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杉咲花がロングインタビューで語る、映画『市子』への思い。穏やかな暮らしを懸命に求める女性の半生を演じて

2023年12月08日 12:30  CINRA.NET

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Text by 森直人
Text by 垂水佳菜
Text by 生田綾

きっと多くのリピーターを生むに違いない――。12月8日(金)から公開される映画『市子』は、過酷な宿命を背負ったひとりの女性の半生を、多層的なミステリータッチで描き出し、重量級の感動と衝撃をもたらす。すでにスタンダードの風格を備えた新しい名作の誕生だ。

監督は俊英・戸田彬弘。もともとは彼が主宰する劇団チーズtheaterの旗揚げ公演作品であり、サンモールスタジオ選定賞2015で最優秀脚本賞を受賞したオリジナルの戯曲『川辺市子のために』が原作。それを映画用に再構築し(脚本は上村奈帆と戸田の共同)、圧巻の熱量でスクリーンに焼き付ける。

そのなかで全身全霊の鮮烈な演技を見せるのが主演の杉咲花である。「自分にとって特別な作品」と自ら明言する『市子』について、今回の演技体験と「役を生きる」ということに対していま思うこと、そして作品にこめた思いなど、じっくり話を伺った。

『市子』
あらすじ:市子(杉咲花)は、恋人の長谷川義則(若葉竜也)からプロポーズを受けた翌日に、忽然と姿を消す。長谷川が行方を追い、これまで市子と関わりがあった人々から証言を得ていくと、彼女の底知れない人物像と、切なくも衝撃的な真実が次々と浮かび上がってくる…。 / ©2023 映画「市子」製作委員会

―『市子』、素晴らしかったです。戸田彬弘監督からオファーがあった時、脚本と一緒に直筆のお手紙が送られてきたそうですね。

杉咲花(以下、杉咲):はい。まず手書きのお手紙をいただいた時点で感激してしまったのですが、そのなかに「自分の監督人生において分岐点になる作品だと思っています」と書かれてあって。それだけ大切な作品に、自分を求めていただいている、ということが本当にありがたく、またこの映画に向けた戸田監督の並々ならぬエネルギーを感じました。

―最初から監督の熱い想いが伝わってきますね。

杉咲:そうなんです。これは何か特別な機会に違いない、という予感と共に、脚本を開いてみると、もう衝撃を受けたと言いますか……市子が起こす行動や発する言葉、そこに引き裂かれるような痛みの手触りとか、生々しいものが身に迫る感覚があって。読み終えたとき、涙が止まらなくなってしまったんですね。

そしてそれは感動や同情によるものではなく、それまでの自分が知らない感情でした。少なくとも言葉では簡単に言い表せないもので。

その自分の涙の正体が知りたかったんです。市子が独りではどうにもならない境遇のなかで、必死に穏やかな暮らしを求めるということは、彼女なりの幸福を知っているからだろうし。どういうものに幸福を感じて、市子のなかに焼き付いているか……彼女を自分が演じることで、身を持ってそれを体験できるかもしれない。この機会は絶対逃したくない。「市子を知りたい」という気持ちに突き動かされるように、震える思いでお受けしたという次第です。

杉咲花

―僕はこの映画、まるで実在の事件をベースにした実録もののような手触りのある作品だなと思ったんです。ところがじつは、戸田監督がもともと演劇作品(『川辺市子のために』)としてつくった完全オリジナルのフィクションである。市子は架空の人物なわけですが、脚本を読まれたときからリアルな実在感を感じられて、それを探究する旅として映画に臨まれた、というような感覚でしょうか?

杉咲:たしかに「市子」というひとつのテーマ、あるいはフィルターを通した旅のような体験だったかもしれません。実在する人の物語ではないけど、自分たちの生活と地続きにある場所の話だと思いましたし、剥き出しの人間や社会の姿が描かれている。そして市子自身が自分の姿を探す物語でもあるんだなと。

俳優としても、日々を営む個人としても、この作品に飛び込んだら、味わったことのない境地に行けるのではないかという予感がしましたし、実際撮影を進めるなかで、これまでの自分がまったく知らなかった世界が見えた瞬間がたくさんあったと感じています。

©2023 映画「市子」製作委員会

―この映画は重層的な回想形式で市子の半生を追う構成です。物語の順番で言うと、まず2015年8月、恋人の長谷川(若葉竜也)からプロポーズを受けた翌日に、市子は突然失踪する。そこから時間を潜っていくと、28年生きてきた市子の壮絶な生い立ちや複雑な背景が徐々に見えてくる。

杉咲:今回、とてもありがたかったのが、戸田監督が市子の年表と、映画には描かれなかった部分の台詞をサブテキストとして台本のように書き起こしてくださったんです。そのおかげで時代背景も含めて、撮影シーンごとの市子の現在地を把握できていたんですね。点と点のあいだにどんなことが起こっていたのかっていうことも、ある程度、自分のなかで補助線を引くように落とし込むことができました。

とは言っても、結局は撮影現場で体が反応することがすべてだとは思っていたんです。私にとって市子は他者でしかないし、頭で考えすぎると、逆に市子を見失ってしまう。だから事前に自分のイメージで固めることはしませんでした。

そもそもなのですが、私は「役づくり」というのが何を指すものなのかわかっていないところがあって。

―と言いますと?

杉咲:例えば、今回だったら関西弁なので、普段の自分とは違うイントネーションで言葉を使わなければいけない。あるいは楽器を弾く役ですとか、なにか具体的な技術が必要なもの。そういった部分の「役づくり」に関してはご指導をいただいたり、練習を繰り返して、しっかりと向き合いたい気持ちがあるのですが、感情面では何かを準備して現場に持ち込むということを避けているところがあって。

もしプランを立てたとしても、やっぱりそれは、どこまで行っても独り相撲でしかない気がするんですよね。目の前にいる人がどんな表情をしていて、そこに何があるのか、どんな時間が流れているのかは、現場に行かないとわからないことなので。そのとき、そのとき感じたことに、身も心も委ねていきたいんです。

―我々が「生きる」ということは、予測のできない現実の連続に反応しているだけですものね。

杉咲:そう思います。ただ、それでも何だろう……今回は、市子として何かが満ち足りていない感覚を味わうことが必要な気がして。減量をしたり、ノーメイクで演じるなど、自分からも提案するかたちで実践させてもらったことはいくつかありました。

©2023 映画「市子」製作委員会

―「満ち足りていない感覚」というのは、映画の市子を観ていてすごく腑に落ちます。

杉咲:おそらく外部や他者の目からすると、市子というのは捉えどころがなく、矛盾の多い人物に映る気がするのですが、彼女のなかではむしろある種の一貫性を持ってシンプルに動いているように思うんです。

市子が求めることは、幸福になりたい。穏やかな暮らしをしたい。本当にそれだけ。ただ、その「普通」が手に入らない。戸田監督とも「市子の起こしてきたことって、それ以外に選択肢がなかったからですよね」という認識は共有できていたので。

今回は高校時代から28歳までの市子を演じましたが、年齢設定によって特にアプローチを変えたわけではないんです。ただ市子を取り巻く環境と人間関係は流動的に変わっていく。対峙する相手によって、自然と反応や感覚も変わっていく。

物語上の核になる高校時代は、やっぱり市子が精神的にいちばん不安定な時期だったでしょうし。逆に長谷川君と出会ってからの3年間は、何ものにも代えがたい多幸感に包まれた時間だったんだろうなって。それは市子が幼い頃にほんの少しだけ味わった家族の幸福……その原風景に触れるような懐かしさと同時に、市子が長谷川君の人柄や佇まいから影響を受ける、つまり「人から学ぶ」ことを初めて体験できた時間だったんじゃないかなあと思っています。

―杉咲さんは東京のご出身ですが、市子の関西弁がリアルなので驚きました(※インタビュアーは近畿圏の出身)。戸田監督はNHK連続テレビ小説の『おちょやん』(2020~2021)で浪花千栄子さんをモデルとした竹井千代役の杉咲さんをご覧になって、関西ネイティヴの役でいけると思われたらしいですね。

杉咲:本当にありがたいです。『おちょやん』はクランクインするまでに1年ほどかけて、方言指導の先生が付きっきりで教えてくださったので。

―技術というのも、やっぱり積み上げがあると強いですね。

杉咲:そうですね。私にとって、もし『おちょやん』がなかったら、『市子』との出会いもなかったのかな……と考えると。戸田監督はほかにも『楽園』(2019/監督:瀬々敬久)ですとか、こちらの出演作を観てくださっていて。その時々で個別に向き合った作品が、思わぬかたちでつながっていくんだなってことを実感します。

―僕は想像するしかないですけども、俳優さんってある種の旅人ではないかという気がします。いろんな世界でいろんな役を演じながら、人生の時間を重ねているわけでしょう。流動的な旅を続けていく点で、そもそも市子っぽいっていう言い方ができるかもしれない。

杉咲:たしかに! 作品の現場ごとにどんどん環境や人間関係が変わっていって、そのなかで自分の反応が試されていく……。その意味で、いつ終わるのかわからない旅を生きる市子の在り方に近いのかもしれないですね。

―杉咲さんは撮影が終わってからも、その役に引きずられたりするタイプですか?

杉咲:以前はまさにそうでした。特に『トイレのピエタ』(2015/監督:松永大司)のときは強烈に引きずられていました。家に帰ってからも、真衣という役の心情が拭えないような感覚が残っていて……ですが、いまあらためて思うのは、そういう自分に安心したかったのかなって。

役に取り憑かれたような状態にあることで、役を知ったつもりになっていたかもしれないなあと。「憑依する」とか、「役に入り込む」っていう言葉があるじゃないですか。でもいまの私の実感としては、そういったことって不可能に近いのではないかと思うんですね。少なくとも自分自身は、役になり切るなんて傲慢だなって。

だから、演じていないときは、むしろフラットな自分でいたい。そこからカメラの前に立ったとき、どれだけ役に近づいていけるか。

実際、市子という役を演じながら、自分の表現欲が一切剥がれ落ちて、そのとき目の前で起こっている事象に対して、ただ体が反応してしまう瞬間があって。それは俳優として初めての経験だったんです。そのときに「役を生きる」ということは、もしかしてこういうことなのかなって。

ところが、また次の日は市子の気持ちがまったくわからない。市子が自分に近づいてきてくれたと感じたのは、単なる錯覚だったんだろうか……と混乱してしまうほど、どんな気持ちでカメラの前に立てばいいんだろうか、という感覚に襲われることがあって。

―そうなんですね。

杉咲:あれだけ突き抜けた境地に行ってもそうなんだ、ということが、あとから考えてみると、逆に腑に落ちたんです。きっと、どこまで行っても、他者は他者でしかなくて。だから「入り込む」なんていうことはとんでもないなと。それは実生活で誰かと向き合うときもそうですし、「相手のことがわからない」という感覚が根底にありながら、必死に想像して接近を試みる。自分とは違う他者に共振しながら、限りなく近づいていこうとする行為が、「演じる」ということなのかなあと、いまは思っています。

―とても良いお話です。共演者の方々で言いますと、長谷川役の若葉竜也さんとは、今回で『おちょやん』とWOWOWドラマシリーズ『杉咲花の撮休』(2023)に続いて3回目の共演になりますね。

杉咲:そうですね。もう若葉さんとご一緒できると知った時点で安堵感がありましたし、『おちょやん』のときから、現場での若葉さんの在り方には心の底から感銘を受けていたんです。それこそ自分の表現欲とか、損得ではなく、ただ目の前の相手のためにそこにいてくださる方というか。

若葉さんがいてくれたら、きっとすべてのことが解決する気がするし。こちらの肩に力が入っていても、適度にほぐしてリラックスさせてくれる。

市子の恋人・長谷川義則役を演じた若葉竜也 / ©2023 映画「市子」製作委員会

杉咲:今回の現場ですごく印象に残っているのが、市子が長谷川君からプロポーズを受けるシーン。市子が長谷川君に向けた表情の寄りを一連で撮った後、今度はアングルを変えてカメラ目線で撮ることになって。結局、そのカットは使われなかったのですが、そのときに私の心がまったく動かなくなってしまって。

―充電が切れたみたいにストップしちゃった。

杉咲:そうなんです。似たような状況を私はこれまで何度も経験したことがあるのですが、そういうとき、大抵周りにいる方々は「大丈夫だよ、何回もやろうよ」とか、「一回ブレイクする?」とか、いろいろな方法で手を差し伸べてくださるなかで、若葉さんは「精根尽き果てたね」と言ってケラケラ笑ったんです。

―(笑)。

杉咲:もう拍子抜けして。ですが確かにその通りで。あまりにも情けのない自分の状態をそのまま肯定してくれた方は初めてでした。目の前で起きていることを素直に捉えて、受け止めてくれる方がいるということは、なんてありがたいんだろうって。本当に救われたんですよね。おかげでその後はみるみる安らかな気持ちになり、心が復活しました。

若葉さんは俳優の中でも偏っていて、相当変な人だと思うんですけど(笑)、やっぱり学ぶことが多いです。

―そのお話をお聞きすると、若葉さんと長谷川という役の在り方も自然に重なっている気がします。僕の印象では、ある種ドキュメンタリーを観ているような感覚もあって。カメラが捉える人間たちが、キャラクターという型に嵌まったものではなく、生身の存在がそこにゴロッと居るような感じがしたから。

杉咲:嬉しいです。今回の現場はとても粛々と、でも確かに熱を帯びて、ひとつひとつのシーンを収めていく時間の連なりだったんですね。ほとんどが手持ちのカメラを使って、チームの人数も少なかったのですが、そのタイトさが、シーンの緊張感や臨場感に作用した気がします。

テイクもほぼ重ねず、なるだけワンテイクで収めようという思いも強かったのではないかと思います。「一瞬を収める」という静かな気迫に満ちた現場で、それが日々繋がっていくような感覚があって。何よりお芝居を大事に捉えてくださいましたし、自分にとっては本当に貴重で贅沢な環境だったなと思います。

©2023 映画「市子」製作委員会

―物語が進むにつれ、市子がじつは出生届けが提出されておらず、無戸籍であることが判明します。さらにDV、ヤングケアラー(介護や家事を請け負っている未成年者、あるいは請け負わざるをえない家庭環境)など、苛酷な状況が市子の人生を抑圧していたことがわかってくる。この映画に込められた日本社会の深刻な問題について、杉咲さんご自身にフィードバックされたものはありましたか?

杉咲:まずは私自身、恥ずかしながら、法の落とし穴によって人権を持てない環境に身を置かざるを得ない方々が日本にいる現実を、この作品を通して初めて知りました。先ほど「普通」という言葉を使いましたが、市子が必死に希求する「普通」を、当たり前に享受してしまっていたこと。そういった自分の無自覚の特権性を痛感しました。

そして一方で、こうも思いました。市子のような境遇の人に出会ったとき、人は外側からそれを見て「大変そう」とか「かわいそう」とか、自分の物差しで勝手なことを想像してしまう瞬間があると思うんですけども。でも、その人のことはあくまでその人にしかわからないことで。

それは自分が市子を演じながら実感したことでもあるんです。あの日々を生きていて、痛みや苦しみを感じたことは事実だけれど、それと同時に、この先もずっと大切に、自分のなかに焼き付けていたい幸福な時間であったことも確かで。

起こった物事に対して、人が何を感じて、どう受け止めて過ごしているかというのは、本当に当事者にしかわからないんだなって。

そのうえで、私たちはどこまで他者と関わっていくことができるんだろう、という問いを突きつけられる作品だと思いました。こういったことに関して、演じ終えたからといって、決して区切りをつけられることではないと思っています。

いまの未熟な私には、やっぱりそれぞれの人に平等に、尊厳が守られる社会であってほしいということしか言葉にできないのですが。この先も考えるきっかけであったり、議論を生む作品であってほしいと思いました。

―大切なことをおっしゃられていると思います。また『市子』という映画の魅力って、ある種の明るさというか。陰惨なことが起こっても、どこかカラッとしている。それは市子がまさに一瞬一瞬、ひたすら「いま」に集中して生きているからかもしれない。

杉咲:そうですね。

―この映画はある種のループ構造で、2015年8月で始まり、同じ時期で終わる。これから市子がどこに行くのかは誰にもわからない。でもいまも元気で生きている気がする。例えば自分がどこか旅に出かけたときに、ふっと市子が通り過ぎそうな感覚がある。

杉咲:嬉しい……ありがとうございます。

―最後の質問になりますが、完成した『市子』をご自身で初めて観たとき、いかがでしたか。

杉咲:これはいつもなのですが、自分の姿に関してはなかなか客観視できなかったです。なので市子が出ているシーンというよりも、市子を見てきた人たちの姿に目を奪われていました。この映画はある意味、群像劇と言えるほど登場人物が多いですから、自分が撮影現場に立ち合っていないシーンやショットもたくさんあったんですよね。自分が知らない素敵な瞬間や表情が宝のように光っていて、それを発見するたびに、ものすごく胸を突かれるものがありました。

ワールドプレミア上映は韓国の『釜山国際映画祭』だったのですが(2023年10月5日)、そのときに初めてお客様と一緒に映画の上映を観たんです。そのあとのQ&Aでは、ほとんどのお客様が残ってくださって、全部の質問をお聞きすることができないほど、たくさん挙手していただいたんです。熱心に映画を受け止めてくださったことが伝わってきて、本当に嬉しかったです。

―ハードでシリアスな内容の映画ですけど、不意のユーモアも効いていますよね。特に森永悠希さん演じる北秀和(市子の高校時代の同級生)が、市子を守ろうとヒーロー気取りで頑張るんだけど、ケーキ屋さんで働き始めた市子に「ごめん。ウチな、夢できてん」ってあっさり言われちゃうところ。あそこが僕、ベストシーンですよ。

杉咲:若葉さんもあのシーンがお気に入りらしく、初号試写のときも釜山のときも、隣の席でくつくつと笑っていました(笑)。