※以下の本文にて、本テーマの特性上、作品未視聴の方にとっては“ネタバレ”に触れる記述を含みます。読み進める際はご注意下さい。
夜のトンネルを飛び出した少女が、画面のほうを振り向いて、自分の恋心が見世物になったとつぶやいて、そのまま煙の奔流に飲まれるように消えてしまう。この出来事を折り返し点として、製鉄所とその周囲に広がる地方都市の様相が、人の心が変わり始める。変わらないはずだった町が揺れ始める。
『アリスとテレスのまぼろし工場』の舞台は、地方の小さな町である。ある時、そこの製鉄所で爆発が起き、どうしたことかその町は周囲の世界から空間的に隔絶されるだけでなく、時間からも切り離されてしまう。そこでは、いわゆる“ループもの”とも異なり、ただひたすら停滞した時間が降り積もっていくだけ。町では、いつ、もとの状態に戻っても困らないように「変わらないこと」が最重要の課題となっていく。学校では確認書まで作って各自が「変わってないこと」を確認する日々。そんな日々が、園部という少女が、煙の奔流に飲まれたことで、終わりを告げるのだった。
この街をおそった現象はなんだったのか。作中では、御神体である山を製鉄のために削ってきた結果の天罰などと語る人物も現れるが、映画の展開の中で、一番“結論”としておぼしき場所に置かれているのは主人公・菊入政宗の祖父がふともらす台詞だ。
そこでその祖父は、見伏の神様は自分たちが一番褒められたいい時期をそのまま残したかったのではないか、とこの現象を解釈してみせる。これが“真実”であるのかどうかは、作中で確認することはできない。しかし次第に現れる数と頻度が増えていく空間の裂け目から、その向こうの“現実”を見ると20年から30年は経過しているようで、この街は現実から隔離されたのではなく、「記念写真のように写し取られたもの」と考えるのはとても自然に受け止められる。
つまり、この町に生きている人々は「町にまだ活気があった時代の影」のようなもので、それはつまり一種の幽霊のような存在といえる。
幽霊の町に住む幽霊の人々。 この「幽霊の町」から思い出すのは大林宣彦監督の『廃市』である。似て非なるものを隣に並べることで、そのポイントが浮き上がることもある。
同作は福永武彦の原作と同様、北原白秋が舞台の町――柳川――を評した「……さながら水に浮いた灰色の棺である」という言葉が冒頭に置かれている。偶然というのは興味深いもので、例えば『アリスとテレスのまぼろし工場』で描かれる「あえて痛みを感じる遊び」「退屈をごまかす遊び」は、『廃市』ではこんなふうに描かれる。
「町の人たちも、熱心なのは行事だとか遊芸だとかばかりで、本質的に頽廃しているのです。私が思うにこの町は次第に滅びつつあるんですよ。生気というものがない、あるのは退屈です、倦怠です、無為です。ただ時間を使い果して行くだけです。」(『廃市・飛ぶ男』新潮文庫)。
物語は、そんな時の流れの淀みにあるような町に、語り手である大学生が訪れ、そしてそこで愛情のすれ違いによる悲劇の目撃者となる。やがて夏が終わり、町を去ることになった大学生は、町から遠ざかる電車の中で、自分もまた、悲劇の当事者であった女性を愛していたことに気づく。彼女の「こんな町には未来なんかないのよ」の言葉で送られた彼の手の中では、町では止まったままだった懐中電灯が再び時を刻み始める。
本作は原作と同様映画も回想形式となっており、その回想は「その町が火事になって町並はあらかた焼けた」ことを新聞で読んだことから始まったと語られている。つまり、作中の舞台となった町は作品の中では、ラストシーンの後にすでになくなってしまっているのである。
このように「時間の停滞した町」「倦んだ人々」「列車で現れる外部の人間」「外部の人間は失恋ともに去る」と、『廃市』と『アリスとテレスのまぼろし工場』は、その要素だけ抜き出すと共通点が多い。しかし、大事なのはむしろ重要なのは「異なる」ところだ。なにが異なるかというと、『廃市』は来訪者の視点で展開するが、『アリスとテレスのまぼろし工場』は町で暮らす正宗の視点で展開する物語であるというところが違う。これは単に視点の違いだけではなく、これが最終的に映画の訴えたい感情の違いへと繋がっていく。
『廃市』は、当事者になれなかった「旅人」の寂しさと喪失感が、そこからはるか時間が経った“現在”(ナレーターが語っている時点)でも傷のように残っていることを言外に示して締めくくられる。それに対して、『アリスとテレスのまぼろし工場』では「幽霊の町で生きること」を力強く肯定する。要素が似ているからこそ、並べるとベクトルの方向がまったく異なることが際立つ。
『アリスとテレスのまぼろし工場』は、どのようにして「幽霊の町で生きること」を力強く肯定するのか。そこで大きな働きをするのが「エネルゲイア」という概念だ。これはアリストテレスが使った言葉で、作中では政宗が父・昭宗と会話した回想シーンにでてくる、少年漫画の必殺技の名前として登場している。昭宗は、それを読んで思わず笑っていたから、言葉の出典を知っていたのだろう。
岸見一郎の『愛とためらいの哲学』(PHP新書)では、アリストテレスの説明を用いて、エネルゲイアを「ダンスのような動き」として紹介している。これは「キーネーシス」という、ある目的・終点を目指す行動と対比するとわかる。同書の例えを借りて説明すると、「学校へ向かう」はある終点を目指している行動=「キーネーシス」である。それに対し、ダンスは踊ることが目的だからなにかを目的にした行動ではない。これがエネルゲイアであるというわけだ。
同書ではそこから愛の説明にエネルゲイアを使う。 「エネルゲイアにおいては『なしつつある』ことがそのまま『なしてしまった』ことです。ダンスのようなエネルゲイアとしての動きは、どこかに到達しなくても、瞬間瞬間が常に完全なのです。(略)愛の経験もエネルゲイアです。つまり、はじめと終わりというものがあるわけではなく、愛のいずれの段階も完全なものです。今ここに、無時間性の中で起こる愛の経験においては、それがいつまで続くかというようなことは少しも問題にならないのです」。
「幽霊の町に住む幽霊の人々」だったものが、エネルゲイアという概念を通じて、「瞬間瞬間に喜びを感じる、無時間の中に生きるエネルゲイアの実行者」として読み替えられるのである。コペルニクス的転回ならぬ、アリストテレス的転回といえる。前掲書で愛の説明にエネルゲイアが愛の説明に用いられている通り、本作では、それが正宗と睦実の恋愛を通じて描かれる。
本作では、幼い時に現実世界から迷い込んだ野生児のような五実と、五実の世話をしている睦実という2人の少女が出てくる。睦実は政宗と同じクラスで、同じ様に停滞しているこの世界に倦んでいる。クライマックスの前触れとなる位置に置かれた睦実との長いキスシーンで政宗は、停滞した時間の中で倦んでいた自分が、野生児のように生きる五実を見て「生きるってこういうことだ」という実感をもらったと語る。
そして、睦実に恋をすることで、「自分だってここに生きているんだ」と強く思うようになったと告げる。この政宗の告白こそ、幽霊のような生を、エネルゲイアで言い表されるような「瞬間=永遠」であるような無時間を生きることへと転倒させる宣言といえる。これが終盤の開放感とともに描かれる「今」の強い肯定へと繋がっていることはいうまでもない。
そして、作中でエネルゲイアという言葉を使わずともこの「瞬間=永遠」ということが伝わってくるのは、正宗の、睦実の、そして五実のそれぞれの恋心が、言葉にならないようなカオスとして描かれているからだ。
好きという気持ちと相手にイライラさせられる気持ちがともに存在し、胃の当たりをジリジリと焼く。エネルゲイアはエネルギーの語源らしいが、名前のつけられないドロドロとしたエネルギーが自分の中で沸騰するような感覚。それが映像から伝わってくるから、その感覚こそが「今この瞬間生きている実感だ」ということが理解できる。こうして本作は「幽霊の町で幽霊の人が生きること」とある種の人間讃歌として作り上げたのだ。
では現実のほうはどう描かれたか。『廃市』は失恋を核とする喪失感が現在まで続いていることを匂わせたが、本作は「失恋」こそが登場人物の原点であり、生まれ直しの契機である、という形で物語を締めくくる。失恋した場所が同時に“ふるさと”であるというのは、そういうことなのだろう。