Text by 山口こすも
Text by 生駒奨
Text by 白鳥菜都
「あの子は本当に『いい子』だよね」。日常会話のなかでもよく聞くフレーズ。席を譲る、順番を抜かされる、接待に参加させられる、そして歩きスマホの人に「ぶつかる対象」として選ばれる。そんな人物の多くは、いつでも愛想良く振る舞い「いい子」と呼ばれる女性だ。しかし、それは褒め言葉ではなく「理不尽を引き受けている」とも言えないだろうか。
小説『いい子のあくび』(集英社)の主人公・直子もまた「いい子」だ。ただし、直子はいい子でいることの「割に合わなさ」に気づき始めている。そして物語は、直子が心中で「ぶつかったる」と呟き、ながらスマホの中学生と意図的に衝突するという衝撃的なシーンで幕を開ける。
同作は、『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)で『芥川龍之介賞』を受賞した高瀬隼子による新著(2023年7月に集英社から刊行)の表題作だ。同時収録された『お供え』『末永い幸せ』でもまた、ある女性から見た社会への「むかつき」が描かれる。
収録作で描かれる女性たちが抱える感情は飲み込むしかないものなのだろうか? 「いい子」は割を食うしかないのだろうか――。作者・高瀬隼子に取材し、作品に込めた叫びを聞くことでこの問いへのヒントを探る。
─表題作「いい子のあくび」は、デビュー後2作目の作品だそうですね。どんな経緯で書かれましたか?
高瀬:2019年秋ごろに第一稿を書いて、改稿を重ねて、2020年5月号の『すばる』(集英社)に掲載された作品です。この作品を書いていたときは、テーマや書きたいものより先に締切があったんです。
それまでは書いても書いても誰にも読んでもらえない投稿時代を過ごしていたので「締切を守ればプロの編集者の人に読んでもらえる!」と思って、とにかく毎日書いていました。
ストーリーも決まらないまま書きすすめていたなかで、自然と直子が歩きスマホの人にぶつかっていくシーンが書き上がったんです。編集者の方が「ここが広がるんじゃない?」と言ってくださったのをきっかけに改稿を進めていきました。
高瀬隼子(たかせ じゅんこ)
小説家。1988年、愛媛県生まれ。立命館大学文学部卒業。2019年に『犬のかたちをしているもの』(集英社)で第43回『すばる文学賞』を受賞、2020年に同作でデビュー。2021年に『水たまりで息をする』(集英社)が第165回『芥川龍之介賞』の候補になり、2022年には『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)で第167回『芥川賞』を受賞した。
ー「ぶつかったる」から始まるのが印象的ですが、そのシーンが最初にできていたわけではないのですね。
高瀬:そうなんです。物語は直子がながらスマホの中学生にぶつかるシーンから始まっていますが、じつは第一稿では真ん中くらいに入っていた場面でした。改稿していくなかで前半分が消えた結果、印象的な書き出しになったんです。
「ぶつかったる」の帯が目を引く『いい子のあくび』書影
ー初稿執筆からは4年近く経つかと思います。改めてご自身で読んでみて、いかがでしたか?
高瀬:いつもそうなのですが、自分で書いておきながらストーリーを忘れがちで、今回も「こんな話だったっけ?」と思いながら読みました。でも、案外考えていることは変わっていません。「そうだよな、ぶつかるよな」って思ったし、「わかる」と思いました。
ー「いい子のあくび」では直子のイライラした感情が軸にあるかと思います。書き始めたときにはまだストーリーは決まっていなかったとのことですが、このテーマは決まっていましたか?
高瀬:意識的に「むかつく話」にしようとは思っていませんでした。でも、現代日本を舞台に20代女性を主人公にした話を書いていると、勝手にむかつくことがいっぱい出てくるんです。なので、書いている当時、めちゃくちゃむかついていたとは思います。直子も、書いてる作者も。
ーそんな「むかつき」に対して、直子は「割に合わない」という表現をしますよね。
高瀬:そうですね。じつは、SNSでエゴサーチをしていたときに気づいたことがあって。『いい子のあくび』を読んでくれた方が投稿したレビューのなかで、私のデビュー作の『犬のかたちをしているもの』でも同じ言葉が使われていると書いていたんです。
自覚せずに書いていたので、ちょっと恥ずかしいんですけど、『犬のかたちをしているもの』のときにも、自分のなかで「割に合わない」という言葉が自然なものとしてあったのかなと思います。
ー20代女性が出合う「むかつき」や「割に合わない」という気持ちは、共感する部分が多かったです。高瀬さんご自身も、似たような経験があったのでしょうか?
高瀬:私は作家をしながら会社員としても働いているのですが、職場で「割に合わない」と思うことはありました。自分でも反省しているのですが、20代前半のころ、私はめちゃくちゃニコニコしていたんですよね。いまよりももっと意識して、過剰にヘラヘラとしていた自覚があります。
そんななかで、私はこんなにニコニコしているけれど、そうではない人もうまくいっていて、なんなの? と僻みのような気持ちで「割に合わない」と思っていました。
ー直子のように「いい子」として振る舞っていた時期があるということですね。「いい子」でいるのをやめようとか、おかしいと思うようになったのはなぜでしょうか。
高瀬:たぶん、当時から「こんなことしなくていいのにな」と思ってはいたんですよね。当たり前ですけど、新人のときって仕事ができないですよね。仕事ができないことの穴埋めのために、愛想でどうにかしようとしていた気がします。仕事の年次が重なって、できることが増え、結果が出せるようになってきたら、もうサービスで笑わなくていいか、と抜け出せたように思います。
あとは、社会からの要請として「女の子はニコニコして愛想がいいほうがよい」という雰囲気がありますよね。変だと思いながらも、そこに乗っかって迎合していたほうが「楽だ」と感じていたんだと思います。
20代前半のころは大人数の男女が集まる飲み会で、おじさんの隣に座らされてお酌させられるのも「嫌です」って言えませんでした。当時の私にとっては、言わないほうが楽だったんですよね。
高瀬:でも結局、家に帰ると「なんだったんだろう」って思うんです。楽なのはその飲み会の2時間だけで、長い目で見ると、決して楽じゃない。だんだん、その場の一瞬の「楽」を選ぶのをやめたほうがいいなと思うようになりました。
ー高瀬さんの作品では、「いい子のあくび」以外でも「むかついている人」が登場する印象があります。
高瀬:そうですね。そのまま書くことはないですが、日常のなかにある「むかつき」から派生して、「さらにこんなことがあったらむかつくな」と想像して書いていることはあります。
ー日常で怒りを言葉にするのは難しい場合が多いですが、高瀬さんはどうやって怒りを言語化していますか。
高瀬:よく、知り合いから「こんなにむかついていて、しんどくないの?」と言われます。私は逆に「むかつくことがあって、それを忘れるほうがしんどくない?」って思っています。
たとえば、駅で肩にドンとぶつかられたとします。私はその日はずっとそのことを考えるし、次の日も考えます。さすがに3日ぐらいすると忘れそうになるので、ノートや手帳に書いておくんです。それを見て、思い出してはむかついています。忘れたら、その人がやったことがなかったことになるじゃないですか。また繰り返されてしまいそうとかって思って、ネチネチと恨んでいます(笑)。
作品のなかにもそのメモをもとにした「むかつき」が出てくることもあります。
ー作中でも直子が「むかつき」を手帳にメモするシーンがあり、読んでいてその思いの強さを感じていました。高瀬さんの実際の行動が元になった描写だったのですね。メモは昔からされているんですか?
高瀬:わりと昔からですね。小中高生のころは授業ノートの後ろのほうのページに書いたりしていました。「部活頑張ろう」とか、もっと可愛いことも書いていました。
大人になってからは紙のスケジュール帳を毎年買っているんですけど、その余白に書いています。最近はポジティブなことよりも、むかついたことを書くほうが多いかもしれないです。書いておいたほうが、自分の精神衛生上いいんだろうなと思います。
ー直子の恋人として大地が登場します。大地は性格のいい人だなと思っていたのですが、途中で「あれっ?」と思う出来事がありますよね……。
高瀬:はい、直子のことを裏切っていましたね。でも、大地のことは「いい人」だと作者は思っています。現実に大地がいたら、すごく「いい人」だと思うんですよね。ただ、誰しも「加害性」を持っていて、人を傷つけてしまうことがある。完全に「いい人」はいないよね、という気持ちで書きました。
ー直子は「いい子」で、大地は「いい人」で、違いがあるんですね。
高瀬:「いい子」はちょっと上から目線で言われているような感覚があります。性格のいい人に対して、本当に「いい人だ」と思って「いい人だよね」と言うときはあると思います。一方で、対等な大人に対して「いい子だよね」とはあまり言わないような気がしていて。だから、直子は「いい子」であって、対等には扱われていないんですよね。
ー一緒に収録されている短編についてもお聞きしたいです。『お供え』も『末永い幸せ』も、主人公の「嫌い」という感情が溢れていました。
高瀬:なぜかわからないですが、嫌いなもののほうが書いていて楽しいんですよね。両方とも、編集者からのお題があって書いた作品で、『お供え』は「働く」、『末永い幸せ』は「幸福論」がテーマです。
締切までの日数があまりなかったというのもありますが、パッと思いついたのが両方とも嫌いなものでした。「幸福論」なんて好きなものが出てきそうなのに、なんだかすごく性格の悪い人みたい(笑)。
ーこの2つの短編も含めて、自分も社会に適応しているけれど、社会に適応することに違和感を持っている登場人物が多いですよね。高瀬さんは「社会に適応する」ということについてどうお考えですか?
高瀬:組織の「正しい」歯車として、与えられた仕事を望まれる態度でこなし、成果を出して、お給料をもらう。それは悪いことではないし、それができる自分自身に対して「頑張ったね」「偉いね」と思います。
高瀬:私自身、働いて毎月ちゃんとお給料をもらえる人になりたいとずっと思っていました。それはたぶん、子どものころに周りで離婚した大人を見ていたからだと思います。私が田舎で観測した範囲の話ですが、離婚をすると100%女性のほうが大変そうだったんです。
ほぼ全員、専業主婦で、ずっと子育てをしていたので外での仕事はしていなくて、これからどうしたらいいの? という状況で家を追い出される。そんな姿を見て、恐怖を感じて、自分は毎月お金をもらえる人になりたいと思ったんです。
『いい子のあくび』の直子のように、ニコニコといい子をやるのも適応の一つだし、サバイブの一つです。だから、「頑張ったね」というのは自分が言われたいことかもしれませんね。同じように社会に適応して働いている人には「一緒だね」と思います。
ー一方で、社会に適応することへの違和感も、作品からは感じられます。
高瀬:そうですね。社会に適応していない人が頑張っていないわけじゃないし、偉くないわけじゃないです。
たとえば『水たまりで息をする』という小説では、社会に適応できていた夫がお風呂に入らなくなって適応できなくなっていくのを、社会に適応し続けている妻が見ている話です。あれは、決して「夫は悪い」と言いたいわけじゃないのは、読んでくださった人には伝わると思います。適応できた人も頑張っているけれど、適応できなくなることもあるよね、というつもりで書きました。
ー社会に適応する / しないという観点も含めて、高瀬さんの作品には共感できる人もいれば、共感できない人もきっといると思います。
高瀬:「共感した」という感想をいっぱいいただいて、とても嬉しく思う一方で、エゴサーチをすると「全然共感できない」という感想もあります。そんななかで、「共感はできなかったけれど、そういう考え方の人もいるんだと知って面白かった」という感想をいただくこともあります。その方には、作品は届いているなって思うんです。
物語って共感だけのためのものではないと思います。たとえば、中西智佐乃さんの『狭間の者たちへ』(新潮社)は、痴漢をする男性加害者の視点から書かれている、私には絶対に共感できないものでした。主人公の行動は許されないし、気持ち悪いと思うけれど、痛みと一緒に届くものがあって、面白い読書が私はできたんですよね。そういった読書をより多くの人にどう届けたらいいんだろう、というのは私もよく考えています。
ーより多くの人に高瀬さんの作品が届いて欲しいです……!
高瀬:ありがとうございます。『芥川賞』を受賞してからもう1年経って、そのあいだにもどんどん面白い作品が出てきているので、2年後3年後には私の作品はどんどん届きづらくなっていくかもしれない……。そういう危機感はつねに持っています。たくさん本を読み、たくさん書き、面白い読書を届ける作家になりたいです。