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児玉雨子が『##NAME##』に込めた「戦えない人」への想い。小説は「人間の弱さ」のためにある

2023年10月10日 17:10  CINRA.NET

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Text by 羽佐田瑶子
Text by 後藤美波
Text by 寺内暁

『第169回芥川賞』候補作に選ばれた、児玉雨子さんの小説『##NAME##』(河出書房新社)。主人公の元ジュニアアイドル・雪那は、大学生になったいまも名前を検索され、学生生活やバイトに支障をきたしている。母親との確執、唯一の友人・美砂乃との日々……過去のトラウマから逃れられず、複雑に揺らぎ続ける感情を児玉さんは繊細に掬い取り、そこには「現代の闇」「過去の誤ち」といった簡単な言葉で片づけられない切実な叫びが描かれる。

アンジュルムや私立恵比寿中学などのアイドルグループから『アイドリッシュセブン』『劇場短編マクロスF 時の迷宮』などのゲーム・アニメソング、そして近田春夫さんまで、ジャンルを問わず作詞提供を行なっている児玉さん。作詞家として10年以上活躍し、2021年に初小説『誰にも奪われたくない/凸撃』(河出書房新社)を発表。本作で2作目となる。作詞家として、若い世代のアーティストたちが歌う言葉を紡いできた児玉さんは、どんな思いで「ジュニアアイドル」をテーマに小説を描いたのか? 本作への思いを語ってくれた。

児玉雨子『##NAME##』(河出書房新社)

光に照らされ君といたあの時間を、ひとは「闇」と呼ぶ──。かつてジュニアアイドルの活動をしていた雪那。少年漫画の夢小説にハマり、名前を空欄のまま読んでいる。『第169回芥川賞』候補作

─『第169回芥川賞』ノミネート、おめでとうございます。発表から日が経ちましたが、だいぶ落ち着かれましたか?

児玉:そうですね、受賞作が決まってから落ち着きました。いつ、どのタイミングで言っても「負け惜しみ」と言われそうなので黙っていたのですが(笑)、今作はノミネートされただけでも十分で、書いてよかったと思いました。

思い込み過ぎかもしれませんが、出版業界だと「本職は作詞家だ」と言われるし、音楽業界だと「小説も書いているよね」と、手広くやっている中途半端な人だとみなされてしまう。その宙ぶらりんな感じが私の個性でもあるのですが、今回のノミネートでそのスタンスに自信を持てたというか、「きっとこの生き方は間違いではない」と思うことができました。

児玉雨子(こだま あめこ)

作詞家、作家。明治大学大学院文学研究科修士課程修了。アイドル、声優、テレビアニメ主題歌やキャラクターソングを中心に幅広く作詞提供。著書『誰にも奪われたくない/凸撃』。

─『##NAME##』の主人公は、元ジュニアアイドル。ジュニアアイドルとは小学生~中学生を中心とした子役やアイドルの総称です。アイドルと聞くと一般的に歌って踊るイメージがありますが、水着やコスプレを着用した撮影会の参加やイメージビデオ(IV)の販売など、グラビアアイドルに近い活動をする場合も。IVのなかには性的なシーンを連想させる過激なものもある一方で、芸能界での成功方法のひとつとして、1990年代は数多くのジュニアアイドルが活動していました。

児玉さんはなぜ、ジュニアアイドルをテーマに選ばれたのでしょうか?

児玉:もともとジュニアアイドルという存在を知っていて、ずっと心に引っかかっていました。いまの社会の状況といまの私なら書けるかもしれないと、タイミングがうまく合ったと思います。

─前作『誰にも奪われたくない』は、作曲家とアイドルの話でした。ジャンルは違いますが、同じく芸能界に関わる女の子が主人公ですね。

児玉:前作をきっかけに「アイドルについて他にも書いてほしい」という依頼を、いくつかいただきました。ありがたいお話ではあるのですが、正直に言えば、私の立場でアイドルを題材にすると、フィクションを書いても「暴露」として捉えられてしまう可能性があって、書くことに抵抗感がありました。文学にゴシップ性を求める人もいますからね。

でも、「推し活」ブームも相まってのオファーだったと思いますが、「これ以上は出てこない」ととどめを刺せるようなものを書こうと、前作でもご一緒した編集の矢島さんに相談して本作ができました。

─ずっと、心に引っかかっていたのは、どうしてだったのですか?

児玉:ジュニアアイドルという存在を知ってしまった限り、見て見ぬふりはできないと思っていました。

いつも考えるのが、私たちは子どもを「子ども」として扱えているのだろうか、ということです。それは性別や業界に関係なく、あらゆる未成年に対して思います。守られることに息苦しさを感じる子どももいるだろうから、とても難しい問いだと思いますが。

─カメラ前に立つということは子どもでも自らの意思があったのだろうという意見も多々見られます。ですが、本作を読んで、自分の正しさに従って選択することがいかに難しいか、考えさせられました。

児玉:自戒も込めてなのですが、送り出す側も見る側も少しずつ麻痺してしまうんですよね。人によっては、子ども扱いされたくない気持ちもわかるのですが、未成年であり守られるべき存在であることを忘れちゃいけない。私も自分のことを振り返って、「あのときの私の態度はどうだったのだろう? あの子をちゃんと『子ども扱い』していたかな」と考え込むこともあります。

「推し活」というものが流行ったことで、一部の「オタク」が楽しむものだった子役やアイドルの存在が、以前よりも広く日の目をみるようになってきました。そういった変化も踏まえて、子役に社会問題の視点で切り込むこともできると思うのですが、私はもっとパーソナルな視点で書きたかった。子どもや家庭という存在を考え直したいという、個人的な思いもあって書いたテーマです。

児玉:この物語は、登場人物が歪んだ社会構造を直そうと戦う物語ではなくて、むしろ、自分自身を変えることで世界に順応しようとしている物語です。

個人的にはさまざまな問題に対して「戦おう」「声を上げよう」と思っているのですが、どうしたって戦えない状況の人もいます。戦えないことで「私は弱い」と自己否定しなくていいと思います。弱さは誰にでもありますし。何よりトラウマをケアするのはとても難しいことです。薬を飲めば治る、というものでもありません。

─トラウマを語ることの難しさは、以前インタビューした研究者の岩川ありささんのご著書でも語られていました(※)。

児玉:たった一度の被害が、その後の人生を潰してしまうほどの威力があると言いますよね。「自分自身に生まれたことが間違いであった」と思うような苦しさ……私は精神医学のプロではないし、他人の傷に適切ではない介入をしてしまわないか怖いのですが、小説なら出来ることがあるかもしれないとも思いました。

戦うのは大事ですし、できれば声を上げたいのですが、本作ではそうできない人の心音を書けていれば嬉しいです。

─その思いは、すごく伝わってきました。「声を上げよう」という動きに背中を押されることももちろんありますが、言える人と言えない人がいて当然だとも思います。

児玉:でも、言えない人の物語がまだまだ足りないと思います。社会運動が「弱い立場の人間」のためにあるのなら、小説は「人間の弱さ」のためにあると思ってきたので。

─印象的だったのは、主人公が「私は傷ついた」と自覚するまでの揺らぎが繊細に描かれていたことです。「いじめられていたかわからない」「自分は児童ポルノの『児童』だったのかもしれない」と語尾が曖昧で、はっきり気持ちを示せない。そうした揺らぎについては、意識的に書かれたのでしょうか?

児玉:そうですね、自分のことを全然わかっていない人の書き方をしました。精神科の先生の本を読んで知ったのですが、大きなショックを受けてしまうと、人はすべて「他人事」に感じてしまったり、記憶を失ったりすることがあるそうです。トラウマをぼんやりとしか覚えていないのではなく、完全に忘れてしまうことも珍しくないと。

それを踏まえて、雪那が自分について語るとき、最初はすべての語尾を「~だったようだ」とか「~しているみたいだった」とか、他人事の書き方していました。でも、さすがに読みにくくてやめました。

─大きなショックによって記憶を失うという感覚を、児玉さん自身はどう捉えていましたか?

児玉:私自身、小学生のときに辛かったことがあって、その当時の記憶が全くないんです。あまりに苦しい出来事は、覚えているとそれだけでストレスなので、生存戦略として忘れることもあるみたいですね。トラウマ体験を語れない人がいて当然だと思いますし、あえてぼんやりさせるのもひとつの逃げ道なのかなと思いました。

ただ、小説ではさすがにぼんやりさせ過ぎて、編集の矢島さんから「もっと歌い上げてください」と戻されました(笑)。当初はもっと淡々とした終わり方だったのですが、最終的に最後の部分を加筆できたので良かったと思っています。

─雪那が読んでいる夢小説に繰り返し出てくる台詞で「まともに傷ついてどうする」とあります。「こんな世界で、いちいち傷ついていたらやっていけない」という思いも込められた言葉だと思いますが、一方でそのような処世術がうまくなるほど自分の傷に鈍感になってしまう。「まともに傷つく」ことはとても難しく、また怖さもあるなと思いました。

児玉:この言葉は、雪那と美砂乃ちゃん(※)のスタンスなんです。あらゆる事柄を受け止めないように、雪那は鈍くいることでその場に適応していて、美砂乃ちゃんはその環境に過剰に順応しているイメージで書きました。

─「夢小説」がひとつのキーになっていますが、主人公の心の拠り所を二次創作の物語に設定されたのはどうしてだったのでしょうか?

児玉:意識的なものではなかったのですが、1990年代生まれのジュニアアイドルで、その子自身がひとりになったときに何を拠り所にしているのか考えたとき、「ガラケー(携帯)」だと思ったんです。友だちが多いわけでも、文化的資本のある家庭環境でもなく、移動中に携帯で読める小説がぴったりだろうと。

当時流行ったケータイ小説に多い恋愛物語は、主人公が若くして妊娠して、子どもを産むか産まないか悩んでいたら愛する人が死んでしまう、というものでした。それには雪那は共感しないだろうと思って、夢小説を選びました。

─心の拠り所という意味では、美砂乃ちゃんの存在も欠かせないですよね。「どんなに美しい言葉であっても(美砂乃といた世界を)物語られたくなかった」という言葉が印象的でした。『誰にも奪われたくない』でも作曲家のレイカとアイドルの真子、ふたりだけの世界を書かれていましたが、このようなふたりの関係性を描くのはなぜなのでしょうか?

児玉:完全に、フェティシズムでしかないです(笑)。私自身も子どもの頃、「一瞬だけ成立している友だち」が多かったこともあるかもしれません。電車通学のあいだは喋るけど学校では話さないとか、塾では話すけど学校では会わないとか。その秘密的な関係性が心地よくて、好きなんだと思います。

─自分のことについて自ら声を上げたり、怒りを表明したりすることは、大きな負担が伴うこともあります。作中に「私に必要なのは憤怒よりもまず救済だった」という言葉がありますが、被害や搾取をあとから自認する、という繊細なテーマを書くときに意識されたことは?

児玉:そうですね……人によって言葉の受け取り方、認識のズレがある、ということでしょうか。たとえば、雪那が母親に「いじめられているの?」と聞かれて、無視されたり中傷されたりしていたことを伝えると「殴られていないからいじめではない。あなたに嫉妬しているだけだよ」と解釈されてしまう。でも、それも価値観が違うだけで、私はいじめとして取り扱っていました。セクハラでもよくありますよね、スキンシップのつもりだったという発言。そのような自分と他者の認識のズレを自覚することで、次第に傷ついていたことを認められるのだと思います。

本作の雪那の場合、水着撮影が嫌でも「みんなが通る道だから我慢しなさい」などと言葉巧みに丸め込まれてしまっていました。私はそれを「騙されている」と思うのですが、当人たちは搾取構造に気づけないのかもしれません。

─主人公がジュニアアイドルをしていた2000年代半ばと比べると、作中にも登場する2014年の児童買春・児童ポルノ禁止法改正など近年は社会状況の変化も見られますね。

児玉: 1980~1990年代生まれの人たちはちょうど過渡期だったので、主人公の年齢設定もここにしました。この10年で変化があったのはいいことだけれど、だからといって昔がなかったことにはならないことも念頭に置きながら書きました。

─そうですよね。上の世代からは、どのような感想が届いていますか?

児玉:あまり多くの声が届いているわけではありませんが、「やっとこの話題を書く人が出てきたのか」という声はありましたね。

─逆に、若い世代だと、わりと理解しやすい内容なのかもしれないですね。デジタルタトゥーやネットリテラシーが授業で扱われるようになっていますし。

児玉:いまなら書ける、という感覚はありました。「いまどきのネット社会って怖いですね」と時事ネタとして消費してしまうのではなく、こういうことは昔からあったし、いまはあたり前に起こるという前提で読んでもらえるので。

─「自分で自分の未来を選び取れる」というような希望的な終わり方に、次世代に対する祈りのようなものを感じました。それは、作詞家としての使命感にもつながるのかもしれませんが、若い読者に対してはどんな想いで書かれましたか?

児玉:こういった被害でも、失敗でも、何か「普通」ではない状況に陥ったとき「人生が終わった」と思うことってあるじゃないですか。それは、年齢が幼いほどダメージが大きくて、「一生やり直しがきかない、そんなミソのついた人生なら早くやめちゃった方がいい」と思ってしまうかもしれません。でもそのトラウマ体験に対して、どんなやり方でも自分自身を再構築することができるのではないか、そうして獲得した自分で、もっとのうのうと生きていていいんじゃないかな、という思いはありました。

本作で、主人公が社会に対して全く戦っていないじゃないか、と批判されてもいいと思っています。個人があらためて「自分とは何なのか」見つめ直す、生き方の再構築という意味で希望的な何かを受け取ってもらえたのなら嬉しいです。

─冒頭に、児玉さんが「適切ではない介入の仕方は怖い」と仰っていましたが、終盤に登場する司法書士・坂尻さんの存在は、じつはすごく大きいのではないかと思えました。事務処理的に、彼女のトラウマに関わる手続きに対応するのですが、救いの手のようだと。

児玉:本来は、最も近くにいる大人である保護者がそうであってほしかったんですけど、本作のなかで最も遠い他人が、唯一まともな大人だったかもしれませんね。