Text by 倉本さおり
Text by 生駒奨
Text by 佐藤翔
東日本大震災や新型コロナウイルスによるパンデミック。私たちは近年、あまりに大きすぎる困難に見舞われてきた。その度に、マスメディアや社会の先導者たちは「連帯しよう、協力して乗り越えよう」と声高に叫んだ。
しかし、その対処法は本当に「すべての面で」正しかっただろうか。連帯が困難打破への大きな力になった一方で、「人と人との違い」を覆い隠す「同調圧力」になってしまってはいなかったか――。
小説家・金原ひとみの新著『腹を空かせた勇者ども』(河出書房新社)には、そんな違和感へのヒントが描かれている。コロナ禍の真っ只中で中学生として生きる主人公・玲奈(通称レナレナ)は、金原本人の言葉を借りれば「愛しい陽キャ」。幼く純粋だからこそ、公然と不倫する母親がいる家庭とその外側で「自分と他人の違い」に気づいていく。
この小説は、「制服少女」の活躍ばかりを描こうとする凡百の作品群とは明らかに違う。これまで成熟した女性や母としての視点から作品を生み出してきた金原が、「陽キャ女子中学生」を描いたのは何故か? フランスと日本で暮らし、仕事をし、子育てをしてきた金原の経験が、この作品の独自性にどう影響しているのか? 金原本人に取材し、疑問をぶつけた。
―『腹を空かせた勇者ども』の主人公・レナレナは、バスケ部の活動に励む中学2年生で、仲の良い友達からは「学校で一番不登校から遠い奴」と評される「陽キャ」。これまでの金原さんの作品のイメージを覆すようなキャラクターに良い意味で驚かされました。
金原:うちの長女がまさに玲奈に近い性格で、親ながら「全然違う人間が出てきた!」って日々衝撃を受けるくらい。私とは何もかも違っているタイプなんです。
金原ひとみ(かねはら ひとみ)
1983年生れ。2003年、『蛇にピアス』(集英社)でデビュー。同作で第27回『すばる文学賞』と第130回『芥川龍之介賞』を受賞。2012年にフランスに移住、2018年に帰国。近年の著作では『アタラクシア』(集英社)で第5回『渡辺淳一文学賞』を、『アンソーシャル ディスタンス』(新潮社)で第57回『谷崎潤一郎賞』を受賞。作家デビュー20周年を迎えた今年、『腹を空かせた勇者ども』(河出書房新社)を刊行した。
金原:彼女が中学に入学したときにちょうど日本でも新型コロナウイルスをめぐる混乱が生じて、学期が始まってもみんな登校することができず、クラスメイトと「はじめまして」の挨拶をする場がTeams上というような有様だったんですよ。
授業も、最初のうちは出された課題に対して画像で送るだけだったり、ようやく学校が始まっても半分ずつの登校だったり。学校の対応も後手後手で、保護者から見ると不安だらけの状況だったんですが、それでも彼女たち自身はすごく逞しくて。
次から次へとLINEのグループが乱立していって、知らない間にすごい勢いでどんどん仲良くなっていく。自分たちで「どこまでOKにしようか」と都度都度相手やシチュエーションを加味して話し合いながら、コロナ禍をきちんと生き延びている姿を見て、これは書き残しておきたいな、と思ったんです。非常事態を生きていく勇ましい女の子たちっていうイメージからこの小説が始まりました。
―コロナ禍の混乱を生きる人びとの姿を現在進行形で鮮烈に描いた小説といえば、それこそ金原さんの『アンソーシャル ディスタンス』(新潮社)という作品集が真っ先に思い浮かびますが、同じモチーフでも真逆の印象を受けます。あの物語を生きていた人びとが、残酷なスピードで変容していく世界のありように適応できず悲鳴をあげていたとしたら、今作の「勇者」たちは大騒ぎしながらもなんだかんだ前を向いて変化を受け入れていくというか。
金原:そうですね。「とまらないな、こいつらは」っていう感じ。遊んでるんだか戦ってるんだか、どっちともとれるようなポップな質量と、でもどこか盤石さもあるみたいな部分がうまく出せていたらいいなと思っています。
コロナ禍の最中である2021年に刊行された『アンソーシャル ディスタンス』は、現代社会での恋愛を描く短編集。度数の高いアルコール飲料に依存する女性が主人公の「ストロングゼロ」などが収録され、多くの共感を呼んだ
金原:『アンソーシャル ディスタンス』と『腹を空かせた勇者ども』は、コロナ禍のネガとポジの物語というか、私のなかでは陰と陽の位置づけですね。
―これまでの金原さんの作品では、希死念慮を抱えているような、それこそ玲奈の母親に近いキャラクターが語り手になることが多かったですよね。
金原:はい。自分はこういう明るいところが全然ない人間なので、苦手意識のようなものもあったんですよね。絶対にわかり合えないと思って自分から切り捨てていくことで、なんとか対処していたように思います。
でも自分の娘が一番遠い世界の住人ということになると、やっぱり理解したいというか、理解できないにしても歩み寄りたいなという気持ちが出てきました。彼女の側から見える世界っていうのも見てみたいなと。
金原:たぶん向こうからしても「なんでお母さんはこんな人なんだろう?」みたいな不可解さがあると思うんですよね(笑)。そういうところも彼女の目線から見てみたいっていう気持ちもあって、「あちら側からの世界」っていうものを書こうと思いました。
―実際に書いてみて苦労した点、難しいと思った点はありますか?
金原:玲奈は語彙が少なくて、自分の思いや考えを言葉だけで十分に伝えることができないキャラクターなので、そのあたりの機微の表現の部分で毎回戸惑いながらやっていました。「彼女だったらどう伝えるかな?」っていうふうに翻訳していく作業が難しかったですね。
―玲奈が担任の先生から「こそあどが多過ぎます」と注意されたとき、「これとかあれとかこうとかそうとかそういうのが言葉にできないからこそあどを使っているのに、彼女にはその言葉にできない気持ちがわからないんだろうか」って憤然とする場面に、ついつい「それな」と思ってしまいました。
金原:あはは。そうなんですよね。私もしょっちゅう娘に対して「人に伝えるときはもっと趣旨がはっきりしないと駄目だ」って言ってしまうんですけど、「そんなの無理だよ」って向こうとしては思ってるんだろうなって。
金原:自分と違うタイプの人間と話をしていると、そもそも何がわからないのかがわからないというか、お互いになぜ伝わらないのかがよくわからない。でも人間って、そういうことの連続なんだろうなとも思うんです。
私自身、昔は本当に許せる人が少なくて、自分から遠い人たちのことを「くだらない」って見下すことでなんとか自分を保っていたところがあったんですが、最近は「ここまで違うのか!」ということがむしろ爽快に思えてくるようなフェーズになってきて。たぶん年齢とともにちょっとずつ余裕を持って「違い」というものを考えられるようなったのかなと思います。
―中学生から高校生になる過程にある女の子を主人公にしたのも、そうした「違い」をめぐる意識の変化を描こうという気持ちがあったからでしょうか。
金原:やっぱり一番精神的にも成長していく年齢だし、とくに玲奈みたいな、これまでコミュニケーションや友達関係で困ったことのないようなタイプを主人公にすることによって、コロナ禍で浮かび上がった差異や価値観の相違がより明確に見えてくると思ったんです。想像力の限界に初めてぶち当たる瞬間というか。そこに彼女たちがどんなふうに向き合っていくのか描いてみたくて。
大人になると「自分はこうする」っていうスタンスがけっこうがっちり決まってしまいがちですけど、玲奈はまだ若くて柔軟で、「自分はこう思うけどそれが本当に正しいのかな?」っていう、自信がまだ持てていない状態。だからこそ、翻って相手の立場を考えることに衒いなく臨めるのかなと思います。
―玲奈が友人と一緒にオンラインゲームをする約束の時刻まで心躍らせながら待つあいだに、まったく違う話題で盛り上がっている複数のグループラインを同時に渡り歩きつつ、親友からの重ための個別メッセージにも対処する場面がありますよね。あのマルチタスクぶりはデジタルネイティブじゃない世代の自分にとってはくらくらするほど強烈でした。
金原:最近の子たちって、いくつもの世界を股にかけて生きている感じがしますね。私が若かったころと比べて、あらゆることを同時に大量にこなしている。そのぶんどこか切り替えが早いというのも感じますね。一つひとつにそこまで没入していない感じ。それこそ2倍速再生とかで動画を見ていたりするし。あんなの聞き取れないですよ(笑)。そういう脳の使い方自体もちょっと違うんだろうなと思いますね。
金原:既読をつけずにメッセージを読むといったテクニックも含め、昔だったら考えずに済んだような、気を遣わなきゃいけない部分がどんどん増えているような気がしているんですけど、いまの若者たちって不思議としなやかなんですよね。順応していくその様子が。こっちはそういう文化があるのかーといちいち感心してしまうけど、彼・彼女らは軽々と使いこなしていく。そこは見ていて気持ちがいいですね。
―逆に心配になる面はありますか?
金原:個人情報の管理の面ですかね、やっぱり。本当にちゃんと守れているのかっていうのは、めちゃくちゃ心配。「インスタ見て『好みのタイプだからつなげてくれ』って言ってくる男友達がいるんだけどどうしよう?」なんて娘が言ってたりすると、「そんなの駄目に決まってんじゃん!」って思っちゃう(笑)。
でも、彼女たちにとってはそれも「友達の紹介」にすぎないんだろうなって思うし、SNSが一概に悪いとは言えない。実際、SNSの影響でゆるいつながりみたいなものが大人のなかでも許されるようになったというか、保ちやすい状況が生まれているなと思いますし。
例えば、『ポケモンGO』でフレンドになってる子とギフトを贈り合うだけの関係とか、そういうささやかなつながりでもちょっと日常が楽しくなったりしますよね。そもそも大人にとってのスマホと子どもにとってのスマホは別物なんだと、ある程度割り切ることも必要だと思います。
―玲奈のオンラインゲーム仲間であり、彼女の家の近くのコンビニでバイトしている中国人留学生のイーイーは、まさにそうしたつながりのありようをポジティブに体現するキャラクターですよね。
金原:イーイーと玲奈の出会いのエピソードは、私自身の経験がきっかけになっています。下の娘から「『ラブライブ!』のコンビニ特典のグッズが欲しい」って言われて一緒にコンビニに見に行ったものの、何を買ったら目当てのものがもらえるのか全然わからなくて。そこでいろいろ教えてくれた店員さんが中国の方で、「私もこれ大好きなの~」「あなたはどのキャラクターが好きなの?」って娘とキャッキャしながら盛り上がっていたんですよ。
そういうつながりって、日本ではもう持てなくなりつつありますよね。ご近所づきあいであったりとか、地域のおじいさんおばあさんだったりとか、そういうものがいまの時代の日本からは消えつつある。でも、ここにはそうした余白がまだあるんじゃないかなって、そのときに思ったんです。
金原:加えて、この小説は「自分と違う人たちとどうやって共存していくか」ということがテーマでもあります。玲奈は自分から環境的、性格的に離れている人でも仲良くなれる子にしたかったので、イーイーに登場してもらいました。
―コロナ禍で父親がリストラされたために同じ高校に通えなくなり学級崩壊気味の学校に転校させられそうになっている友人・ミナミの話を聞いて、半ば怒りながら悩んでいる玲奈に対し、コロナで父親を亡くしたうえにひどい差別を受けた友達の話をイーイーが淡々とする場面は静かな迫力がありました。
金原:玲奈は狭い世界で生きている子なので、自分には想像もつかないような経験をしている人がいるっていうことを示唆してくれる存在が欲しくて。
作中ではイーイーにその役回りを担ってもらいましたが、コロナ禍という状況自体、現実で生きる私たちにとっていろんなことを考えるきっかけになったんじゃないかと思います。
―玲奈の母親は家族のあいだで「公然不倫中」で、一章では母親の彼氏のコロナ陽性が判明したことで玲奈も学校を休まざるをえなくなります。玲奈は当初その事実を恥じ、感情的に怒りをぶつける一方、自分は自分で学校の友達と平然と回し飲みしているし、ノーマスクで大人数カラオケに繰り出している友人たちだっていることも本当は知っている。いろんな角度からコロナ禍の状況が濃やかに描かれていることで、建前としての関係性やコミュニティというものをめぐる欺瞞が複層的に浮かび上がっていると感じました。
金原:この小説のなかでは、家族だからどうこうっていうのではなく、あくまで個人対個人として向き合う親子の姿が書きたいと思っていました。お母さんも、お父さんも、親だからこうしているというわけではなくて、人として言うべきことしか言っていない。そういうスタンスのもとにある自由な人間関係、ひとつのつながりっていうものを大きなテーマに据えて書きたかったんです。
そもそもいまの若者にとっての恋愛って、たくさんある関係性のなかのひとつでしかないんだなって思うことが多いんですよ。玲奈にしても、お母さんが「恋愛関係は特別」みたいなことを言ってるのに対して、「そんなの古くない?」って言ってしまえる強さがある。
ある意味、立ち返ったんだろうなっていう感じもするんです。恋愛至上主義だったり、資本主義的なものだったり、これまで人類はいろんなものに惑わされて踊らされてきたわけですけど、いまの若い子たちは個人個人と純粋に向き合って、その人に適したつき合い方を模索したり、既存の枠組みにとらわれない自由なつながりを受け入れたりする精神性を取り戻し始めているんじゃないかなって。そのバランスの良さみたいなものを、娘たちや同世代の若者たちを見ていると強く感じますね。
加えて、私自身フランスに住んでいるあいだにいろんな家庭を目にしてきたことも、こういう風変わりな家族を書こうと思ったきっかけになっています。ステップファミリーにせよ養子を迎えた家庭にせよ、そこでは型に嵌らず自分たちが正しいと思う形をつくっていくことが第一に尊重されていた。玲奈が育っていく環境もそういう場にしたいという意図はありました。
―四章では高校生になった玲奈が、母親から「そろそろ離婚する」と告げられ、今後の家族の在り方を自分自身で選択することになります。あの場面は今後の社会全体にとっても風通しのいい希望を感じさせてくれるものになっていると思いました。
金原:当初は離婚なんて悲しすぎて耐えられないって思っていた彼女が、「ま、仕方ないか」っていうふうに思えるようになっている。それは時間が少しずつ軟化させていったものだけでなく、彼女自身が周囲の人びとの変化を目の当たりにしていくなかで得たものなんだろうなと思います。「お母さん」「お父さん」っていう存在を、ひとりの「他人」として尊重できるようになっていった過程なのかなって。
金原:でも「自分が出て行くまでは一緒にいてよ」っていうわがままな部分もちゃんと自分のなかで認めてあげているところが彼女らしいですよね。そういうわがまま、ふてぶてしさみたいなものはむしろ日本人に足りない部分だと思うので、彼女のような人間が主人公で良かったなと思っています。
―中学入学時に一緒のクラスだった「初期メン」がその後全員揃うことがないように、玲奈とその友人たちは環境の変化や時間の経過とともに少しずつ散らばっていく。そのぶん関係性もかつてと同じではありえないんだけれど、コミュニケーション自体は軽やかに続いていく様子に不思議な頼もしさを覚えました。彼女たちの関係のありようは、例えば「ズッ友」と呼ばれるものとは異なる磁場にあるような気がします。
金原:そもそも「ズッ友」っていう言葉を容認する、その美意識にこそ何か邪悪なものがありますよね(笑)。
この小説を書いているあいだ、玲奈が「なんかちょっと、どこも違うんだよな」みたいな感覚をずっと抱えている点は大事にしていました。漠然と「いいじゃんいいじゃん」って思えるような場所を探し続けている感じは最後まで通しておきたくて。
人びとが移ろっていくなかで、きっと彼女もそこにはとどまらないんだろうなと思わせるようなラストにしたかった。結局のところ動かなくなったら人は死んでしまうと思うし、差異を許すことも認めることも難しくなってしまう。そのしなやかさは保ち続けて生きていってほしかったので、最後はすごく綺麗な流れで終われたかなと思います。
―育ち盛りの玲奈があたかも吸い込むようにものを食べる場面も作中のハイライトですよね。じつに見事な、気持ちのいい食べっぷりで、とくに母親のつくる料理が出てくる場面は読んでいるこちらまでお腹が空いてくるほどでした。
金原:実際に娘が成長期に入ったとき、それまでは大人の半分くらいの量しか食べなかったのに、突然大人と同じ量を食べるようになったんです。塾でお弁当を食べてきたのに帰ったらラーメンを所望したり、学校に行くときお弁当以外にもサンドイッチを持たせてくれとか言うようになって。もともと偏食でものすごい小食だった子なのに、こんなに食べてくれるっていうのがたまらなく快感で。
自分にはっきりとした成長期がなかったぶん、わかりやすくエネルギーを欲する姿に感動を覚えたというのもあるとは思うんですが、とくに長女なんか普段遊び歩いていてあんまり家に寄りつかないし、家にいてもつねに誰かとスマホで話してるような状態なので、面と向かって二人で話す機会となると、ほぼ食卓に限られるんですよ。だから余計にご飯には力が入ってしまうところがあるんだと思います。
―今作を書き上げたことでご自身の娘さんに対する理解にも変化はありましたか?
金原:そうですね……いやちょっとよくわからないな(笑)。すごくかわいいしわかりたいなと思うけど、でも本当に読めないなっていう部分はしっかり残ってます。やっぱり計り知れない。でもそれがあるからいいのかもしれないですね。あるほうがきっと想像し続けることをやめないから。