Text by 山元翔一
Text by 畑中章宏
1941年生まれの宮﨑駿にとって、2023年7月公開の映画『君たちはどう生きるか』は「最後の長編映画」になるかもしれない。が、しかし、まだやり残したこと、「宿題」があるのではないか……そう考えさせられるのは、宮﨑駿にとって「格別の人」、堀田善衞という作家の存在からである。
宮﨑駿は若き日より堀田善衞を尊敬し、熱心にその作品を読んできたという。そして実際に、スタジオジブリと堀田善衞のあいだには具体的な親交があった。そのはじまりは、『天空の城ラピュタ』(1986年)にまで遡る。スタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫は、当時自ら編集を手がけた『映画天空の城ラピュタ GUIDE BOOK』(徳間書店)の企画で、堀田善衞に寄稿を依頼。本人を目の前に、下記のような言葉を投げかけたという。
「堀田先生は、これまで人間とは何かという問題について書かれてきました。ならば人類が今後、どうなっていくのかについても書かれる義務があるんじゃないでしょうか」
対して、鈴木からの依頼を引き受けた堀田は以下のような文章で応えた。
「アニメーションを作る人々から、“人類の運命について”という趣旨で文章を書け、などと言われようとは想像もしないことであった」
両者の関係はこうしてはじまったのだった(※)。宮﨑駿は堀田善衞から何を受け取ったのか、そして『君たちはどう生きるか』の「次」にありうべき作品とはどんなものなのか、民俗学者の畑中章宏が考えをめぐらせる。
宮﨑駿監督の10年ぶりの長編アニメーション映画『君たちはどう生きるか』は「半自伝的」作品とみて間違いない。その根拠のひとつが、空襲で母親を亡くした主人公の眞人が、軍用飛行機製造工場を営む父親と疎開する設定であり、これは宮﨑自身の自伝的事実にもとづく(※)。
眞人と父親の勝一は、決して繁華とは言えない地方の町の駅で、勝一の再婚相手で眞人の実母・ヒサコの妹・夏子の出迎えを受ける。
あらすじ:少年眞人は、母を追って、生と死の世界へとむかった——。そこは、死が終わり、生が始まる場所だった。眞人を導いたのは、嘘と真を使い分けるサギ男。少年は友と出会い、母と再会し、創造主・大伯父と向き合う。あなたがいてくれて、本当に良かった。宮﨑駿が友情をこめて描く、生と死と創造の自伝的ファンタジー。 - 『君たちはどう生きるか』劇場パンフレットより引用1941年に東京文京区で生まれた宮﨑駿は、44年に栃木県鹿沼市(当時は上都賀郡鹿沼町)に疎開する(のちに工場ごと宇都宮に移る)。鹿沼では、宮﨑の父が伯父とともに「宮崎航空機製作所」を経営していたからである。最盛期には工員が1,500人もいたというこの会社でつくった部品の納入先は、前作『風立ちぬ』に登場する「中島飛行機」だった。
……伯父が社長で親父が工場長でした。飛行機工場といっても、零戦の風防と夜間戦闘機「月光」の、翼の先の組み立てだけをやっていた、まあそんな程度の工場です。ですから飛行機工場というほどの大それたものじゃなく、町工場の延長です。 - 『半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義』(2013年、文春ジブリ文庫)より引用『君たちはどう生きるか』では、眞人家族が住む豪壮な民家に軍用機の「風防」(操縦席を覆う風除け)が運び込まれ、やがてまた工場に戻される場面があるが、住家の構えはともかく、駿が疎開先で風防を見たことも事実である。
ぼくが日本の軍用機でじっさいに見たことがあるのは、零戦の風防だけです。物置の土間に新品の風防が二つ置いてあるのを見ました。そのときはなんだかわからなかったんですけど、ピカピカ光っていました。まだ色も塗っていない新品だったのだと思います。 - 同前勝一 『君たちはどう生きるか』より ©2023 Studio Ghibli
父親の工場は軍需景気に沸いた。父親の戦争への協力に忸怩(じくじ)たる感情をおぼえているようだが(※)、宮﨑少年はやがて「軍事マニア」「軍用機マニア」となり、多くの作品中に軍用機を登場させている。宮﨑アニメの底流にはこうした矛盾とジレンマが横たわっているとみられるが、戦争をめぐる経験でもうひとつ大きいのは、疎開していたため宮﨑自身が空襲を経験していないことである。
宮﨑は戦争の悲惨、なかでも同時代を生きた人びとが経験した東京大空襲の残酷は、史料や文学作品などによって得るしかなかったのだ。
宮﨑監督は「軍用機マニア」としての本領を発揮して、『風立ちぬ』以前にも『紅の豚』(1992年)を制作している。また、『未来少年コナン』(1978年)や『風の谷のナウシカ』(1984年、原作は1982年-1994年の期間に連載)も戦争を肯定的に描いてはないものの「戦闘シーン」は宮﨑アニメの娯楽性を高める要素になっている。つまり宮﨑駿は、自分が体験していない「戦争の悲惨」を描き切ってはいないのである。
そんな宮﨑が、大空襲の詳細な描写だけではなく、「厄災」に向き合った人間の複雑な感情をとらえた作品として熟読し、いつか映画化したいと考え続けてきたのが堀田善衞の『方丈記私記』(1971年、筑摩書房)だ。
1971年に刊行された『方丈記私記』は、1945年3月に東京を襲った大空襲と、鎌倉時代を生きた鴨長明による『方丈記』の世界を重ね合わせた長編エッセイである。
『方丈記』は平安時代末期からの鎌倉時代初頭にかけての、京都とその周辺で起こった動乱(戦乱・災害・遷都など)を描き出した随筆で、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という冒頭部はよく知られている。この著名な随筆を戦後文学者・堀田善衞が、1945年3月に自身が体験した東京大空襲と重ね合わせて、従来の「無常」とは異なる「非情」を見出すともに、戦争の悲惨な現実をあぶり出している。
焼け出されて着のみ着のまま、焼けこげて生身の露出した襤褸(らんる)をまとった人々、あるいはまた最小限の荷物をもって逃げ出して来た人々とすれちがいはじめた。そういう人々、罹災者たちのほとんどが鼻の傍に黒い砂、あるいは灰をため、眼のふちはもっと青黒く、灰や埃で眼尻や口のまわり、額の皺などもあらわに刻み込まれ、一様に、すべての人々が涙を流してよろよろ歩いていた。泣いているのではない。火と煙で眼をやかれ、痛めつけられたのである。 - 堀田善衞『方丈記私記』より引用堀田善衞『方丈記私記』書影(外部サイトを開く)
宮﨑駿は、戦後の平穏な社会のなかで堀田が記した大空襲の描写と出会い、衝撃を受け、自身の思想やものの見方の根幹に据えたのだった。
戦後民主主義の、戦争は絶対にしてはならないというテーゼを、僕は無条件で受け入れて来た。そのテーゼは今も正しい。しかし、その根拠となる理念が、自分の中で何とも弱いのだ。多民族が入り乱れ、憎悪が、憎悪の拡大再生産をつづける現実に出会うと、その弱さがモロに出てしまう。
(中略)一九四五年三月の東京大空襲の焼跡で、知人の消息をたずね歩くうちに、昭和天皇の焼跡視察に出会い、戦災を受けた人々が、本来謝らねばならない立場の天皇に、逆に土下座して謝る様子を目撃して、日本と日本人に絶望した堀田さん。その運命的な体験を出発に、沢山の人々と出会い ―― それは同時代の人に限らず、鴨長明、藤原定家という人々も含めて ―― 独特の歴史感覚を育て、堀田文学をつくった人。 - 堀田善衞は1918年、富山県高岡市に生まれ、慶應義塾大学予科を経て慶應義塾大学文学部フランス文学科を卒業。44年に召集されるが、胸部疾患のため解除となり、国際文化振興会からの派遣で上海に渡る。45年3月、一時的に帰国していた東京で空襲に遭う。48年から本格的に作家生活を開始し、51年に発表した『広場の孤独』で『芥川賞』を受賞。多くの小説を発表する一方、アジア=アフリカ作家会議の推進に力を入れた。1998年没。
宮﨑駿は堀田の作品中でも『方丈記私記』をこよなく愛し、映画化を模索してきた。
堀田善衞の『方丈記私記』のアニメーション化、それも商業映画としてつくること、いや、つくれるか。この途方もなく常識はずれで、成算も何もないと判っている思いつきを、空想の中で転がしている。(中略)『方丈記私記』の映画化は非常識をはるかに跳びこえている。だからこそ、空想で転がす分には良い気分になれるのだが、時折は真剣に組立てを考えたりするのだ。 - 堀田の「思想」は前作『風立ちぬ』にも大きな影響を与えていたようである。
堀田善衞の『空(くう)の空(くう)なればこそ』という書の中に、『凡て汝の手に堪ることは力をつくしてこれを為せ。』という一文がある。(中略)今作の中で、二郎は夢の中で出会う航空機設計技師の大先輩カプローニから何度か呼びかけられる。「力を尽くしているかね」と。 - 東京大空襲は『君たちはどう生きるか』で母子の別れの原因として描かれていたが、その残酷は掘り下げられてはいない。宮﨑がこれから先、『方丈記私記』に本格的に取り組むことはあるのだろうか。
堀田には『広場の孤独』『方丈記私記』のほか、小説に『海鳴りの底から』『若き日の詩人たちの肖像』、評伝・評論に『ゴヤ』『定家明月記私抄』『ミシェル 城館の人』など数多くの作品がある。堀田を自分にとって「格別の人なのだ」という宮﨑は、その共感を次のように述べる
読者になって三十年にもなるが、この間、堀田さんの歩みと作品が、どれほど僕の支えになってくれたか判らない。日本という国が大嫌いで、日本人であることが恥しくてたまらなかった若い頃に、堀田さんの『広場の孤独』をはじめとする諸作品に出会って、この人は自分と同じ問題をかかえているらしいと感じた。 - 宮﨑駿の堀田文学と出会いを画した『広場の孤独』はこのような作品だ。
朝鮮戦争(1950年–1953年)のさなか、日本はアメリカ軍の基地ないし生産拠点としての非常に重要な役割を担っていた。ある新聞社の臨時職員である主人公「木垣」は、雪崩のように入ってくる電文を翻訳するためある新聞社で数日前から働いている。朝鮮軍を日本の「敵」と書くべきか否かに疑問を感じるのだった。現実世界に居場所をもたたない木垣だったが、国外逃亡をはかるにあたり、どうあがいても「Commit(コミット)」してしまう現実に対して小説を書くに至る。
……二人の跫音(あしおと)が消えたとき、木垣はぶるっと頭を振って再び空を仰いだ。星々はいつの間にか消えてしまって、空はいつものように暗かった。光りは、クレムリンの広場とかワシントンの広場とか、そういうところにだけ、虚しいほど煌々と輝いているように思われた。そして彼はそこにむき出しになっている自分を感じた。生れてはじめて、彼は祈った。レンズの焦点をひきしぼるような気持でまず書いた。広場の孤独と。 - 堀田善衞『広場の孤独』(新潮社)より引用私はじつは、宮﨑駿がまた長編に取り組むことがあるとしたら、『広場の孤独』を「原作」(『君たちはどう生きるか』が吉野源三郎の小説を原作にしているような意味で)にした作品をつくるのではないか、と秘かに予想しているのだ。
『広場の孤独』の時代の日本は、ユーラシア大陸の西のほうで戦争が行なわれている現在の状況とどこか似ている。そして『広場の孤独』の映画化は、『風立ちぬ』の堀越二郎の戦後、『君たちはどう生きるか』の眞人の戦後を描くこと(※)にほかならないからである。