2023年12月17日 09:41 弁護士ドットコム
「失われた30年」の象徴として、賃金が上がらないことが、たびたび指摘されている。岸田文雄首相も、経済界に対して、「私が先頭に立って賃上げを働きかける」との意気込みを見せているが、気になるのは、トップダウンで動きを起こそうとしていることだ。
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元来、賃上げは集団であれ、個人であれ、労働者側から求めるもののはずだ。しかし、労働組合は組織率が低下していることに加え、もともと労働組合が存在しない企業も多く、賃上げの声をあげようにも、そのための手段が乏しいのが現実だ。
日本の雇用のあり方について、様々な見直しを求める声はあるが、労使の関係については、「空白地帯」が広がっているとも言える。労働政策研究・研修機構の呉学殊・特任研究員は「労使が対等でないと、公正な価格形成はできない。対等ではない労使関係が『失われた30年』をもたらした。これを変えようという動きも乏しい」と警鐘を鳴らす。呉氏に聞いた。(新志有裕)
日本の労働組合の組織率は低下の一途をたどり、厚労省のまとめによると、2022年は16.5%で、20%を切っている。その理由について、呉氏は次のように指摘する。
「組合員数だけをみると、1000万人前後であまり変化はないのですが、非正規労働者が増えて、雇用労働者全体の数は増えています。しかし、非正規労働者を組合に取り込めていないため、組織率としては低下が続いているのです」
欧州などのように、産業別に構成されて労使交渉をする「産業別組合」とは異なり、日本の場合は、「企業別組合」による安定した労使関係が、高度経済成長の発展のエンジンになってきた。しかし、呉氏は、今となっては悪循環が生まれていると指摘する。
「日本の場合、とにかく労使関係の安定ばかりを重んじるようになりました。ストライキが起きないよう管理することが一番大事だということで、紛争も起きなくなってしまいました。半日以上のストライキは年間たったの30件しかありません」
低い組織率と安定しすぎた関係性が、労使の間の緊張感を失わせて「対等な労使関係の空白地帯」が生じている。
さらに、企業別組合が基本の日本企業にとって、中小企業のように、労働組合が存在しない企業の場合、そもそも労使交渉がまともに行われず、対等な労使関係を築くことが難しい。
労働基準法2条では、「労使の対等原則」がうたわれ、労働組合の存在しない企業でも、労働基準法で定められた「36協定」(本来は違法である残業を可能にするための労使協定)の締結などでは、従業員の「過半数代表」が、労働者側を代表して交渉する仕組みがある。しかし、選出プロセスを含めて、ほとんどの企業では機能していないという。
「もともとは、労働組合がない企業でも労使の対等な関係での交渉をするための制度ですが、完全に形骸化しています。管理監督者がなるのはダメ、選出目的の明示、投票や挙手等の民主的な手続き、使用者の意向に基づかずに代表者を決める、といった要件がありますが、事例調査をすると、きちんと選出している企業は限りなくゼロに近い」
そもそも使用者側にも労働者側にも制度が理解されておらず、36協定の締結などで必要だからということで、「仕方なくやっており、行政的な手続きにすぎない」のだという。
呉氏は「労使関係の対等性のためには、従業員の過半数を占める『過半数組合』があることが一番いいのですが、今存在している『過半数代表』がその役割を担うことは困難であり、賃上げにはその役割さえも与えられていない」と語る。「労使交渉による賃上げは全く期待できない」と断言する。
この「過半数代表」に代わり、対等な労使関係を実現するための方策の一つが、労組がない企業でも、労使交渉の常設機関をもうける「従業員代表制」という仕組みだ。2008年の労働契約法施行にともなって、2006年に連合が、「労働者代表法要綱骨子(案)」として、導入を提唱している。
連合案では、
・10人以上の労働者がいる事業場で、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合、労働者代表委員会を設置しなければならない
・10人未満の労働者がいる事業場では、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合、労働者代表員を置かなければならない
・過半数組合がある事業場では、その過半数組合を労働者代表委員会とみなす
としている。過半数組合が成立した場合は、労働者代表委員会は解散することになっており、組合とのバッティングを回避する。
使用者の方針に追随する「過半数代表」とは異なり、労使で定めた幅広い項目について協議する。呉氏は、すでに導入されている韓国の事例が参考になるという。
韓国では、1980年に制定された「勤参法」(勤労者参与及び協力増進に関する法律)と呼ばれる法律に基づいて、30人以上の従業員がいる企業には「労使協議会」を設置しなければならない。委員は労使同数で、3カ月ごとの定期開催が義務付けられている。
議題としては、生産性向上と成果配分などの16項目の協議事項や、教育訓練・能力開発についての5項目の議決事項、経営計画全般と実績に関する4項目の報告事項がある。日本の「過半数代表」にはない賃金交渉も含まれているのが大きな特徴だ。
「ドイツのような産業別労働組合が主体の国でも導入されていますが、韓国は日本と同様に企業別組合が主体の国で、日本よりもさらに労働組合の組織率が低い(2021年で14.2%)という特徴があります。韓国の労使協議会は、あらゆることが協議の対象になります。会社側も、組合結成につながることを恐れて、協議会での交渉をきちんとやろうとします。何よりも、会社の業績がきちんと報告されて、企業経営が透明化されることに大きな意義があります。また、労働者の経営や人事労務管理への参加性、主体性の発揮、納得性の確保もされています」
日本でも、呉氏が所属する労働政策研究・研修機構において、2009年の民主党政権発足後の2011年に集団的労使関係法制についての研究会が立ち上がり、2013年に報告書も出ていたが、2012年に再度自公政権に戻ったことの影響もあったのか、制度導入に向けた議論は止まっている。
しかし、このままでは労使関係には「空白」が生じ続けることになり、今の自公政権が進める「上からの」賃上げが実現しない場合、さらに停滞が続く可能性がある。呉氏は警鐘を鳴らす。
「法制化は今後も簡単ではありませんが、労使コミュニケーションは経営資源です。労使コミュニケーションがしっかりすることで、業績悪化による経営危機を経験せず、技能や効率、意欲が高まり、チームワークも、離職率の低下も機能します。経済成長の時代であれば、労使コミュニケーションが低調だったとしても、不都合は感じなかったかもしれませんが、低成長時代では、労働者の力が弱いと賃金は限りなく停滞するか下がります。いまのままだと労使コミュニケーションの経営資源性が発揮されていません。このままでは日本はさらに衰退してしまいます。労使関係を対等にすることで、この悪循環を変える流れを作らないといけない」
賃上げについては、一律ではなく、個別化が進んでいる面もあり、使用者と労働者との間での個別の交渉や、労働者が転職をする際の交渉といったことも重要ではあるが、呉氏は、個人の働き方や労働市場の流動化に委ねてしまうのではなく、「労使の対等性の確保」が重要だと主張する。そのためにどうすればいいのか、今はあまりにも議論が乏しい。
【プロフィール】 呉 学殊 (オウ・ハクスウ) 労働政策研究・研修機構 特任研究員 東京大学大学院博士課程人文社会系研究科修了、社会学博士。1997年より労働政策研究・研修機構研究員。専門は、産業社会学・労使関係論。著書として『労使関係のフロンティア』、『企業組織再編の実像』がある。