2023年10月14日 08:31 弁護士ドットコム
首都圏から長距離バスに揺られ市内バスに乗り換え、最寄りのバス停から坂を歩いて15分ほど。勾配に息を弾ませながら足を進めると、そこには人の集落らしき建物が見えてくる。
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右手には利用者の寝所と食堂、左手には職員の事務室。その少し下の丘には新しい施設の建設が今まさに始まっている。ここは千葉・館山。「かにた婦人の村」は1965年から日本で唯一の長期婦人保護施設として、行き場のない女性たちに身を寄せる場を提供してきた。
ここに収容される女性たちの事情は様々だ。性暴力の被害者、知的障害や精神障害のために性的な搾取から抜け出せなくなってしまった人。そんな行き場を失った女性たちの最後の砦を守ってきた2人に話を聞いた。(取材・文:遠山怜)
「婦人保護施設」と聞くと福祉施設であることはわかるが、どういった場所なのかすぐにわかる人は少ない。その始まりは戦後すぐの混乱期まで遡る。
1957年、日本では売春防止法が施行された。大正期の頃からキリスト教者が廃娼運動を起こし、キリスト系団体である矯風会や救世軍、聖公会などクリスチャンが女性の救済活動をしていたが、実際に公娼制度が廃止されたのは戦後すぐにGHQの圧力によって発令された勅令によってであり、売春を禁止する法律の制定には10年かかった。
管理売春を斡旋する業者と国の癒着から、法律案が提出されるたびに何度も廃案にされてきたが、戦後の普通選挙制実施により生まれた、女性の国会議員たちによる幾多の闘いの末、売春防止法は成立した。
刑法の一つである売春防止法の施行によって管理売春と公然の場での売春行為が禁止されることになり、当事者も処罰された。ただし施行された条文には、公然でなければ個人売春を行える抜け穴があり、買売春の当事者のほとんどが処罰されないなど問題含みではあった。しかし、公的に売春を許容しない世論の流れができつつあったのは確かだ。
その売春防止法の第4章の条文の一つとして設けられていたのが、婦人相談所と婦人保護施設の設置だ。
売春に転じた女性の「更生・指導」をする名目として、施設の運営はスタートした。1957年時点で全国に47箇所の婦人保護施設が誕生。売春でしか身を立てられなくなった女性たちに、別の仕事につけるように、一時的な保護所を提供し就労の支援を行った。
「一時の住まいと仕事の紹介、就労のための準備さえできれば数年で施設を出て、普通の生活に戻っていくことができる人はいる。しかし、行き先が見つからない、保護所から出るにはかなり時間のかかりそうな人たちもいたのです」と語るのは、かにた婦人の村の施設長、五十嵐逸美さんだ。
かにた婦人の村は、牧師・深津文雄氏の呼びかけに応じて始まった。1958年に婦人保護施設として東京に同氏が寮長として管理する「いずみ寮」が開設されてから7年後のことだった。
「深津牧師は、安心して暮らせる場所が必要だと考え、弱者同士が助け合って中長期的に生活できるコロニーを作ろうと考えたのです」。そうして生まれたのが、ここ、かにた婦人の村だ。
実質的には福祉的な役割を担っているが、元は刑法の特別救済措置として生まれた施設であるという、ねじれた関係の中で運営は続けられた。
「最初はやっぱり偏見の目で見られたこともありました。施設の水道が使えなくて、近所の銭湯に行ったら梅毒が来た、とお湯をかけられたりね」と話すのは、創立当初から仕える天羽道子名誉村長だ。96歳になる今も、この施設で利用者とともに暮らしている。
「街の子どもたちからバーカと石を投げられたこともありましたけれども、そうした非難の視線は徐々になくなっていきました。それは利用者さんたちの活動の力が大きいですね。街に出て行ったときに、畑で働く人に『おばちゃん、何やっているの』と親しげに声をかけたりしてね。交流を続けるうちに、『あの子たちは決して悪い子ではない』とわかってきてくれたんだと思います。
施設でずっとバザーなどもしていますが、利用者の方も購入する方のために袋を広げて用意したりして、その人なりにできることはしました。だからこそ、地域や応援してくださる方との関係性が作れたのだと思います」(天羽名誉村長)
「今ではバザーの方が有名になって、遠方の方などは、かにた=バザーだと思っている人もいるほどです」と彼女は静かに微笑む。
どのような方々が施設を利用してきたのか、五十嵐施設長は語る。
「利用者さんの大まかな傾向は開所当時から変わらないのではと思います。知的障害、精神障害を負って地域での生活が難しくなった人。性的搾取にあって心身ともに追い詰められた人。そんな方がここには多いです」
戦後の混乱期を経て、売春に従事しなければ明日の生活もままならない人の数は減ってきた。しかし、それでも施設に助けを求める人は存在し続けた。
「最近は、夫に暴力を振るわれて逃げてきた人も目立ってきました。または家での虐待が酷く、精神的な深い傷が残っているケースも見られます。元々、知的障害があったり、家庭環境のせいで後天的に精神障害を負ってしまったりして、一時的に避難するだけでは日常生活に戻れない。
社会から拒絶され、ひどい目に遭わされて来た分、社会に対する信頼度が低く、安心して人との関係を築いたり仕事をするのが難しい。開所から70年弱経ち、その間に日本では様々な法整備が進み社会福祉制度が設けられ経済状況も回復しました。それでも、その救済策の手からこぼれ落ちてしまう人は、まだまだいるのです」(五十嵐施設長)
彼女たちの日常生活への回復を妨げる大きな原因が一つある。
「ある利用者さんに、入院先の病院でこれまでの人生を振り返るワークをやってもらったことがあるんです。そのノートを利用者さんが見せてくれた。嬉しかったことを100個、悲しかったことを100個書くというノートでした。そしたら、悲しかったことの中に小学校の時にお兄さんから触られたくないところを触られたと書いてあった。もう性被害が起こってからは何十年も経っているけれど、忘れられない嫌なこととして覚えている。誰にもこれまで話せなかったんだと思う」。
五十嵐施設長は驚くことなく、「読ませてくれてありがとう」と伝えたという。
施設の利用者の中には性暴力を過去に受けたり、知的障害や精神障害のために性的な搾取から抜け出せなくなってしまった女性の話は事欠かない。ひどい虐待家庭に育ったために、若くして水商売で働かなくては生活が成り立たなかった人。見過ごされていた知的障害があるために、男の人に騙されて風俗で働いていた人。性暴力のために精神的な障害にかかり、日常生活がままならなくなった人。
行き場を失った女性たちの生活をずっと間近で見てきた天羽名誉村長は言う。
「性暴力は至るところで見聞きします。昔の人も性的な被害にあっています。それこそ奉公に出された先で暴行されたとか」
ある時、五十嵐施設長は50代の利用者から、過去の性被害について打ち明けられた。
「その方は知的障害があったのですが、支援学級で中学を卒業したんです。卒業後、通っていた学校の先生に声をかけられて車に乗せられたそうです。その先生のことはずっと信用していたから何も疑わずに車に乗りました。そして山に連れて行かれて、ひどいことをされて。真っ暗な山に置き去りにされた事があるって…」
「それ以上は、話すとしんどくなるから、話さなくていいよと、話を止めました」と、五十嵐施設長はその告白を聴いた時のことを振り返った。
生きづらさを抱えた彼女たちの歴史には、性暴力の影が付きまとう。その影響は元来の知的障害や精神障害の上に重荷となってのしかかり、さらに問題を複雑化させる。影響は性被害が起きてから長く続いていく。
「生まれた時から深い重荷を背負っている人もいます。ある時、自分がずっとお母さんだと思っていた人が、実はお姉さんでもあったと知らされました。お父さんがお姉さんを無理やり犯して、その結果、その利用者さんが生まれた。そんな環境が恐ろしくて早くに家を出たけれど、一人で生活するのもままならない。男の人を頼って、子どももできたけど逃げられてしまい、育てられずに里親に出した方もいました」(天羽名誉村長)
「こういう施設には扱いに困ってしまう人もいます。しかし、背景にはそうした被害が隠れている事があります。ある利用者さんは集団就職で都会に来たけれど、同じ部屋の友達に彼氏ができて居る場所がなくなって。それで仕方なく居酒屋で働き始めたけど、お客さんに暴行されたんです」(五十嵐施設長)
その利用者は妊娠。支援もなく誰にも言えずひとりアパートで出産した。子どもを自分で育てられないために、近所の民家の玄関前に乳児を置き去りにし、事件が発覚。即日保護された。彼女は自分の子を育てられず、子どもは施設に引き取られることになった。
「施設につながってからも人との関係に苦労しました。自分が威張ってボスみたいに振る舞うことでしか、他者との関係性を持てなかった」(五十嵐施設長)
他人に優しくしたり、安定した関係を築くには、過去にそうされた経験があってこそできる。安心できる環境から生まれつき排除されていた彼女たちは、その感覚を改めて学ぶ必要がある。その場としてかにた婦人の村は機能しているのだ。
五十嵐施設長はある利用者さんの話をしてくれた。両親の仲が悪く小2の頃に母親は家を出ていた。養護学校卒業後、障害者雇用枠でスーパーで働きに出て真面目に頑張っていたが、親身に、かつ厳しく接してくれていた祖母が亡くなると、心の糸が切れてしまった。
「社会で生きていくためと思ってあえて厳しくしてくれていたおばあちゃんが亡くなってタガが外れてしまった。これまでずっと我慢して、やるべきことをやっていたけれど、心の支えさえ無くなってしまって、もういいやとなってしまったのかもしれない。出会い系にハマっていっとき優しくしてくれる男性のところを渡り歩いていた。
かにたに繋がって生活を立て直そうとしたけれど、通常の福祉施設には定着できない。暴れて、これまで我慢していた感情をストレートに出すから。包丁を職員に向ける、みんなの食事の入った大鍋をひっくり返すなど数々の行動障害が見られました。うちで預かるのは無理ではという話が職員から出ました」(五十嵐施設長)
天羽名誉村長は穏やかなトーンで話をつなげる。
「それでも、絶対に良くなると支援者の人たちは信じています。暴力を振るいたくて振るっているのではないのだと思います。いろんな重荷を抱えて生きて来たけれど、共に重荷を背負って生きていこうって。
その利用者さんが暴れると、他の高齢の利用者さんがそれを見て『かわいそうだね』って言うんです。鍋をひっくり返されたり、大声を出されたりと散々迷惑かけられているのに『かわいそうな子だね、私も昔そうだった』って。
世の中からは締め出されて、仕事につくこともままならなくて、ひどいことされて。自分の感情をコントロールできない、体や心も言うこともきかない。その怒りが我慢できなくなっているのを、利用者さんはわかるのかもしれない。本当は暴力なんて振るいたくないのだと」(天羽名誉村長)
それでも、集団の中で安定した生活を送るうちに徐々に行動が変わってきたと言う。
「施設の中で回復してきた人は、外に働きに出ることもあります。それでも、ここに集って何かを一緒にする機会を無くしたくないのです。お互いに理解し合うこと。働くことの喜びを感じて、自分にもできることがあると思えること。それを経験すると、人はだんだん変わってきます」
天羽名誉村長はそう語る。五十嵐施設長も嬉しそうな表情を浮かべ、こう話した。
「問題児だったその利用者さんは、今は落ち着いています。今は『私、レディだから』なんて言う。大人の落ち着いた女性になったと言いたいのでしょう。かにたの複数の支援者との関係を作れた経験が活きて、地元にかえって再び障害者雇用枠で一般就労をしています」
かにた婦人の村では、日中は就労可能な人は働きに出て、就労がまだできない人は各自やりたい作業をする。編み物や陶芸に勤しむ人もいれば、畑で農作業にせいを出す人もいる。それぞれの自主性を重んじた活動をしている。集会所である「たんぽぽホール」には利用者さんたちが編み出したカラフルな紋様で飾られていた。
「ここでは喧嘩もしますし、揉め事も起こります。本当の家族でもそうですから。職員たちも間に入って止めようとはしません。見守ります。そうすれば、言い過ぎちゃってたね、ごめんねと謝れる。人間関係で起こるいろんな戦いや軋轢も隠さない。受け入れること、受け入れられることを学ぶのです」(天羽名誉村長)
「月に一度、工賃日があってその日作業をすると工賃がでます。ある精神疾患の人はその日だけ作業をしにくるんですね。普通なら、『なんでお金がもらえる時だけ顔を出すの?』と文句が出るところですが、利用者さんは『あら、よくきたね、またおいでね』と快く迎え入れ、見送ります。お互い許しあって認め合うことができる。ただ生きるのではなく、イキイキと生きること。ここでみな、それを体現していきます」(天羽名誉村長)
(後編に続く)