Text by 後藤美波
Text by 水上文
マーゴット・ロビーとグレタ・ガーウィグがタッグを組み、バービーの世界を初めて実写化した映画『バービー』が、8月11日から日本公開されている。「女性をエンパワーするフェミニズム映画」としても大きな話題を呼んでいる本作だが、そこで描かれている「フェミニズム」とはどのようなものなのだろうか? 映画のなかに散りばめられたクィアな要素と、人種や社会階層の差異に注目しながら、文筆家の水上文が本作をレビューする。
バービー人形とは何だったのだろう?
ある角度から見れば、バービーは極めて問題含みで、反フェミニズム的な人形である。実際、1959年にアメリカのマテル社から発売されたその人形は、あまりにも性的かつ白人に中心化された美しさを象っていることによってしばしば批判されてきた。現実離れしたバービーのプロポーションは、女性に理想の美を押し付け、抑圧しているのだと。
けれども別の角度から見れば、ピンクで彩られたハイパーフェミニンなバービー人形の世界は、女性ジェンダー役割を規範的に再強化するというよりむしろ、クィアな魅力を持っているかもしれない。バービーの美学はクィアの美学でもある——何しろ過剰なまでに煌びやかなピンクの世界観はドラァグ的で、男性型人形であるケンは、あたかもボーイッシュなレズビアンみたいなのだから。
そしてグレタ・ガーヴィグ監督による映画『バービー』は、バービー人形の問題含みな点と魅力を同時に内包している作品である。映画はフェミニスト的で、でもフェミニスト的に大いに問題含みだ。とはいえ、見方によってとびきりクィアではあるかもしれない。
矛盾と問題に満ちた、でも魅力的な映画——要するに映画『バービー』は、いかにもバービー人形を体現する映画なのだ。
さて、『バービー』はフェミニズム映画なのだろうか?
もちろん、部分的にはイエスだ。
本作はバービー人形がその理想の美の押し付けによって、長らく批判されてきたことをよく承知のうえで、バービーランドからバービーが抜け出て、現実を生きる女性たちと同様の困難を経験するところを描いている。それはバービーを「バービー人形」から解放する試みであり、あるいは女性たちを「人形」のような役割から解き放つ試みである。
マーゴット・ロビー演じる「定番バービー」——白い肌に金髪に青い目で、抜群のプロポーション——の主人公は、バービーランドにいた頃、こんなふうに考えていた。バービー人形によって男女平等は促進され、世界はより良い場所になったのだと。きっと世界中の女性たちが自分たちに感謝していて、心から憧れているはずだと。
けれども彼女が現実世界で実際に経験するのは、現実を生きる女性たちがよく知っている類の性差別である。道を歩けば女性の体を暴力的にまなざす視線に遭遇し、下卑た言葉をかけられる。会社の管理職は男性によって占められ、女性を主たるターゲットとした商品を展開する会社でさえ男性たちが牛耳っている。「男らしさ」を身につけた男性たちは、女性たちを自分たちのサポート役であって、そうでしかないと信じ込んでいる。
現実世界はバービーランドではなく、バービーの考えはまるで的外れだったのだ。
『バービー』 ©2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.
物語は、そんな現実世界の家父長制がバービーランドにも持ち込まれてしまい、主人公である定番バービーが現実世界で出会った女性たちの助けを借りながら、バービーランドを取り戻そうと奮闘する様を描き出す。理想的人形であった彼女が生身の女性たちと同種の経験をし、フェミニズムを学び、ままならない現実を生きるようになるまでを描くのである。
したがって映画は、はっきりと次のようなメッセージを内包しているだろう。
女性は人形ではないのだと。太ももにセルライトができたり、気分が落ち込んで死について考えたりすることもあるのだと。だから、現実離れしたプロポーションを手に入れるよう強要されるべきではないのだと。それよりもただ自分の身体をケアするために、婦人科に行ったりだってするのだと。
何よりも「女性=人形」という価値観を強化していると非難されてきた「定番バービー」がたどる道筋は、女性が他ならない人間としてただ単に自分自身でいることを肯定する、とびきりフェミニスト的なエンパワメントなのだった。
『バービー』 ©2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.
人は誰であっても「人形」のように扱われるべきではない。とはいえ「人形」というモチーフそのものは、何も悪いことばかりではないのだ。
それどころか、「人形」はクィアなモチーフとして読むこともできる——たとえば現実世界で下卑た言葉を投げかけられた主人公は、バービー人形はヴァギナを持たないこと、そして男性型人形であるケンもまたペニスを持たないことを公然と言い放つ。
バービーランドのジェンダーは、生まれたときに持っていた外性器の形状によって決め付けられたりしない。ならば少なくともバービー人形は、シスジェンダー女性のみを表象しているわけではない。バービーのうちのひとりはトランスジェンダー女性であるハリ・ネフが演じているが、作中でトランスアイデンティティについて触れられることはない。もしかしたらバービーランドには、シス/トランスを分け隔てる規範などはなから存在しないのだ。
実際、差別的な人々はジェンダーを外性器の問題に還元し、それも生まれたときに持っていた外性器にのみ着目する傾向があるが、あらかじめ性器を欠如した人形たちは、こうしたものの見方を完全に無効化する。バービーたちはヴァギナとは全く無縁の仕方で女性であり、ケンたちもまたペニスとは全く無縁の仕方で男性なのだ。
なおかつ物語は、バービーとケンの異性愛的なロマンスを最後まで毅然と拒絶する。
恋愛に対する関心を見せることがなく、性器を持たない主人公は、とびきりアロマンティックでアセクシャルなキャラクターのようにも思える。あるいは、ケンを家に招き入れるよりも終わることのないガールズナイトを優先させ、常に女性との関係を重視するその姿は、レズビアン的にも感じられる。解釈は分かれるだろう。ただ少なくとも、彼女が異性愛規範のうちに存在しているわけではないことは確かなのだ。
『バービー』 ©2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.
あるいは現実世界で学んだ「男らしさ」を存分に発揮して、互いの肉体を熱っぽく見つめ、男同士で踊り戦うケンたちから、ゲイネスを感じる視聴者もあるかもしれない。またケンたちにただ一人馴染めず、バービーたちと併走しようとし、さらにバービーたちに関心を寄せることもないアランは、この映画のなかで最もクィアな存在だったかもしれない。
すべては暗示に留まっている——ただあらゆる可能性が示唆され、またシスジェンダー中心的で異性愛規範的な部分に回収されることだけは毅然として拒絶しているという意味で、本作はとびきりクィアでもあるのだった。
けれども、映画『バービー』は本当に「誰にとっても」エンパワメントになるだろうか?
映画『バービー』のなかでは、人種や社会階層といった女性内部の差異が取りこぼされ、結果として誰かを抑圧する当の構造は温存されたままではなかっただろうか。ただ一部の特権的な女性たちがこれまで男性が占めていた地位につけるようになったとして、それは本当に性差別の解消につながるのだろうか?
映画では、白人女性型の「定番バービー」たる主人公を、現実世界で出会ったアメリカ・フェレーラ演じる有色の女性・グロリアがサポートし、ケンたちからバービーランドを奪還する。
しかしグロリアの扱いには大いに疑問がある——たとえばグロリアは「定番バービー」が「一番のお気に入り」だったと語るが、なぜ自らとは人種の異なる定番バービーを彼女が好んでいたのか、作中で語られることはない。内面化された美の基準と人種のポリティクスを、本作は取り上げないのだ。もしもその人種的差異が度外視され、とりわけマイノリティ女性がマジョリティ女性のサポート役にのみ徹しているとしたらどうだろう? 「人形」からの解放どころか、ふたたび「人形」に押し込められている人がそこには存在しないだろうか?
あるいは、職業や社会的地位の差異について、映画はどれほど自覚的だっただろう。
物語のなかで、ケンたちの家父長制からバービーランドを奪還したのち、ふたたびバービーたちは要職に復帰する。そして最高裁判事になりたいと語るケンの希望を拒絶するのだ。また表立ってでも陰ででも悪様に言っていた「変てこバービー」に対しては、和解の印として大臣職を与える。
こうしたバービーたちの振る舞いは、映画『バービー』のフェミニズムの限界を明らかにしているかもしれない。結局のところ、ある特定の属性の人のみが社会の権力側に回ること、格差をもたらす構造それ自体は温存されたままなのだから。
『バービー』 ©2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.
たとえば作中では、家父長制が導入されたバービーランドで、本来物理学者であったバービーがビールをサーブしているところを目の当たりにし、主人公がショックを受けるシーンがある。なぜ「そんなこと」をしているのか、と。ビールをサーブするバービーは言う。お飾りって楽しい、何も考えなくていい、脳が永遠に休暇中みたい、と。
そしてそんな主人公に対してグロリアが言うのだ。家父長制に洗脳されたバービーたちは、たとえば16世紀に天然痘にやられた先住民と同じなのだと。要するに免疫がないのだと、そう言うのである。
ここには複数の問題がある——第一に、ビールをサーブしている女性を「お飾り」で何も考えていないかのように表象していること。これは典型的な職業差別であり、特定の女性をふたたび「お飾り=人形」に貶める意味で女性嫌悪的である。
第二に、先住民の被った被害をジョークにしていること。アメリカ先住民の人口は、コロンブスのアメリカ大陸発見以来、実に200年も経たないうちに約95%も減少したという。白人の蛮行がなければ起こらなかった悲劇である。どうしてジョークになるだろう?
第三に、そのセリフを白人である主人公ではなく有色の女性であるグロリアに言わせていること。白人によって引き起こされた悲劇に関するジョークを、有色の女性に語らせることは幾重にもグロテスクである。
このシーンに典型的に現れているのは、映画『バービー』における女性という集団内部の差異への無頓着さであり、性差別以外の差別に対する鈍感さである。
『バービー』 ©2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.
バービー人形は「You Can Be Anything.(あなたは何にでもなれる)」と言う。映画『バービー』はただあなた自身であればいいと言う。けれどもその「あなた」はおそらく白人で、社会的地位が高い人だ。
誰が「人形」から解放され、もしくは誰が「人形」によって解放されるのか? あるいは誰かが解放される一方で、誰がふたたび「人形」の枠に押し込められているのか。
魅力的かつ問題含みの映画『バービー』は、正しくバービー人形をめぐる映画であり、同時に私たちの社会そのものを映し出しているのだ。