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『ソウルに帰る』監督×主演対談。グローバルないまを軽やかに駆ける、二人の新鋭クリエイターの感覚

2023年08月30日 18:10  CINRA.NET

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Text by 宮田文久
Text by 後藤美波
Text by 苅部太郎
Text by 大西愛子

自分とは異なる境遇が描かれていても、「同じ時代を生きている映画だ」と感じる作品が、この世界では日夜生まれている。2022年の『カンヌ国際映画祭』ある視点部門に出品され話題を呼び、今年8月からここ日本でも公開されている『ソウルに帰る』は、そんなフレッシュで、スマートで、しかも野趣を忘れない映画だ。

フランス・パリとカンボジア・プノンペンを拠点に活動する、1983年生まれのダヴィ・シューは、脚本も手がけた本作が第二作となる、気鋭の映画監督だ。そして韓国生まれフランス育ち、普段はビジュアルアーティストとして活躍するパク・ジミンは、演技未経験ながら瑞々しい存在感で見事にフレディ役として主演を務めた。そんなふたりが来日した際の対話は、グローバルな現代を軽やかに駆け、考え、実践を重ねる人間ならではの、くらくらするような知性とユーモアに溢れていた。同時代の風がさわやかに吹き抜けるような両人の言葉を、堪能してほしい。

『ソウルに帰る』
あらすじ:韓国で生まれフランスで養子縁組されて育った25歳のフレディは、ふとしたきっかけで、母国である韓国に初めて戻ってくる。しかし、自由奔放なフレディは、韓国の言葉や文化になじめず、誰とも深い関係を築けない。そんななか、フランス語が堪能で親切な韓国人テナの手助けにより、フレディは自分の実の両親について調べ始める。 ©AURORA FILMS/VANDERTASTIC/FRAKAS PRODUCTIONS/2022

―『ソウルに帰る』は、韓国で生まれフランスで養子縁組されて育った25歳のフレディが、ひょんなことで母国・韓国に初めてやって来るところからはじまります。やがて両親探しをはじめるものの、じつはシンプルなルーツ探しの物語ではなく、予測不能な企みに満ちた映画であることが観客に強烈に伝わります。『ソウルに帰る』(英語で『Return to Seoul』、フランス語で『Retour à Séoul』)というタイトルも逆説的ですよね?

ダヴィ・シュー監督(以下、シュー):(フフフと笑いを漏らしながら)面白い質問だと思いました──なぜなら、じつはもともと、映画が完成してからもずいぶん後まで、タイトルを決めかねていたからなんです。いろんなタイトルを考えてきたのですが、長いあいだ、仮のタイトルだったのは英語で『No return』、フランス語だと『San retour』、つまりは「戻らない」という言葉でした。

先ほど、だんだんとストーリーが意味することがわかってくるとおっしゃいましたが、仮タイトルのままだったら最初から伝わってしまったかもしれませんね。というのも、「戻らない」という言葉の真の意味としては、不可能な帰還とでもいいますか、二度と戻ってくることができない、行ったきりの一方通行、片道切符というようなニュアンスなんです。ソウルに行ったら最後、何か人生において決定的な出来事が起こり、もう後戻りはできない、というような意味合いですね。

ダヴィ・シュー
パリとプノンペンを拠点に活動する1983年生まれの映画監督およびプロデューサー。カンボジア人プロデューサー、ヴァン・チャンの孫にあたり、2011年には1960年代のカンボジア映画の誕生と1975年のクメール・ルージュの残虐な破壊を描いたドキュメンタリー『ゴールデン・スランバーズ』を監督し、『ベルリン国際映画祭』フォーラム部門にて上映。初長編劇映画作品『ダイアモンド・アイランド』(2016年)は2016年の『カンヌ国際映画祭』批評家週間でSACD賞を受賞。 長編2作目となる『ソウルに帰る』は、2022年の同映画祭ある視点部門に出品、世界で数多くの賞を受賞した。また、監督業に並行してプロデューサーとしても活躍しており、近年では2021年の『ヴェネチア国際映画祭』や『東京フィルメックス』で上映されたニアン・カヴィッチ監督『ホワイト・ビルディング』をプロデュースしたほか、 2021年の『カンヌ国際映画祭』ある視点部門で上映されたアルチュール・アラリ監督『ONODA 一万夜を越えて』にもラインプロデューサーとして参加した。

―ソウルに帰ったことで、人生の後戻りができなくなる、と。

シュー:主役のフレディは、深い考えもなく、わりと思いつきのようなかたちでソウルに降り立つわけで、その後の自分の人生に何か大きな影響があるとは考えていない。しかし、いつの間にか自身の歩みが一変してしまうような出来事が起こっていく。この映画は彼女の8年間にわたる道のりを描いていますが、その日々のあいだずっと、「帰還」したことが影響していくんです。

ただ、ノーリターンという言葉だとネガティブな響きをもってしまって、商業的にあまりよくない、端的にいえばヒットしそうにないと周囲に指摘されました(笑)。『カンヌ国際映画祭』に出品したときは、『ALL THE PEOPLE I'LL NEVER BE』(『私が決してならないすべての人たち』、フレディと韓国の人々の関係を表す)という英語のタイトルをつけていましたが、これも長すぎて覚えにくいということなったんです。

パク・ジミン(以下、ジミン):……私はじつは、こちらのタイトルのほうが好きだったんですけれど(笑)。

シュー:……とジミンはいっているのですが(笑)、こうした経緯で、『ソウルに帰る』というシンプルなタイトルになったんですね。

―ジミンさんにもいろいろと伺う前に、シュー監督にもう少し伺います。本作はさまざまな狙いに満ちた映画で、オープニングからして見事です。フランスから降り立ったフレディと韓国の人々が対比的に映されるも、そうした「ルーツ探しに来たフレディ」という構図自体を抜け出すように彼女が酒席でいきなり立ち上がり、思わぬ行動をとる。映画の姿勢がクッキリ伝わってきます。

シュー:まず、韓国に到着したこの夜から、翌朝に国際養子縁組のセンター(編注:子と実の親のあいだで調整や支援、斡旋を行なうセンターの様子が作中で描かれていく)に向かうまで、映画の冒頭の15分でフレディがどういうキャラクターかを見せようとしました。その15分で彼女がこれまで体感してきたあらゆる矛盾を伝えつつ、観客の思惑も裏切っていきたかった。要は「フレディは予測できないキャラクターなんだ」と観客に理解してもらい、これから映画を見るにあたって先入観を抱くことなく、物語に身を委ねてもらう。そうした契約を、私は監督として観客の皆さんと結びたかったのです。

『ソウルに帰る』 ©AURORA FILMS/VANDERTASTIC/FRAKAS PRODUCTIONS/2022

シュー:もうひとつの狙いは、混乱しながらも自らの運命をつかみ取りたいと強い意志を抱いている、そんな主人公のキャラクターと、それを撮る『ソウルに帰る』という映画自体の「かたち」が、同化するようにしたかったのです。どういうことかといいますと……私は韓国映画が好きですが、しかし韓国に行って韓国的な映画をつくるのでは面白くないですよね。

―そうかもしれません。

シュー:だからこそなのですが、例の酒席のシーンでは、まるでホン・サンス監督の映画のような、3人の人物がひとつのテーブルに座って語りあう配置にしています。「ああ、フランス人の監督が韓国で『韓国映画』を撮ったんだ」と思わせておくわけです(笑)。

そしてフレディが自分の思惑と異なる流れになった会話から主導権を奪おうとする段になると、カメラワークや演出がフランス映画的になっていくんです。イメージしていたのは、たとえばアブデラティフ・ケシシュ監督の『アデル、ブルーは熱い色』(2013年)でした。韓国出身ではあるけれどフランス人であるフレディのキャラクターと、韓国映画やフランス映画などさまざまなスタイルがミックスされた映画そのものの「かたち」を、こうした狙いのもとに合わせていったんです。

『ソウルに帰る』 ©AURORA FILMS/VANDERTASTIC/FRAKAS PRODUCTIONS/2022

―強い意志と行動力をもちながら、内面に葛藤も抱えるフレディという役を、演技未経験のパク・ジミンさんが演じきっているのも本作の特徴です。シュー監督とジミンさんは人を介して知り合ったとのことですね。そもそもこの場のように、ご自身が演じた映画についてインタビューされるということ自体がジミンさんにとっては特殊な経験だと思うのですが、いかがですか。

ジミン:(アハハと快活な笑い声を上げて)たしかに私は女優を本職としてはいなくて、普段はビジュアルアーティスト、いや、単にアーティストなんですね。ですから長編映画のなかで役者として演じたり、インタビューを受けたりという最近の経験は私にとってはやはり特殊なことですが、と同時に徐々に慣れてきています。というのも、わりと似たような質問を受けることが多いもので……ただ、先ほどの質問は初めて受けたので、とても嬉しいです(笑)。

仮に同じような質問を受けたとしても、私はアーティストですから、いつも似たような答え方をするのではなく、つねに新たな何かを創造したいと考えていますし、そうすることが好きなんです。頭を働かせて、毎回のインタビューで異なるものを創造しようとすることは、とても面白いなと感じています。

パク・ジミン
韓国で生まれ、9歳の時に家族とともにフランスに移り住む。普段はビジュアルアーティストとして活躍し、彫刻やインスタレーションなど手掛ける。『ソウルに帰る』で役者デビュー。友人からダヴィ監督を紹介され、パリでコーヒーを飲みながら、3時間お互いの人生について語り合ったことが出演のきっかけとなった。パクは、フレディと多くの共通点を感じ、ダヴィ監督に、脚本に対して自分と意見を交換することを条件に出演を引き受けた。のちにダヴィ監督はパクとの出会いについて「人間として、男として、彼女に会えたことに本当に感謝している」と語っている。

―これまで受けた質問と今回のインタビューが似ていないことを祈るばかりです(笑)。フレディは刻一刻とアイデンティティが移り変わり、感情の振れ幅も大きい役柄ですが、初めて演技する際にこの役を担うのはとてもチャレンジングな取り組みだったはずです。どのようにアプローチしていったのですか。

ジミン:まず端的に、フレディというキャラクターのなかに、自分に似ている部分がありました。もちろんフレディは私ではなく、私もまたフレディではありませんが、個人的な経験という面で共通点を見つけることができたのは演技するうえで助けになりましたし、感情移入がしやすかったです。

たしかにフレディは、矛盾だらけの人間です。しかし、人間は誰でも矛盾を抱えているはずです。社会は一般的な基準を求めてきますので、内なる矛盾を外に向けて表現できない人は多いし、その矛盾を自分で認めることも怖いとは思うんですよね。それでも、誰だって矛盾は抱えている。私自身、アーティストとして自らの矛盾を見つめることが作品の創造につながることもありますので、そうした姿勢が演技するうえでも役に立ったと思います。

何より矛盾や複雑な人間性を抱えているということは、その人をより深みのある、そして興味深い人間にする気がします。私もあるところから別のところに飛び移るように行動することは好きですね。演技している当時は気づかなかったのですが、あらためて考えるとこれはとても面白いことであって、まるでゲームのフィールドで活動しているようにも感じます。

―今作の制作はシュー監督とジミンさんのセッションのような側面もあったようですね。父親とジミンの邂逅を描いた第一部を経て第二部に至ると、作品世界のイメージがガラリと変わってビザールな世界観になっていきます。このパートで、特にジェンダーをめぐる観点について、ふたりのあいだでさまざまな話し合いがあったそうですが。

シュー:まず問題となったのは、主人公のルックスでした。私が手がけていた最初のシナリオでの主人公の姿は、実際に映画で描かれたものとは大きく異なります。ジミンと一緒に韓国に撮影に行く前にパリで綿密な準備をしたのですが、そのときに彼女からさまざまなコメントをもらったんです。特にジミンが強調したのが、シナリオに描かれているような格好をするわけにはいかないということでした。というのも、第二部のフレディの姿は当初、セクシーな、そして典型的なファム・ファタールだったんですね。

ジミン:フレディはもともとアジア人ですが、白人社会で生きるフランス人であり、ヨーロッパ社会で生きている女性です。もちろんセクシーな面も持ち合わせているかもしれませんが、それにしても当初のシナリオでは、(欧米社会を中心とした)外国から見る視線が顕著だったといいますか、性の対象であるアジア人女性として描かれていました。そのセクシーさこそが、まるでアジア女性の象徴であるように。フレディがそんな姿で描かれていることは、私が演じるうえで「絶対に無理だ」と思わされるものでした。

シュー:まさにこうした話を、準備段階でやりとりしていたんです。私自身、無意識にパターン化したイメージを、最初のシナリオでは再現してしまっていましたし、そうした表現を変えるように強く提言してくれたジミンには本当に感謝しています。

修正を経た第二部のフレディのルックスは、観客に強いインパクトを残しているようです。じつは私はよくいろんな人から、「あの主人公が来ているジャンパーはどこで売っているんですか?」「私も欲しいです」とメッセージを受け取っているぐらいなんですよ(笑)。

ジミン:あの素敵なジャンパーは韓国のJuun.Jというブランドのもので、たしか私がネットで見つけて「このジャンパーが絶対に欲しい、(フレディは)これでなきゃダメだ」と言ったんですよね。

シュー:スタッフが必死に探してゲットできたものだね(笑)。いずれにせよ振り返ると、私が当初思い描いていたようなクリシェは、いろいろな先行するイメージの影響のもとにあるように感じるんですよ。

ふたりが言及しているジャンパーを纏った第二部のフレディ ©AURORA FILMS/VANDERTASTIC/FRAKAS PRODUCTIONS/2022

―ファム・ファタール的な、セクシーなアジア女性のイメージを当初抱いてしまった、そんなご自身の感性の由来ということでしょうか。

シュー:それこそブロンドのウィッグを付けるようなことも最初のシナリオでは想定していて、典型的かつ古典的なファム・ファタールの姿を思い描いていました。もし私がほかのアジア映画から影響を受けた可能性があるならば、たとえばウォン・カーウァイの映画などを挙げることができるかもしれませんし、一方でもしかしたら、西洋的な妄想(ファンタズム)に由来するものなのかもしれません。

ジミン:(監督はイメージの由来について話しているが)私が話しているのはフレディが生きている背景、コンテクストとしての環境についてです。彼女にはフランス人として白人のヨーロッパ社会を生きてきた物語があるわけで、この背景をきちんと定義しないといけないということなんです。

シュー:うん、もちろん。そういう人を描く側の責任ということだよね。

ジミン:うん、そう。

シュー:実際に私たちは、もうひとりのスタッフも加えて話し合い、フレディのキャラクターをいったん白紙に戻しました。あらためて、実際のところフレディはどういう人物なのか、何の仕事をしている人なんだろうといったことを自由に空想し、議論するうちに、私たちは少しずつ楽しくなっていった。そして生まれたのが「戦う人」というイメージであり、人に隙を見せず、弱いところに付け込ませないように鎧のような服を着て、身を守っているキャラクターなんです。

革の服という発想も、そうした流れで生まれました。イメージしたのは、ジョージ・ミラー監督『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』(2015年)でシャーリーズ・セロンが演じたフュリオサ、『マトリックス』(1999年)のキャリー=アン・モス(が扮したトリニティ)、デヴィッド・フィンチャー監督『ドラゴン・タトゥーの女』(2011年)での(ルーニー・マーラが担った)リスベット・サランデル、あとはオリヴィエ・アサイヤス監督『イルマ・ヴェップ』(1996年)で(本人役だった)マギー・チャン……こうしたいろんな映画とキャラクターの影響のなかで、第二部のフレディの造形ができあがっていったのです。

―『ソウルに帰る』という映画が、「グローバルに生きる人間」を中心に置いていることもまた、強い印象を残します。フランス語と韓国語のあいだを通訳する場面もたくさん描かれますし、そもそも国境を飛び越えて人々が移動していることが前提になっている。新世代の当たり前の感覚として描いているのか、あるいはそれこそアサイヤスのように、先達の映画人たちが描いてきたグローバルな世界観の影響があるのでしょうか。

シュー:たしかにアサイヤス監督は、マギー・チャンと『クリーン』(2004年製作、『第57回カンヌ国際映画祭』主演女優賞&撮影技術賞受賞作)を撮った頃からしばらく、明らかに今日性といえばいいのか、現代的な側面に触れようという野心を抱いて映画をつくっていたと思います。

一方で私たちの作品を踏まえて世界のことを考えてみると、みんながみんな旅をするわけではない、ともいえます。たとえばカンボジアにおいて私の周囲の人たちは、国外はもちろん、隣国のタイやベトナムにさえ旅行したことがない人ばかりです。しかし同時に、ある国から別の国へ移動することは、(昔より)ずっと簡単になっていて、一部の人々にとっては現代的な経験になってもいます。

ジミン:そうはいっても、やっぱり誰もが旅しているというわけではないでしょう?

シュー:そうだね、大多数にとって当たり前ということではない。ただ、「基準点の喪失」とでもいえるような事態は、我々にとって大きな意味を持ちつつあると思います。たとえばジミンは少し前までパリにいて、いまは東京にいるけれどすぐまたパリに戻るわけです。私はカンボジアにいたのが今日はここ東京にいて、三日後にはカンボジアに戻り、来月にはマカオにいく予定です。このように、自分がどこにいるのかわからなくなるような混乱した状態、いわば「基準点」が少し失われていく感覚があるわけだけれど、かといって単純なアイデンティティの喪失とも違う。

『ソウルに帰る』 ©AURORA FILMS/VANDERTASTIC/FRAKAS PRODUCTIONS/2022

シュー:こうしたことは、『ソウルに帰る』という映画をつくるにあたって、興味があったことでもあります。自分がどこから来て、どこにいて、何に所属しているのか、ということ──それらをめぐる認識もまた単なる印象に過ぎない可能性もあるわけですが、やはり私は、多様な文化や言語、国籍や人々がぶつかり合い、混在するなかで何が生み出されるのかということについて、関心がありました。まるでいろんな食材や調味料を使って料理するように、この映画では、全部を混ぜ合わせて何か喪失感や混乱といったものを引き起こそうと思ったのです。

ジミン:私たちが生きている(現代という)世界は、閉ざされた狭い世界だとは思います。そして私たちがアクセスできるものに、誰もがアクセスできるというわけでもありません。

でも、『ソウルに帰る』という映画のことを踏まえつつ話すと、多くの監督たちが言語や文化の壁を越えて、異なる国の俳優たちと仕事をしたいと思っているようだ、と最近強く感じます。こうした試みが上手くいくと、何か新しいものが生まれますし、実際にダヴィにとっても大きな挑戦だったはずです。だって、(韓国という環境に飛び込んで)英語もフランス語もわからない人たちと仕事をするわけですから。だから彼は通訳の力を借りなくてはなりませんでした。

フレディと友人になり、フランス語と韓国語の通訳の役割を果たすテナ役を演じているのは、『砂漠が街に入りこんだ日』で知られるパリ在住の韓国人小説家グカ・ハン ©AURORA FILMS/VANDERTASTIC/FRAKAS PRODUCTIONS/2022

―まるで映画の主人公であるフレディのように、あるいはこの場の私たちのように、ですね。

ジミン:通訳さえあれば普段通り事が進むというわけではなりませんが、そこにこそ大きなチャレンジがあり、上手くいけば魔法のようにとても強くて美しいものがスクリーン上に生み出されるのです。他人を完全にコントロールすることなど不可能であり、たとえば通訳においては何かが失われるわけですが、同時に他に何かを得ることができると思うんですね。もちろん、上手くいけばの話です。上手くいっていない映画もありますから(笑)。

シュー:(しみじみと)本当に、なかなかうまくいかないよね……。

ジミン:ええ。だから上手くいくときは、本当に魔法のように、触れることもできないはずのもの、説明のつかないものが、映像に永遠に刻まれるのです。コントロールを失うということがとても美しい結果につながっていく。多くの人にとっては、ときに恐怖にもなりうる状況だと思います。でも上手く実を結び、魔法がかかるとき、その映画はとてつもなく素晴らしいものになるはずなんです。