2023年12月09日 09:31 弁護士ドットコム
中学生の時、自らの意思でエホバの証人の宗教1世となった後、自力で脱会し、現在はプロテスタントの牧師として活躍し、カルト宗教問題に取り組む齋藤篤氏。信じるということと抜け出すことについて話してもらった。(取材・文:遠山怜)
【関連記事:中学1年で自らエホバに入信、禁じられた「大学進学」を突破してたどりついた「欲望の歓楽街」】
エホバから離れ、自由の身になった齋藤さんはエホバでは禁止されていたことに次々と手を出して行った。アルバイトで得たお金は享楽に消えていき奨学金にまで手をつけ、それでも借金返済のためにサラ金や街金に手を出す。借金取りから逃げ回る日々が1年ほど続いた。
筆者は頭に思い浮かんだことを聞いた。その生活は楽しかったのかと。
「確かに快楽はあった。借金の問題を考えなければ楽しい瞬間でもあった。でも、一時的な楽しさだったし、快楽を得るためにずっとこの生活を続けることも無理だった。究極的な幸福ではない、ということが身にしみてわかった」
人から禁じられているうちは半信半疑が、自分でも体験することで実感として伴うようになった。そこで知り合いはできなかったのかと聞くと、「できましたよ」と即答返ってきた。
「でも、お金で知り合った場所は金がすべて。お金がないと縁も切れる。エホバから離れて今まで禁じられていた世の中の楽しいことは全部やってみたけれど、楽しいことをやるにはお金がかかる。要は全部お金じゃないかと。お金がなくては幸せになれないのかと考えました」
生活を立て直すために債務整理をし、借金の取り立てからは解放された。クレジットカードの利用はできなくなり、残った借金の返済を無理のない範囲でしていくことになった。大学で知り合った友人もいつの間にかいなくなり、食費を浮かすために近くの教会に通うようになった。
エホバではキリスト教を含め、他の宗教に近づくことを推奨していない。キリスト教の一派という立場ながら、今まで教会に近寄ることはなかった。今まで敵だと思っていた人たちと一緒に食事を取る。何を話したのかと聞くと、「キリスト教を批判すること」と言う。
「エホバから自分で離れたとはいえ、頭の中にある知識のほとんどはそれしかない。労力をかけて学んできたんだというプライドもあった。食事を与えてもらっているのに、平気でこんな教会はダメだ、正しくないと悪く言っていた。今、客観的に考えると、聞いている側はさぞかし腹が立ったでしょうね。
でも何も言われなかったんです。黙ってうんうんと聞いてくれた。自分でカルトに入信して、エホバから離れて遊びまくって借金漬けになったおかしな話をただ受け止めてくれた。行くだけで喜ばれたし、否定も非難もされなかった。
宗教と言えばどこも同じではと思う人もいますが、僕にとっては全く違った。エホバではノルマを達成しないと受け入れてもらえない。遊びだってお金を持っている人でないと、仲間に入れてもらえない。それは思春期から大学生までずっと感じていたこと。
でも、そのキリスト教会ではお金がなくても、何かノルマをこなさなくてもいい。ダメ人間でも受け止めてくれる。それは人生で初めての経験だった」
齋藤さんが駆け込んだ相模原の教会は、奇しくもエホバの証人対策で有名な教会だった。
言うことを聞かなければ滅ぼす、痛めつける、排除するという世界から逃れた時に、初めてキリスト教を直に感じることができた。これなら生きていけると感じ、キリスト教に入信することにした。
これだけの経験をして、宗教から離れ完全な無神論者に走ろうと思わなかったのかと聞くと、「全く思わなかった」と言う。
「ギャンブルに金をつぎ込み、風俗に走っていた時の方がはるかに無神論者だった。エホバにもいられない、無神論者でも苦しい。だったら、今受け止めてくれている神様にすがるほうが楽だと思いました」
筆者が「社会人になって多少なりともお金があったら、さらに抜け出せなくなっていたのでは」と聞くと、「本当にそう。自分に悪運があったりうまく稼げてしまっていたら、一生あの生活から抜け出せなかった。いっときは楽しいものを求めて、でもずっと満たされない何かを感じている日々が続いていた。早くに破綻したからこそよかった」。
一般企業で働いても上位下達の世界と同じで、もう何かに縛られるのは嫌だった。一人でも多くの人を救いたい。人を解放に向かわせる仕事がしたいと決心した齋藤さんは牧師を養成する神学校に進学した。
キリスト教に触れるうちにエホバで教えられた知識を元に判断する癖がようやく抜けてきた。聖書を読む時もエホバではこうだったと比較することも無くなった。しかし、後遺症は思わぬ形で残存していた。物事を白黒で認識する癖が治らず、曖昧な状態が許せなかった。
「その時のことを説明するのは今でも本当に、恥ずかしい。論理破綻した論理で人を批判していた。理論ばかり主張して、自分のことしか考えずに実際には何一つできない。キリスト教で与えられた良いものは確かに受け取っている。でも自分の心の中に尖った部分があってそれはエホバ由来のものだった。
両極端の価値観が自分の中でせめぎ合い、人としてとても扱いにくかったと思う。周りはみんなキリスト教に触れてこの道を目指してきた人だから、エホバのような存在は知らない。何かに苦しんでいるのはわかるが、何が苦しいのかわからなかったと思う」
もがき苦しむ齋藤さんをただ周囲は受け止め続けた。受け止められ続けることで、ようやく物事を考えるスペースができてきた。それはダメだと否定されても改善できない至らなさを感じつつ、後遺症と戦い続けた。その後遺症の悩みの種が、厳しく注意してくる先生の存在だった。
「腸(はらわた)が煮えくり返るような憤りにかられました。せっかく受け止められる世界に来れたのに、事あるごとに注意される。すべて自分を非難する言葉にしか聞こえなかった」
ある時、その先生と二人きりになり時間をかけて話す機会があった。なぜお前に対してうるさく言うのかわかるかと聞かれた。
「本当にお前のことが嫌いだったら、注意しない。放っておいて人に嫌われたり離れて行かれるのを黙って見ているだろう。お前に立派になってほしいから言いたくもないことを言っているんだ。大事に思っているから言っている」。
その時、心の中の攻撃性がすっと消えた。非難されることに過剰に敏感になっていたが、それは齋藤さんを否定したいための言葉ではなかったのだと、ようやく気づけた。
正式に牧師になった齋藤さんの元にはカルト宗教にハマった人の家族や本人から相談を寄せられることが多くなった。その中で齋藤さんも気づいたことがある。
「カルトにいた経験がある人は、徹底的に自分の頭で考えないことを叩き込まれている。極限状態にずっといるので、渦中のことは記憶が飛んでいることが多い。それに、宗教内のことを相談するにも、一般の人には知識がない。
打ち明けてもわからないだろうという孤独、打ち明けてもいいよと言われても何から話していいかわからない孤立がある。精神的な苦しさを抱えて病院に行っても、カルトの構造を理解していないから、そもそもの問題を理解してもらえない。人それぞれ、信仰の自由と言われたら何も言えなくなる」
家族を脱会させたいという相談では、主に自分の子どもを脱会させたい人が多いという。
「大抵の方は、カルト相談というと僕のような脱会専門家に任せておけば大丈夫だと思って相談してくれる人が多い。でも、脱会の鍵を握るのは家族だと思います。家族の問題を解決できれば脱会させられるとも言えます。元々何か家族間に問題を抱えて、入会したケースが非常に多いのです。
親子の間で歪んだ支配を押し付けて、子どもが苦しんでいるからカルトに逃げる。親子カルトからカルト宗教に支配構造が移動しただけなんです。またはそのカルト宗教から脱しても似たような支配構造の関係に絡め取られてしまう。ですから自分が押し付けた支配構造をまずは家族が理解することが大事だと言うのですが、中にはそう言われると怒る親御さんもいます。
鍵は自分の価値観を押し付けないこと。カルトをやめろ、この教義はおかしいと批判しないこと。矛盾を論破しても敵だと見なされるだけ。年数をかけてでも同じ態度で接する。時には数年はかかるでしょう。何が起きても顔色を変えない。ずっと安定して受け止めてくれる人がいれば、そっちの方が居心地が良いことに気づく。問われているのは、脱会させたい人の真剣度なのです。相手を変えたいなら脱会させたい人自身が、自分を変えなくてはいけない」
それで本当に変わるのか、と聞くと案外明るい声が返ってくる。
「少なくない人たちが脱会に成功しています。親の人に対する姿勢が変わると、子どもも驚くように変わってくる。それを見られるのはこの仕事の醍醐味だと思います。決して、脱会は不可能ではない」
齋藤さん含め、多くの専門家がカルト対策に力を入れているが、ここ1年は風向きが変わってきたと言う。
「昔はそれこそ、カルトの話をしても、はあ? という反応だった。関係ない人ごとというか。でも宗教2世が注目されるようになって、ようやく真剣に話を聞いてくれる人が出てきた。今、世の中には支援者も、カルトから脱会させたい人がいる一般の人も話を聞いてくれるようになった。
カルトから抜け出した人や2世の人を受け止めるためにも、もっと多くの人に知ってほしい。何より、ここで語られてきたカルトの支配構造は、詳細は違えど違う場所でも起きる。ブラック企業、ブラックバイト、半グレ組織、毒親などでも同じことが起きている。
エホバだけの問題ではなく、人生のうちのどこかに顔を出すもの。それに気づくためにも、誰もが知っておくべきだと思う。宗教2世やカルト宗教の問題を、一過性のブームにしてはいけない。
恐怖にかられながら何かを信じることに、おかしいと気づいてほしいのです」
(前編を読む)