画をつくるといろいろな批判も受けますが、これまでの人生で培ってきたことや、いまの自分が考えていることを表現し、批評家や観客の皆さんのフィードバックを受けると、自己理解も深まっていきます。まるで「あなたはこういう人間なんですよ」と教わっているようで、反省ばかりの日々ですね(笑)。