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クリスティー作品の魅力。映画『名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊』の原作『ハロウィーン・パーティ』書評

2023年09月15日 17:10  CINRA.NET

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Text by 栄藤徹平
Text by 杉江松恋

ケネス・ブラナーが監督し自ら主演も務めるシリーズの第三作『名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊』が、9月15日から劇場公開されている。イタリアの水上都市ベネチアを舞台に、世界一の名探偵エルキュール・ポアロが超常現象の謎に挑むという作品だ。

原作はもちろん、アガサ・クリスティーのポアロシリーズなわけだが、映画タイトルだけで原作を当てられる人は皆無ではないだろうか。じつは、1969年に発表された『ハロウィーン・パーティ』なのである。

本稿では、ミステリ評論家・書評家の杉江松恋が、原作『ハロウィーン・パーティ』を切り口にクリスティー作品(特にポアロシリーズ)の魅力を紐解く。

なお、映画については作品紹介以上のネタバレはしていないので、まだ観ていない人も、観たうえで原作が気になったという人も、ぜひ最後まで読んでいただきたい。

『ハロウィーン・パーティ〔新訳版〕』
アガサ・クリスティー/山本やよい=訳
クリスティー文庫

原作の舞台はベネチアではなく、ロンドン近郊のウッドリー・コモンという村だ。ハロウィーンにそこで開催されたパーティに、ミステリー作家のアリアドニ・オリヴァーが参加する場面から物語は始まる。

彼女に話しかけてきたのが13歳のジュディス・バトラーだった。パーティの準備中、ジュディスは「殺人を見たことがある」と言い張るが、オリヴァーはこどもの戯言と相手にしない。だがパーティの終了後、ジュディスは哀れな死体となって発見されてしまう。

映画の発端はまったく異なる。イタリアのベネチアで静かに暮らしていた探偵エルキュール・ポアロがミセス・オリヴァーにせがまれて降霊会に参加することになるのだ。彼女によれば、レイノルズという霊能者が「死者の声が聞こえる」と称しているという。ハロウィンの夜に開かれた降霊会で、悪天候のため招待客は屋敷から出られなくなる。そんななか、人間には不可能と思われるかたちで招待客の一人が殺されてしまうのだ。

ハロウィーンの催しという共通項以外を大胆に改変した翻案、というべき内容だが、もしかしたらここが共通項かも、という要素はある。それについては後述したい。

原作以上にミセス・オリヴァーが活躍する内容なのはクリスティーファンにとって嬉しいところだろう。このキャラクターはクリスティーの分身なのである。ポアロシリーズを中心に登場し、素人探偵気どりで事件に首を突っ込んでは大変な目に遭う、という役どころである。

クリスティーは、自分を投影した人物をコメディ・リリーフに起用したのだ。ポアロは元ベルギー人で退職した元刑事という設定だが、ミセス・オリヴァーはフィンランド人の探偵が出てくる作品を書いている。リンゴが好きでいつもかじっている、というのもクリスティーとまったく同じなのだ。

そのミセス・オリヴァーが好物のリンゴを食べられなくなるのが、原作『ハロウィーン・パーティ』である。「アップルボビング」という、バケツに浮かべたリンゴを手を使わずに口で取る遊びがある。原作では、少女がそのバケツに顔を沈められて殺されるのである。「もうリンゴは見るのも嫌」とミセス・オリヴァーは悲嘆にくれる。

『ハロウィーン・パーティ』は、ポアロシリーズとしては33ある長篇の31番目に当たる。最晩年の作品なので、たとえば初期作品の『アクロイド殺し』のような驚天動地の趣向はない。ただし最後で明らかにされる犯人像や、なぜジュディスが殺されなければいけなかったのかという動機の問題などには、さすがと言うべき独創性がある。卓越した人間観察力によって数多の人物を描いてきた作家ならではの真相なのだ。

本作はイギリス出身の作家P・G・ウッドハウスに捧げられている。ウッドハウスは万能の従僕ジーヴスが登場するユーモア小説で日本でも知られるが、そのスラップスティックな作風は現在でも多くの読者に愛されている。

じつは、クリスティーが得ようとして得られなかったのが、ウッドハウスのセンスだった。クリスティーの筆致はふんわりと柔らかでもちろん楽しいが、爆笑を起こすほどではない。突き抜けたギャグを書くような作風ではないのだ。少女が殺されるという内容の『ハロウィーン・パーティ』も、雰囲気は陰鬱である。

これは1958年のノンシリーズ作品『無実はさいなむ』あたりから顕著だが、後期のクリスティーは人生の暗部を好んで書くようになった。それと並行して目立ったのは、エルキュール・ポアロが時代から取り残された者の諦念を担うようになったことである。時は流れ、人々も変っていく。そのなかで、旧い世代の倫理観をそのまま有した者は、自身がすでに過去の人であることを思い知らされながら生きていくしかない。1950年代以降に書かれたポアロ作品には、そうした違和の表明が行なわれるものが多いのである。

もともとポアロは、過去の人として登場した探偵だった。デビュー作品ですでに、引退した元警官として紹介されているわけなのだから。クリスティーは彼を持て余した時期もあるらしく、1940年の『杉の柩』ではポアロを出したのが失敗、と言い切っているくらいだ。それでもポアロがお払い箱にならなかったのは、彼の持つ道徳、新しい世代から見ればもしかすると旧弊だと言われかねない倫理観が、クリスティー自身の感覚と一致する部分が多かったからではないだろうか。

ポアロシリーズの作品を読むときは、犯罪について彼がどのような思いを抱くかに注目すると味わい深い。本作中にもこのようなくだりがある。

——[……]彼はつねに正義を第一に考える人間だ。慈悲というものに——行きすぎた慈悲に——疑問を持っている。ベルギーとこの国の両方でかつて経験したことから学んだのだが、行きすぎた慈悲はしばしば、さらなる犯罪のもととなる。正義を第一に考え、慈悲を第二にしておけば被害者にならずにすんだはずの人間が、その犯罪のせいで命を落とすことになる。 - 山本やよい訳テレビドラマシリーズ『名探偵ポワロ』の主演を務めたのは、1946年生まれの俳優デビッド・スーシェだ。約四半世紀にわたってポアロを演じた後、彼は2013年に『ポワロと私 デビッド・スーシェ自伝』(ジェフリー・ワンセルと共著。原書房)を著した。

このなかでポアロという存在についてスーシェは鋭い分析を行なっており、『ハロウィーン・パーティ』についても言及がある。「結末に向けてポワロの中で湧き上がる怒り」(高尾菜つこ訳)が核だと見抜いている点は慧眼で、『ハロウィーン・パーティ』はまさしくそういう作品なのである。

(c) 2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.

ポアロという探偵を規定するのは第一に、犯罪を憎む心だ。ドラマ『名探偵ポワロ』で『ハロウィーン・パーティ』が映像化されたのは第12シリーズで、本作の次が『オリエント急行の殺人』である。外見上は共通項のない2作なのだが、ポアロの正義という観点を導入すると意味の連環が生じる。犯罪を憎み、咎なくして死んだ被害者を憐れむ心がポアロの中心にあると知っていると、この二作の並びは味わい深いのである。

ポアロのもう一つの特徴は、経験豊かな人生の達人であることだろう。誰かが何かをすることには必ず意味がある、という知見の積み重ねがポアロのなかにはある。彼は人々の些細な仕草に着目し、そこから行動の意味を探り当てる達人なのだ。『ハロウィーン・パーティ』でも、ポアロが真犯人に気づいたのはごく小さなことがきっかけなのだ。

原作と映画に共通項があるのでは、と最初のほうで書いた。実は本作が降霊会のような怪奇要素を含む内容に改変されたのは理解できないでもない。ポアロシリーズは常に現実的で、作中で超常現象などは決して起きないのだが、本作には例外的に幻想的な雰囲気が備わっている。現実を凌駕する、超現実的な論理が一部で展開される物語だからである。

そうした傾向と、殺人手段につきまとう水の要素が「ベネチアの亡霊」という物語を引き寄せたのではないか。言うまでもなくベネチアは水の都だからだ。ケネス・ブラナーの頭にこうした連想が浮かんだのではないかという推理は、あながち外れていないような気がするのだが、どうだろう。

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