Text by 松永良平
Text by 山元翔一
Text by 安仁
Text by 阿佐ヶ谷Roji
シンガー / ソングライター見汐麻衣、初の著作となるエッセイ集『もう一度猫と暮らしたい』が、2023年5月の発売以来、各地の書店でひそかなロングセラーとなっている。
2009年ごろから彼女が書き溜めていた30数篇のエッセイに書き記されているのは、彼女の幼いころの出来事への淡くビターな追憶や端正に選び抜かれた美しい言葉だ。ミュージシャンとしての彼女のありように惹かれた人以外にも読者が広がっているのは、30代から40代へと自分のやるべきこと、やりたいことを考えながら表現者として生きてきたひとりの人間(あえて女性と言うか)の眼差しが響くからだろう。
『もう一度猫と暮らしたい』の帯にコメントを寄せた小泉今日子も、見汐のそんな文章に心動かされたひとりだ。そして、見汐も幼いころから、歌手、俳優、プロデューサーなどさまざまなかたちで表現に関わり続けてきた小泉を意識し、自分の少し先を生きるロールモデルのようにリスペクトしてきたという。
見汐が著した一冊の本を通じて出会ったふたりが語りあう、自分のこと、目の前にいるあなたのこと、そして表現者として40代、50代を生きてゆくこと。さりげなく大切なことを話した初めての対談をお送りする。
見汐麻衣(みしお まい)
シンガー / ソングライター。2001年、埋火(うずみび)のボーカル、ギタリストとして活動を開始。2014年に解散後、石原洋プロデュースによるソロプロジェクトMANNERSを始動、その他ミュージシャンのプロジェクトに参加する一方、Mai Mishio With Goodfellasにて活動。映画、演劇、CMへの楽曲提供、エッセイ・コラム等の執筆なども行なっている。2023年5月、初エッセイ集『もう⼀度 猫と暮らしたい』を発表。11月29日に3作連続7EPリリースの3枚目『無意味な電話』が発売された。
小泉今日子(こいずみ きょうこ)
1982年、歌手デビュー。俳優として映画や舞台に多数出演し、執筆家としても活躍。2015年より株式会社明後日を立ち上げ、舞台・映像・音楽・出版など、ジャンルを問わずさまざまなエンターテイメント作品をプロデュース。2021年には上田ケンジとともに音楽ユニット、黒猫同盟を結成。音楽を通じて猫の保護活動を応援。2022年にデビュー40周年を迎えた。
小泉:ふだん行く本屋さんでも、『もう一度猫と暮らしたい』をよく見かけます。「売れていて、再入荷したんですよ」って言われたこともありますね。あと、福岡のボギーさんとか、いろんなところから(見汐の)噂をよく聞きます。「飲んだらおもしれえぞ、あいつ」って。まあ、私も人のことは言えないんですけど(笑)。
見汐:ボギーさんは20代のころから交流があります。今年、一緒にライブされていましたよね。
小泉:黒猫同盟のツアーで、ボギー家族と合体して福岡と広島でやりました(※)。でも、こうやって見汐さんと出会ってみると、なんか不思議とつながってたんだなというのがありますよね。
見汐:はい、あります。
─見汐さんは、以前から「小泉今日子に会いたい」と公言していたんです。それも、「自分の作品を通じて、認められて会いたい」と。
見汐:はい、そうです。私にとって「キョンキョン」は子どものころから見ていた人で、ずっとブラウン管のなかの人という存在だったんですけど、たとえばコンサートに行って出待ちして「握手してください!」じゃない出会い方をしたいなと思っていました。自分の作品を介して出会えたらいいなと思い続けていたことが現実になって、すごくうれしいです。
取材は見汐の行きつけの阿佐ヶ谷Rojiで行なわれた
小泉:はい。本、すごくよかったです。デザインや装丁を含めて大事にしたい感じで。
見汐:ありがとうございます。
小泉:エッセイを読んでると、知らない人なのにどんどん(その人を)知っていくじゃないですか。好きなエッセイって毎回そういう不思議な気持ちになりながら読むんだけど、この本は、若いころに友だちとまったり夜中に話してたら日が昇ってきて「ああ、朝になっちゃった、寝るか」みたいな気分になりました(笑)。
見汐:すごくうれしいです。ライフログとして文章を書いていた当時は、本を出すなんてことは考えてなかったんです。去年の夏、ご縁が重なって本に出す話が具体的になった際に、編集の花井優太さんに「帯はどなたかに頼みますか?」って聞かれたので「小泉さんがいいです」って即答したんですけど、「無理かもしれませんよ」って言われて。
小泉:そうなの?
見汐:ほかに候補の方がいるかと聞かれて、「小泉さんがダメだったら、帯のコメントは要らないです」って答えました(笑)。なので、引き受けてくださったことはすごくうれしかったです。
小泉:そういうのってありますよね。私はそういうとき、「いつか絶対、何かしらのかたちで出会う人だったんだろうな」って思う。そしてそれはたぶん、無理して会おうとしなかったから。そういう運命ってある気がする。
見汐:私もそう思います。自分のこれまでを振り返ってみても、そういうふうにして会いたい人には会えてきているので。
小泉:出会うまでのプロセスがお互いに必要で、それが整ったらこうして自然と会えるんだろうなというのは私も感じる。今回の見汐さんとの出会いもそう。
見汐麻衣『もう一度猫と暮らしたい』書影(詳細を見る)
─さきほど、小さいころにテレビで見た「キョンキョン」が好きになったと見汐さんは話してました。同じような体験をしている人も多いと思うんですが、やがてアイドル歌手としての活動だけでなく、「表現者としての小泉今日子」に惹かれていきますよね。見汐さんにとっては、小泉さんのどういうところが自分に入ってきたんですか?
見汐:私が初めて「小泉今日子」を認識したのは、映画『ボクの女に手を出すな』(1986年公開、監督は中原俊)でした。主題歌の“木枯しに抱かれて”がすごく好きで。ひとりでバスに乗って映画館に行きました。6歳か7歳、小学校1年生だったと思います。
小泉:小1だったの?
見汐:はい。それが最初です。80年代の小泉さんは私にとっては「テレビのなかで歌ってる人」だったんです。歌手でアイドル。90年代に入ったら、今度はドラマでよくお見かけするようになりました。
その時期の曲でも好きな歌はたくさんあるんですけど、少しずつ「あれ? この人、ほかのアイドルとはちょっと違うな」と思いはじめたのは私が高校生になったくらいかな。
見汐:私自身が飽き性でひとつのことだけと決めて無心に取り組むと長続きしなくて、歌手や俳優といったひとつのことをやるタイプではない小泉さんの仕事のあり方が、当時の自分には「なんだかかっこいい人だな」と感じられたんです。
私がすごく敬愛する音楽家で、山本精一さんという方がいらっしゃるんですが、山本さんも自分が音楽をやるにあたってひとつのジャンルにとらわれずにたくさんのバンドで活動したり、絵を描いたり、本を出したり。自分のやれること、やりたいことを決めつけない。以前「やりたいこと全部やったらええねん」と言われたこともあって。だけど私は「自分はこれと決められない」ことがダメなことのように感じていた時期もあったんです。
小泉:そういうときあるよねえ。
見汐:小泉さんも山本さんも、作品を通じて「ひとつに決めなくていいんだ」ということを感じさせてくれたし、「こういう生き方もあるんだ」と自分が勝手に受け取ったというだけなんですけどね。
小泉:私がひとつのことに長けてたら、そこを突き詰めてゆくこともできたと思うんです。実際そういう人たちがうらやましく見えてたしね。
小泉:アイドルという世界にも、圧倒的な声の持ち主である松田聖子さんがいて、圧倒的な世界観の中森明菜さんがいて、ほかにもたくさんうまい人たちがいた。私は最初から俳優にも興味があったから久世(光彦)さんのドラマに出させてもらったりしていたけど、そこにも田中裕子さんなど演技がすごい人たちがいて、終わったら「すみませんでした」みたいな気持ちですごすごと帰ってゆく自分がいました。そういうことはどこに行ってもあったんですよ。
だからこそ、質より量じゃないけど、いろんなことができるように一つひとつ勉強したり考えたりして、いつかは追いつけたらいいなという感じでやってた。その結果ここまでこれた感覚なんです。でもたしかに、ここまできて周りを見渡してみると、こんなにいろんなことをやってる人はあんまりいない。「意外と頑張ったのかな」っていまは思ってます(笑)。
見汐:16歳でデビューされて、20代、30代、40代、50代と作品を介して小泉さんを見てきたなかで、恐縮ながら自分のあり方のロールモデルとしているというか。「自由に生きていてかっこいいな」といつか直接言えたら、と思ってきたことが、いま面と向かって言えてる! 自分にびっくりしています(笑)。
小泉:そうですねえ。いろんなことをやってきたけど、周りから見たら問題児でもあったと思うんです。
小泉:言うことを聞かないわけではないけど、交換条件を出したりするえげつないタイプ(笑)。本当はやりたくないオファーがきたときは、逆にチャンスと思って「じゃあ、これやっていいですか?」って交渉する。
「忙しいのは私だけだからいいですよね?」という感じで両方を取ってた。自分がやりたいほうだけ選んでたら絶対に反対されるから、両方やるずる賢さがありました。タイムマシーンがあったら、10代の私を褒めてあげたいと思う(笑)。
小泉:私、何かに対して「こうだ」って決めつけるのも、決めつけられるのも、本当に息苦しいんですよ。デビューするときも「アイドル」って辞書で調べて「『偶像』って書いてあるけど!」みたいな感じだった。
でも逆に、偶像なんだから、どんな曲を歌っても、どんな服を着てもいいんじゃないかなとか、そういうことを考えながら、ルール違反にはならないけど抜け道みたいなものをいつも探してた。それがすごくおもしろかったんです。だから毎回どんな仕事を引き受けても抜け道を最初に探してる。そういう感覚はありますね。
見汐:仕事のなかで無意識に抜け道を考えていたってことですか?
小泉:そうだと思う。やっぱり私、言葉が好きだから、ひとつの意味で言葉を決めつけてる人をすごく気持ち悪く感じちゃう。言葉の本当の意味を一所懸命探すと、じつはもっと自由だという気がしてたから、そういう意味での「抜け道」を探していたという感覚だったのかな。
小泉:アイドル時代にツアーをしているときも、当時は携帯もないし、ホテルの外にも出られない。だからいつも本と辞書を持って、知らなかった言葉とか読めるけど意味は考えたことがなかった言葉を全部ノートに書き出したりして、それがすごく楽しかった。言葉って本当に発明なんだなとよく思うんですけど、そういう感覚は、ホテルの部屋にひとりでいる時間に培われたなとはよく思ってます。
見汐:エッセイ集『黄色いマンション 黒い猫』(2016年)にも、本をたくさん読んでいたエピソードを書かれていましたよね。
小泉:『もう一度猫と暮らしたい』にも「言葉の発明がいっぱいあるな」と思えて、読んでいてすごく楽しかったんですよ。エッセイのタイトルにあった「淡交」という言葉もいいですよね。言葉としてすごい発明だなと思った。
─淡い交わりっていいですよね。「淡交」は今回の本のタイトル候補にもあがっていました。
小泉:中学生くらいのころ、友達同士で新しい言葉つくったりしてました。3、4人くらいのあいだだけで流行る言葉とか。「キョンキョン」もそうで。
私が子どものころ、上野動物園にパンダのランランとカンカンが初めてきたんですけど、そのころに女性雑誌の『anan』もあって、繰り返す言葉が流行ってたんですよ。近所のおばさんが急に私のことを「キョンキョン」って呼んだんです。そのあとに「Kyon2」や「Kyong King」に進化したり、そうやって言葉で遊ぶのがずっと好きなんだと思う。
─そういえば見汐さん、7月に小泉さんがプロデュース/主演された舞台『ピエタ』を観に行きましたよね。
見汐:はい。後半は泣くのをずっと我慢していました。
小泉:女性は込み上げてくるものが結構あったみたいですよ。『ピエタ』は原作を読んだときから、どうしても舞台にしたいと思ったんです。女性が観たとき、すごく心が豊かになるような作品にできるなと思った。
みんな少女だったわけじゃない? そのころに光る石を素敵だと思ったり、お花をきれいと感じたりする。みんなどこかでそういう気持ちを大事に大事に持ち続けていてるんだと思う。男性でもミニカーとかね。でもそれをもう一度とりだして磨いたり、埃を払ったりする時間が現実のなかではそんなにない。だからこそ、そういう人たちに向けて隅から隅まできれいなものをつくりたかったんです。
見汐:舞台美術も衣装もすごくきれいでした。
小泉:舞台は18世紀のベネチアなんだけど、身分や階級を通り越したシスターフッドのお話だから、それを色じゃなくフォルムだけで表現したいなとイメージしたんです。
見汐:舞台の曲線だったり、高さだったり、衣装の色だったり、すべてが調合され融合された美しさを感じました。色がないけど色を感じるというか。最後の「娘たち、よりよく生きよ」というセリフは、役柄だけじゃなく娘たちみんなを指すんだなと思って、涙を堪えていました。
小泉:それが原作のメッセージだったというのもあるんですけど、キラキラしたものに憧れた少女のころを思い出してほしいと私は思っていたから、みんなが感動してくれたのならうれしいです。
小泉:エンターテイメントだけじゃなく、すべてにおいてそうなんだろうけど、みんなが共感してくれるものをつくろうと思うのは、すごく間違ってるし、受け取る側の気持ちに対してもおこがましい気がしてるんです。
見汐:わかります。
小泉:狙いを定めてコアな人に向けてつくったほうが、結果的に広がりがあるし、思わぬところにも届くんだと思う。大人だけにわかればいいと思っていたのに小学生からお手紙が届くとかね。やっぱり自分がどうしてもやりたいとか、こういう人たちをちょっと励ましたいとか、具体的で狭いゾーンに向けてつくったものが意外なところにまで届いたときに、なんだか達成感を感じるんですよね。
見汐:私は小泉さんの作品を聴いたり読んだりしていて「自分の物差しに誇張や嘘がない方なんじゃないかな」と感じていました。自分が曲をつくるときでも、普段から考えていることや感じていることをうまく繕ったつもりでいても、作品にはその人の無意識のほころびがでてくるものじゃないかなと思ったりするんですが、いまそうおっしゃったのを聞いて、やっぱり嘘がない方なんだなと感じました。
小泉:1989年に近田春夫さんと“Fade Out”というシングルをつくったんですけど、テレビでもライブでもみんな当時はポカンとしてたんですよ。「ハウスミュージックをお茶の間に」(※)という感じでつくったけど、当時ああいう音でお客さんはどうやってノったらいいかわからなかった。でも今や若いDJでもあの曲をかけてくれる人もすごく多くて。
小泉:当時はポカンだったけど、時間を超えてもっと若い人たちに届いていったんだなと思った。そういうふうに結果が見えることもある。
見汐:私も夜遅くにクラブであの曲がかかったりすると「イエーイ!」ってなります(笑)。
小泉:長い目で見ると何も間違ってないんだなということが見えてくる年齢になってきたのかな。
見汐:いまも夜遊びしますか?
小泉:たまにね。コロナ禍以降はめったにしなくなったけど、ときどきはいまもやらかしますよ(笑)。楽しければ全然あり。でも、それこそ30代、40代くらいのころは、自分がどこにも属せていない気がしてたの。舞台もやるし、映画もやるし、歌もやる。新聞で書評もしたり。
いろんなところに出向くんだけど、どこに行っても異質な存在として置かれちゃう感じはあるんですよ。だから飲みに誘われるとどんなところでも行っちゃってましたね。あんなに飲みまくってたのは、そういう負けん気もあった気がする。断ったら負け、みたいなね(笑)。
見汐:(断らないのは)優しいんですね。
小泉:優しいんですかね? 舞台で一緒だった若い男女が最終的にうちに泊まってたり、翌朝に起きたら舞台に遅れそうで、「やばい!」ってみんなで急いで出かけたりみたいなこともあったりね(笑)。
見汐:やっぱり優しいと思います。自分がいま40代だからというのもあると思うんですが、毎年誕生日になると自分が好きな音楽家や俳優がいまの私の年齢だったときに何をしていたか調べてみちゃうんです。小泉さんが40代のころに携わっていた作品を調べたら、当時毎週見ていたドラマ『最後から二番目の恋』(2012年)などのときでした。『マイ・ラスト・ソング』(※)をはじめられたのも40代ですよね?
小泉:そうです。2008年にはじめましたから。
見汐:私にとっては遠い世界の人だった小泉さんが、40代になさった仕事や作品に触れるうちに以前より身近に感じられるような感覚がありました。今日会ったら不躾だとはわかりつつ聞いてみたいと思っていたことがあるんです。40代って、仕事も生活も、どういう面持ちで過ごされていましたか?
見汐:私は、これまで自分の未来に対して深刻に考えずに生きてきたんです。でも40歳を過ぎたくらいから「このままじゃいけない気がする」と思うようになってきて。
「誰かのために仕事をしたい」というような、そういう気持ちが自分のなかに芽生えてきて。仕事で関わってくださる人たちに対して伝え方ひとつにしても、仕事に対する考え方に意識の変化があって。これまでのように、ひとりですべてを担っているだけではできないことも増えてきて、人にお願いすることができるようになったり、こういう変化ってほかの人にもあるものなのかしらと思っていて。
小泉:40代は、テレビでは『あまちゃん』(2012年)もやっていたし、舞台もたくさん出ていたと思うんです。役割としてどう立ち回るかを楽しんでいたところもあるかも。『最後から二番目の恋』は主役として中井貴一さんと全力で取り組んだし、『あまちゃん』では主役をサポートする立場としていろいろ考えたし。
小泉:ドラマのなかだけじゃなく、その役割のなかに社会みたいなものを感じるようになっていくんですよね。だから「50歳になったら自分の会社をつくろう。もっといろんなものを変えていこう」と思っていたのも40代から。怠け者だから周りに言わないと先延ばしになると思ったから、取材とかでもそれを言いまくったし。
見汐:有言実行によって、自分を追い詰めたわけですね。
小泉:40代って「何かのなかにおける『私』」という関係性が、すごくよく見えるような年代なのかな。「もうちょっと役に立つ人間になるには、どうしたらいいの? 何を見たらいいの?」みたいな感覚になりました。
見汐:そうかー。
小泉:あと、39歳の年末あたり、「年が明けたら40代になっちゃう。なんか思い切ったことでもしないと40歳になれない!」と思って、ふだんはあんまり行かないような派手なパーティーとかにも誘われるがままに行ったんです。何日も朝まで。
そしたら、最終日にいつも一緒に遊んでるママのいる店に行って、まだお客さんがいない早い時間帯に「昨日もおもしろかったね」なんて話してたら、鼻血が出てきたんですよ(笑)。連日遊んでたせいで、あまりにも体がのぼせちゃったみたいで。それでティッシュもらって丸めて鼻にぶっ込んでお酒飲んで。そうしながら「ちょい待ち、私、いけるな、40代」って思った(笑)。
見汐:めちゃいい話ですね(笑)。
小泉:そうでしょ? 「変わらなくてもいいんだな」って思ったの。
小泉:みんな歳を重ねることを嘆くけど「私は変わんないな」と思った。歳をとることを私は肯定的に考えてるし、老化じゃなくて「進化」。その鼻血事件もすごく私らしいでしょ。小学校でも中学校でも修学旅行の前の日に鼻血出したんですよ。のぼせちゃうみたいで(笑)
─見汐さんの本も、ある意味、40代を生きるうえでの鼻血みたいなものじゃないかな。
見汐:ねえ。
小泉:鼻血だね、これ。
見汐:はい、鼻血です(笑)。
─見汐さんはシンガーソングライターですが、いつごろから人前で自分の曲を歌うようになったんですか?
見汐:10代ですね。そのころからバンドをやっていたんですけど、まだ「メジャーデビューしないと音楽でご飯は食べていけない」みたいな風潮の時代でしたね。「(私がやりたいのは)そういうのじゃないんだけどな」とはずっと思ってました。
小泉:歌は最初から歌っていたの?
見汐:中学生のころに伯父さんにギターを教えてもらって、そのころから自分で曲をつくって歌っていました。最初はギャルバンやってたんですけど喧嘩が絶えず解散し、CDを出したのは、埋火(うずみび)という自分のバンドでした。
小泉:そのバンドではもう自分の曲をいっぱい書いていた?
見汐:はい。当時は福岡の映画館で映写技師の仕事をしていて、夜にひとりでプリントのチェックをするんですけど、そのときに時間があるので曲を書いてました。
─自分で曲を書く、という行為は、見汐さんにとってどういうことだったんですか?
見汐:本当は誰かに曲をいただいて歌う歌手になるというのが小ちゃいころの夢でした。でも、だんだん「それは大変なことじゃないかな」と思うようになっていって。同じ時期、中学生のころに荒井由実さんなど自分で曲をつくって歌うシンガーソングライターの存在を知ったというのもあります。
小泉:じゃあ、いちばん最初に書いた曲のタイトルを教えてください。
見汐:バンドをはじめるよりずっと前なんですけど、小学校3年生のとき、市内の全小学校が参加する作詞作曲コンクールがあったんです。先生に「応募してみたら?」と言われてピアノでつくった曲が「妖精のパーティー」です(笑)
小泉:かわいい! 一節歌ってみましょうか。
見汐:「あしたは 妖精の パーティー 楽しい ダンスを 踊りましょう ランラララン ランラララン♫」みたいな(笑)。でも、これがなぜか賞をいただいて。
小泉:本当? すごい!
見汐:そのあとも「歌詞を書いている」とかは意識せず、思いついた言葉を書いたりしていました。日記も毎日書いていたんです。
小泉:私は日記なんて1日以上書いたことがない(笑)。書くのが好きだったんだね。
見汐:書くことで自分を客観視できたんです。うまく言葉にならないというか、人に何かを言われたときに咄嗟にうまく返せない子だったんですよ。
小泉:わかります。
見汐:それで言葉に詰まって何も言えずに家に帰って、徐々に言われたことをふつふつと思い出し、うーって枕に突っ伏してひとりでキレる子だったので、冷静になるために書くことが自分にとって必要な行為だったんだろうなと思います。それが文章や歌詞を書くことにつながってるのかな。これはいま話しててそう思いました。
小泉:同じように私も、会話ってそんなに得意だと思ってないんです。仕事であればしゃべるけど、(会話が)思いもよらない方向にいくのがイヤなんですよ。
見汐:私もそうです!
小泉:仲がいい人や信頼してる人とならいいんだけど、違う受け取られかたとかしたら怖いって思っちゃう。末っ子だからもともとよくしゃべるほうじゃなかったしね。
小泉:家族でいるときに私が赤い服を着ていると、近所の人に「赤が好きなの?」って聞かれるでしょ? でも私は「赤が好きなんて考えたことない!」って思ってるんだけど、母は先に「赤、好きだよね?」って言う。だから、私も「う、うん」って返事する。
答えなくても話が先に進んじゃう経験がすごくいっぱいあって、それがフラストレーションだったというよりは、考えるきっかけだったのかもね。「私は赤が好きなのだろうか? いや待て待て。好きってほどでもない、じゃあ何色が好きなんだろう?」みたいな。そういう子ども時代だった気がする。
見汐:親しい人と以外では特に会話っていまだにすごく難しいと思うことはよくあります。何かを言ったときに相手が待ってくれないというか。会話のグルーヴが優先されて、話しながら思考が全然追いついてないことがすごくあるんです。お互いのあいだに短い余白でもあればいいんですけどね。
小泉:でも、会話じゃないとたどりつけないところもあって、それはそれで本当にありがたく思うけど、猫と一緒に暮らしてると「言葉がない」ってことの自由さをすごく感じるところもあって「言葉ってねえ」ってすごく厄介に感じることもある。だけど、同時に言葉にすごく救われたり、愛したりもしている。すごく不思議だよね。
見汐:私は「奔放にしゃべってる」ってよく言われるんですけど、本当はそんなことなくて、大人になればなるほど考えすぎて何にも話せなくなることが多くなっている気がしています。
小泉:だから私たちは、きっとお酒を飲むともっとおもしろくなるんだと思う(笑)。
見汐:本当に!
小泉:そういうところ、気が合いそうだわ(笑)。